心、精神、魂、霊魂   平成12年9月6日 日本海新聞 潮流欄に寄稿
 
いつの頃からか人間は心の持ち方次第だなと気づいた。そして「一切は心より発する」の自戒の言葉を創った。その後出典は忘れたが仏家の悟言に「一切は心より転ず」とあるを知る。般若心経にも心に障りが無ければ一切の妄想から超越出来るとある。華厳宗の唯心偈にも心は巧みなる画師の如しの意の「心如巧画師」がある。若いときに傾注した聖書にも「求めよさらば与えられん」がある。マタイ伝の有名な山上の垂訓に「心の清きものその人は神を見ん」とある。神を見んとは含蓄が深い。どおやら人間を救う宗教の深奥は心にある。
「その敬する、仰ぐ、参る、候ふ、侍る、祭る、己をこれに打ち込む、いわゆる献ずる、自献する心、これを宗教と言う」と言ったのは安岡正篤先生である。
 
心のほむら
その心だが、一体どこにあるのだろう。どんなものなのだろう。コントロールの難しい心は頭脳でもない、心臓でもない。何となく胸のあたりに潜んでいるようではある。健康状態もよく、平穏で冷静に頭脳が働いている時、心は実に広々と豊かで奥行きも深い。心の重心も下がっているようである。家族にも友人にも部下にも隣人にもゆとりを以て望むことができる。処が自分の意に沿わなかったり、心や肉体に不快な刺激が加えられると途端に心は動き始める。コロコロとして自らも心の存在を忘れてしまう事さえ屡々ある。時には頭を通り抜けて心は昇華さえしてしまう。
 
心は気体?
心は気体なのかもしれない。頭脳と肉体と良心とが冷静に連動している時が最高のコンディションのようである。人により心の大きさ、奥行き、重さ、要するに器が大層違うと思われる。重心の位置まで違うらしい。
 
心、スピリット
英語のスピリットの訳語は心とか精神、霊、魂、霊魂である。亡霊と使う場合さえある。日本語になると表現が豊富である。自分の身近な人で生存中にこの世で人の心を感動させる行為があったとする。自己犠牲の涙ぐましい行いで自分を支え尽くしその方のお陰で今日の自分があったとする。その故人の言動を思い起こすたびに故人の生き様が強く甦りその方の心や精神は涙無しには語れない。そこに故人の心と言うか精神、スピリット即ち魂を感じるからだ。故人が生きているようにさえ思う。この状態こそ故人の精神であり霊であり魂なのだと思う。故人がこの世に残した無形の精神的所産が霊であり魂として生存者に恰も生きているように感じられるのだ。

この精神的実体こそ霊魂であり魂と言えるのではなかろうか。だから故人と無関係の人には霊魂は感じられない。殺人者は当該故人と実に深い関係にある。故人の霊魂は殺人者の中に強く生き続けているに違いない。霊魂とはこのようなものではあるまいかと思った矢先、平成6年9月19日のテレビで稲荷山古墳発掘の話を妻から聞いた。埋葬者は雄略天皇に近い方らしい。実に素晴らしい金文字入りの刀剣を発見し発掘した人が手にした瞬間、一天俄にかき曇り雷鳴が轟いたと言う。霊魂との関係でこれをどお考えるか。霊魂に関する私の不遜な考えはこれで振り出しに戻ったように思った。
           
           鳥取木鶏クラブ 代表 徳永圀典