徳永圀典の「日本歴史」12月 日本の中世
平成18年12月
1日 | 武士の時代 |
平安時代までを古代、そして次の鎌倉時代から近世は江戸時代直前の安土桃山時代頃までの13世紀から17世紀初頭までが日本の中世である。 |
約400年間で、武士が台頭し力を伸ばした時代である。 |
2日 | 鎌倉幕府 保元の乱 |
保元元年、1156年、後白河法皇と崇徳上皇の間で皇位継承を巡る激しい対立が生じた。藤原氏も、兄弟の争いがもとで、二手に分かれて加担し、遂に戦闘の火ぶたが切って落とされた。保元の乱である。 |
戦乱としては規模は大きくはないが都を舞台にした天皇と上皇の争いに、武士が大きな力を発揮したことから、この乱は武士が政治への発言力を増す転機となった。藤原氏の僧である慈円の書いた愚管抄(歴史書)ではこの乱から「武者の世」に移ったとしている。 |
3日 | 平治の乱 |
保元の乱の後、源氏と平氏の対立が深まる。平治元年1159年に争いが起こった。これにより平清盛が源義朝を破り、平氏が武士の中で最有力な勢力にのし上がった。 |
平清盛は、後白河上皇との関係を深め力を蓄え、武士として初めて朝廷で最高の地位である太政大臣になった。 |
4日 | 平清盛 |
平清盛は藤原氏と同様に娘を天皇の后とし、生まれた子供を天皇に立て、その外戚となり大きな権力を我が物とした。一族も多数、朝廷の高位につき、更に権力を高めた。多くの荘園を手に入れ、全国の半分近くの地方を治める権限を握るまでに至る。 |
清盛は、大輪田泊(神戸)を整備して宋の商船を招くなど日宋貿易に尽力し莫大な利益を得た。こうして平氏は、平氏の一族でない者は人ではないと云われる程に栄えた。 |
5日 | 源平合戦 |
平氏の繁栄は長くはなかった。平氏は後白河上皇と対立を深め、その院政を停止して清盛の娘が産んだ安徳天皇を皇位につけた。 |
すると後白河上皇の子である以仁王がこれな反発、彼の呼びかけに応えて各地の武士が次々と平氏打倒の兵を挙げた。 |
6日 | 源頼朝 |
兵を挙げた武士の中で特に強大なのが源義朝の子の源頼朝の勢力であった。彼は鎌倉を根拠地として関東の武士と主従関係を結び関東支配を固めた。 |
一方、朝廷の命を受けて弟の源義経らを派遣し平氏討伐に当てた。義経らは安徳天皇を奉じて都から落ち延びていた平氏を各地の合戦で討ち、文治元年1185年、遂に壇ノ浦( |
7日 | 頼朝の周到さ |
平氏滅亡後、頼朝は朝廷の承認を受けて、地方の国ごとに守護を、荘園や公領には地頭を置いた。守護は、その国の武士を指揮して軍事・警察の仕事につき、地方政治にも関与した。 |
地頭は、年貢の取立てや、土地の管理などをした。また、頼朝は対立するようになつた義経が奥州藤原氏のもとに逃れると、その勢力を滅ぼして東北地方も支配下に収めた。 |
8日 | 鎌倉幕府の成立 |
建久3年、1192年、後白河上皇の没後、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。 |
征夷大将軍は元々、蝦夷を討つ朝廷の軍の指揮官のことであったが、頼朝が任命されたことで、全国の武士の総大将の地位を表すこととなった。 |
9日 | 封建制度 |
頼朝は鎌倉で、将軍とその家来である御家人の主従関係により成り立っていた。御家人は将軍から伝来の領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなどの御恩を受け、その代わりに将軍に忠誠を誓い、戦の時には命をかけて戦って奉公に励んだ。 |
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10日 | 執権しっけん政治 |
頼朝の死後、幕府の主導権を巡る争いで有力な御家人が次々と滅び、遂に頼朝の妻・政子の生家である北条氏が実権を握った。 |
源氏の将軍は、三代目の実朝が暗殺されて途絶え、その後は、京都から藤原氏や皇族などを迎え、名ばかりの将軍にした。北条氏は家柄が一御家人に過ぎなかった為に将軍になれず、将軍を補佐する執権という地位について幕府の政治を動かした。これを執権政治という。 |
11日 | 承久の乱 |
当時、京都で院政を行っていた後鳥羽上皇は朝廷の勢力回復のため、承久3年、1221年、北条氏を討つように全国の武士に命令をだした。 |
然し、多くの武士は幕府側に結集し、瞬く間に朝廷軍を打ち負かして京都を占領した。これにより後鳥羽上皇は隠岐島に流された。これが承久の乱である。 |
12日 | 六波羅探題 |
承久の乱の後、幕府は京都に六波羅探題を置き朝廷を監視した。西日本にも幕府の勢力が広く及ぶようになった。 |
武家の権力は大きく拡大した。だが幕府は朝廷を国の仕組みの頂点とする形式は変更しなかった。武家の実力が伸びても国家統治の正統性を保つ為に朝廷を蔑ろに出来なかった。 |
13日 | 御成敗式目 |
貞永元年、1232年、執権の北条泰時は、武家社会の慣習に基づき、初めて武家独自の法律である「御成敗式目」(貞永式目)を定めた。 |
これは御家人に裁判の基準を分りやすく示すためのもので、後まで武士の法律の基本となった。 |
14日 | 武士の暮し |
鎌倉時代の武士は、普段は自分の領地に住み、荘官や地頭となって農民を支配していた。 |
塀や土塀をめぐらした屋敷を構え、常に弓矢や乗馬などの武芸の訓練に励み質素に暮していた。 |
15日 | モンゴル帝国 |
13世紀初頭、チンギス・ハンによりモンゴル高原に建国されたモンゴル帝国は、不敗の騎馬軍団を各地に侵攻させ、瞬く間にユーラシア大陸の東西に跨る空前の領土を持つに至った。 |
チンギス・ハンは国を滅ぼすこと40ヶ国、人を殺すこと数百万に及んだ。この帝國の勢力はヨーロッパにも聞こえ人々はモンゴル人を恐れた。ただ東西の繁栄する文明を支配したので東西文化が交流する舞台を提供したことにもなつた。 |
16日 | 元 |
モンゴル帝国五代目フビライ・ハンは、大都(北京)という都を作り、国号を中国にならって元と称した。やがて朝鮮半島の高麗を属国とした。 |
更に、宋を倒して中国全土を支配するようになった。東アジアの世界はモンゴルの強大な拡大勢力の前に全て飲み込まれようとしていた。 |
17日 | 元寇 |
フビライは東アジアに勢力拡大中、遂に東方に独立を保っていた日本も征服することを企図した。先ず、日本に度々使者を派遣して元帝國に服属するよう求めた。 |
その使者の持参した手紙の内容は日本を見下して「もし云う通りにしなければ武力を用いることになる」と脅迫するものであった。然し、朝廷と幕府は一致してこれを拒否しはねつけた。 |
18日 |
北条時宗と文永の役 |
幕府の執権、北条時宗を中心に、早速、元の襲来に備え始めた。元は大軍で二度に亘り日本を攻めてきた。一度目は文永11年1274年、約3万の兵が900 |
元は、対馬・壱岐を占領して、更に九州北部の博多湾に上陸した。迎え撃つ幕府軍は苦しんだ。その戦法は、太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、毒を塗った矢と火器を使って攻めるというものであった。日本側も抵抗は強く元軍は日没と共に船に引き返した。その夜、突然発生した暴風雨に遇い元軍は退却した。 |
19日 | 弘安の役 |
弘安4年、1281年、14万の兵が4400隻の船に乗り九州北部に迫った。然し、博多湾岸に石塁を築くなどの防備もしたり、充分な準備をした日本の武士が勇戦して元軍の上陸を阻んだ。 |
日本軍は夜の闇に乗じて敵船に乗りつけ、さんざん斬りまくったあげく、船に火をつけて引き上げた。 |
20日 | 弘安の役2 |
こうして元軍が九州本土に攻め込まないで海上に留まっている処に再び暴風雨が襲来したし更に日本の攻撃が続く。その結果、元軍は大打撃を受けて敗退した。 |
元軍は軍勢の四分の三を失い無事に帰ったものは3万人に満たなかったと云われる。ここうして日本は独立を保つことができた。この文永・弘安の二度亘る元軍の襲来を「元寇」という。シナによる日本侵略である。 |
21日 | 神風 |
強大な元軍が二度に亘る日本襲来はなぜ失敗したのか。元軍は海を渡っての戦闘に慣れていなかった。また大軍の中には、高麗や宋の兵も多く混じっており内部不統一であった。 |
また、日本ではこの危機に対して朝廷と幕府が一致協力して対処し、特に幕府の統制の下で武士が勇敢に戦った。更に二度に亘る暴風雨は日本を勝利に導き、その後も神の力による神風と信じられて |
22日 | 元寇後の幕府 |
元寇は、どの戦争でもそうであるように、幕府を支える御家人に多くの犠牲を支払わせた。外国との戦いであった為に、新しい土地の没収をしたわけでもない為、武士に充分な恩賞を与えるこことが出来なかったのである。それにより御家人たちの信頼を失った。当時の戦闘には褒賞という土地が必要であった。 |
御家人たちは兄弟による分割相続の繰り返しで領地が次第に狭くなり生活の基盤が弱まった。その上に商工業の発達と共に武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなって一層貧しく、領地を質に入れたり売ったりする者も現れた。 |
23日 | 徳政令 |
幕府は御家人を救う |
そして経済も混乱し幕府の信用も低下した。このように鎌倉幕府の支配も陰りをみせ始めた。 |
24日 | 仏教の変貌 |
12世紀になると、仏教は貴族たちの狭い世界から下級武士や庶民たちへと広がって行きた。浄土宗を開いた法然は、平安時代に貴族の間に広まっていた浄土教の教えを徹底して念仏さえ唱えさえすれば誰でも極楽往生が約束されると説いた。 |
弟子の親鸞は、法然の教えを発展させて、浄土真宗(一向宗)を広めた。 |
25日 | 庶民の仏教 |
一世代後の一遍も念仏を唱えるだけで凡ての人々が救われると説き時宗を開いて諸国を巡り、踊り念仏を行った。 |
日蓮は法華経に基づき、題目(南無妙法蓮華経)さう唱えれば、そのまま仏になれるし国家も救われると説いて日蓮宗(法華宗)を開いた。 |
26日 | 知識人の仏教 |
宋に渡来した栄西や道元は禅宗を伝え、栄西は日本の臨済宗を、道元は曹洞宗を開いた。念仏や法華信仰が庶民や地方武士の支持を受けたのに対して禅宗は宋から伝来しし知識人の間に広まった宗教であった。 |
禅宗はひたすら坐禅することにより悟りを得る教えである。鎌倉では二代将軍頼家や北条政子が支持 |
27日 | 武士と文学 |
武士や民衆が力をつけてきた鎌倉時代になると、これまでの貴族文化に加えて武士の気風を反映した力強い文化が生まれてきた。 |
文学では合戦の様子などを力強く描いた軍記物、語り伝えられた物語を集めた説話集などが作られた。保元の乱を描いた保元物語、平治の乱の平治物語など、武士の勝利と貴族の没落が示されている。人物を見事に描いた優れた作品である。 |
28日 | 物語 |
盲目の琵琶法師により各地に語り広められたのが平家物語である。平氏の繁栄と没落のさまを描いてはいるものの、勝利した頼朝の戦いを讃えているものではない。戦いの中で苦悩する人々の姿を伝えたのである。 |
今昔物語のような説話文学からは民衆の生き生きとした生活の様子が窺える。 |
29日 | 新古今和歌集など |
公家の中では和歌が愛好された。後鳥羽上皇は藤原定家らに命じて新古今和歌集を編集させた。その作風は時に技巧に走り過ぎる処もあるが、万葉集や古今和歌集よりも更に洗練され、繊細さと哀愁の情が強い。 |
随筆では、歌人の鴨長明が方丈記、歌人の吉田兼好が徒然草をあらわし、共に時代の儚さと人生の無情を綴っている。 |
30日 | 鎌倉の美術 |
源平の戦いで、平氏の焼き討ちにあった奈良の大寺院では、建築や仏像の復興が進められた。東大寺の南大門は、宋からの新しい様式を用いて再建され、両脇に巨大な金剛力士像が安置された。 |
宋の建築様式は禅宗寺院にも採用された。仏像の制作に参加した運慶は、写実的で力強い像を作った。その代表作は、興福寺にある無著・世親像で、夫々威厳と悲しみの表情を湛えた優れた肖像彫刻である。 |
31日 | 運慶一派 |
仏師としては、運慶の子である湛慶や康勝、父の康慶や、康慶の弟子の快慶・定慶などが優れた作品を残している。京都の妙法院三十三間堂に残る、婆薮仙人や摩和羅女の像は、年老いた日本人の顔に浮かぶ、忍耐心と深い明るさ、仏を敬う心をよく現している。 |
運慶たちは、天平時代の古典彫刻を研究した成果をふまえて、作品に写実性と運動感を与え、仏教彫刻に新しい風を吹き込んだのである。 |