安岡正篤先生語録 12月 「人間」特集 

平成18年12月

 1日 化身
(けしん)
我々の命をよく運命たらしめるか、宿命に堕さしむるかということは、その人の学問修養次第である。人間は学問修養しないと、宿命的存在、つまり動物的・機械的存在になってしまう。

よく学問修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。人間は自分で自分をいかようにでも変えることができる、これを化身という。

東洋哲学講座より

 2日 命は
「みこと」
命を正しく解して、自ら省みて人を咎めず、棺を蓋うてこと定まる、百年知己を持つ、いな、それよりも天を相手として努力することを「知命」、「立命」という。

命を知り命を立つる人を「みこと」と言って命という字を適用する。「みこと」をまた「(みこと)」とも書く。日本人の祖先はみな(みこと)であり(みこと)であった。現代人は実に祖先を(はずかし)むる者である。いずれも単なる「物」に堕している。

経世瑣(けいせいさ)(ごん)より

 3日 運命 運命はわからぬというのが本当である。生はわからぬ。生きねばわからぬ。わかることは生きることである。運命に(したが)って運命がわかる。その運命は不断の()である。大化である。

その(すう)・その理を知って、生き化してゆくのが易であり、易学である。若いうちから(わる)(かた)まりせず、五十にして四十九年の非を知り、六十 にして六十化するのである。海老(えび)は死ぬまで殻を脱いで常に溌剌(はつらつ)としておるから、永遠の若さの象徴として珍重される。易学入門

 4日 禍福 人間のことは複雑なもので、始終人間は幸福を追求して止まない。ところが何が幸福かよく分かっていない。分かれば分かるほど分からぬものです。

禍いかと思えばそこに福が()っている。禍いの中に福が含まれている。福かと思ったら、その中に禍いがかくれている。たれがその極致を知っていましょうか。その極致になると到底人間の予測など許さない。
東洋学発掘より

 5日 沈潜の人 本当に立派になる人間は必ず「良く沈潜」する。障害にぶつかった時、挫折したり、すぐに回避したがる人間は、世の中へ出るとすぐに売名行為とか利益追求とかも何か社会活動を派手にやりたがる。

そんな人間はいったん障害にぶつかるとすぐに萎えてしまう。どこまでも沈潜していく人でなければいかん。
孟子

 6日 風韻・流風余韻 どんな難局に処しても、どんな逆境に立っても、よろしい。自分はあえて厭わん、俺は俺の道を歩んで行く。
立派に新しい境地を自力で開拓して行くという悠々たる概というものと、よほど志気を養わないと出てこない。

これが出てくる、そうすると、そこにはおのずから風韻、風格、風致というものが生まれてくる。人間としてのあかが抜けてくるのであります。性命的に一段と完成の域に達してくる。人物のどこかに風韻がある、流風余韻があるというふうになってくれば、これはよほど出来てきたのである。
人物・学問より

 7日  立処(たつところ)(みな)(しん) 人間はいかなる不遇にあっても、いわゆる「随処に主と()る」だけの自由を持つことができれば、たしかに「立処(りっしょ)(かい)(しん)」であっていかなる境地に立ってもそれぞれに意義がある、決して無駄ではない。

その意味でも、王陽明先生にとって貴州流謫(きしゅうるたく)はあるいは天与の磨練であったのであります。

王陽明より

 8日 全節 古来、節を(まっと)うす、全節ということ、特に晩節を大切にすることを重んずるのは尤もなことである。

仕事も出来、地位も上がるに従って、人間は益々欲も出れば、誇りも生じ、執着も強くなって、その反対に後進を軽視し、不満が多くなり、また先輩を凌ぐ態度や行動も出がちである。これは叛逆にも通ずる。あさましいことである。
東洋的学風より

 9日 求道者 要するに、少数の真剣な、求道者のみが時勢の運命を徹見(てっけん)し、社会を善導することができるのである。能く一隅を照らす者にして始めて、能く照衆・照国することもできるのである。微力をあきらめてはならぬ。 (れい)に耐え、()に耐え、(はん)に耐え、(かん)に耐えて、(げき)せず、(さわ)がず、(きそ)わず、(したが)わず、自彊(じきょう)してゆうこう。
人と思想より
10日 窮すれば通ず 日本は底知れぬ堕落をした。しかし「窮すれば通ず」の理で、精神さうしっかりすれば、必ず運命は開けるのです。すべては立志と、人物の如何です。今までのような精神性のない、低級な享楽的・功利的惰民ではもう何も生まれません。

日本の政治・経済・教育等々、今は生死関頭に立つといってもよいので、これを救う道は唯一つ、慨然として精神的に立ち上がる指導者たちの輩出です。身を挺して修養努力する先覚者、指導者を一人でも多く出す以外に救いはない。
運命を創る

11日 無限の創造 運命とは無限の創造であり進化である。「造化」である。だから真の命とは宿命観ではなく、立命観即ち命には義命、意義がある。

運命の義を知って、運命をrecreate(再創造)していくことで、これを知らないで必然的・機械的に縛られる宿命観にとどまるべきではない。
酔古堂剣掃(すいこどうけんそう)より

12日   エリートの三柱 帝王学とは、人の上に立つものがどうしても身につけていなければならない学問、つまり「エリートの人間学」であり、その基本は三つの柱から成り立っている。

@原理原則を教えてもらう師を持つこと。
A直言してもらう側近をもつこと。
Bよき(ばく)()(直言してくれる在野の人物)をもつことである。

男子志を立つべしより 

13日 不朽の境地 俸禄や、地位や、権勢や、名聞に、俗人は熱中するけれども、そんなものは実は却って道の真を失い、生命を傷つけ、生活の煩累(はんるい)を増やすに過ぎない。

それより簡素な生活に甘んじて、書を読み、自然を楽しんで、優遊自適する方が、身の健康にも善く、心を永遠の境に馳せることも出来、大きな目から観れば、その方がどれくらい天下国家の為になるかも知れぬとする。是れまた一不朽の境地である。
東洋政治哲学より

14日 微力を諦めない 時代を正しく変革するきっかけと原動力はカレル(Alexis Carrel)の言うとおり、一般の俗習と甚だ異なった信念、思想、戒律を持った少数の男子や女子の同志団体、この種のグループのおかげなのである。

いくら、わいわい大勢を集めてデモなどやってみたところで、正しい時代の創造、変革というものは決してできるものではない。むしろ個人個人の個性に徹してゆく信念や、切磋琢磨、その少数のグループというものが必要なのである。それがある時期がくると大きく変化する。全局を動かすようになる。人間維新より

15日 青年 おとなを恥じさせるような純真さ、若々しい情熱と気魄、不羈奔放に理想と寝食も忘れる勉強ぶりをもって偉大な人物に私淑する。

そして万巻の書を読み、師友を求め、名山大川に遊び、酔生夢死にあきたらず、何か感激に死のうとするような、やむにやまれぬ魂こそ青年の尊い精神である。
経世瑣(けいせいさ)(ごん)

16日 名士・迷士 人間も木と同じことですね。少し財産だの、地位だの、名誉だの、というようなものが出来て社会的存在が聞こえてくると、懐の蒸れといっしょで、いい気になって、真理を聞かなくなる、道を学ばなくなる。つまり風通しや日当たりが悪くなるわけです。

「名士というものは名士になるまでが名士であって、名士になるに従って迷士になる」などと申しますが、そうなるとつまらぬ事件など起こし、意外に早く進歩が止まって、根が浮き上がり、倒れてしまう。実業家、政治家、学者、芸術家と称する者を見ても、およそ名士というようなものはそういうものであります。
論語の活学より

17日 無名有力 大体、人間は案外成功すると無力になるものです。有名になると無力になるものです。かえって無名であることが有力であることが多い。私は絶えず有名無力、無力有名と言うことを言う、特に若い人によくいう、君たちは決して有名になろうとしてはいかん。

有名は多く無力になる。そうではなく、無名にして有力な人になることを思ったらなるべく無名でおることを考えなければならん。有名になつたらもう何もできなくなるのです。
安岡正篤先生講演集より

18日 気骨 骨に気を載せると「気骨」。気骨がない人は、どうにもならない。気骨のない人間というのは平和で機械的なことをやらすことはできますが

一朝事が起きて、誰か責任をもつてやらなければならない非常時には、だらしなく役にたたないものです。骨力とか気骨は人間の根本的要素で、人格の第一次的要素であります。
運命を創るより

19日

君子自彊(じきょう)して()まず

大志を持てば持つほど、自己の教養、自己の人物の錬成ということに活眼を開かぬというと、空疎な人間になってしまう。言うこと、為すことは盛んなようで、実は 人を誤る、世を誤るということになる。

生々(せいせい)化育(かいく)造化(ぞうか)の本質に(したが)ってそれこそ「君子(くんし)自彊(じきょう)して息まず()」(立派な人間は自ら強め励んで一刻も休むことがない)、絶えざる進歩でなければならん。
心に響く言葉より
 

20日 発憤(はっぷん) 発憤(はっぷん)は言い換えれば、感激性というもので、これは人間にとって欠くことのできない大事なものである。ちょうえど機械で言えば動力、エネルギーのようなものです。どんな優秀な設備・機械でも動力が無ければ動かない。

発憤(はっぷん)は人間の動力であり、エネルギーである。従って発憤(はっぷん)のない、感激性のない人間は、いくら頭が良くても、才があっても、燃料のない機械・設備と同じことで一向に役に立たない。
論語の活学より

21日 真の元気 真の元気というものは、通用語でいいますと志気といいます。今日の言葉なら理想精神であります。一体元気も即ち吾々の活力、気魄というものは創造力でありますから、生みの力、大和(ことば)でいうならば(さん)(れい)の力である。

そこで常に何物かを生む力、為すある力、有為(うい)の力である、これは必ず理想を生んで来る。元気が旺盛になる時には必ず理想がある。
危機静話(せいわ)より

22日 気概・信念 いつの時代、どの国家、純真な精神と真剣な学問信仰に生きた人々は、その時代と俗衆の退廃や迫害に悩みながら毅然としてその信念を深めた。

「天下これを信じて多しとなさず、一人これを信じて少なしと為さぬ」信念気概を以て、少数の同志者との切磋琢磨に力めたものである。これこそあらゆる独創性の源泉であり、偉大な行動建設の出発点であった。
伝習録より

23日 (せい)(けん)

静が元で、静から動が発する。静が根本的なものであり、われわれは身を修めるのに静を以てする。そして濫費(らんぴ)しないということ、つまり統一・統括する。内に蓄えること、これを倹という。

人間は余り欲望享楽をほしいままにしたら、生命のエネルギー、精神エネルギーが駄目になる。徳が特に損なわれる。これを敗徳、徳が(やぶ)るという。人間が修養するのには、(せい)以て(もって)()修め(おさめ)(けん)以て(もって)(とく)養う(やしなう)ということが大事だ。人間維新より

24日 ヴアイタリティ、メンタリティ 人物たることの基本条件の一つは、やはりこのヴアイタリティ(Vitality・活力・生命力)、メンタリティ(Mentarity、精神性)というものに富んでいるということであります。 知識や技術が少々あっても使えはするが、人間としてはつまらぬ。といって力が徒らに外に暴露しているようないわゆる客気(きゃっけ)暴力はいけない。暁鐘(ぎょうしょう)より
25日 世の中にもし友というものが無いならば、生き抜ける人は非常に少ないであろう。世に容れられず多くの人々から無視されていても、幾人かの人々あるいは一人でもよい、否、唯一人ならなおその感が強かろう。

自分を認めてくれる友があったら、それほど嬉しいことはないであろう。むしろ人々から離れて、却って友は得られるものかもしれない。
活眼・活学より

26日 精神集中 われわれの人生、生活、現実というものに真剣に取り組むと、吾々の思想、感覚が非常に霊的になる。普段ぼんやりしていて気のつかぬことも、容易に気がつく。

超現実的な直覚、これが正しい意味における形而上学(けいじじょうがく)というものであります。やはり人間は精神を集中して、全身全霊をなにものかに打ち込まなければ、精神も磨かれないし本当の力も発揮出来ない。
論語・孟子・禅より

27日 後顧の憂い 我々は前進しようと思ったら、いつでも後顧の憂いをなくなさければならん。少なくとも後顧、後をよく吟味して、いかにして、かくあるか、ここまできたか、ということに安心がなければ前へ向かって堅実な歩みを進めることはできない。

歴史というものは、いや未来というものは、過去の歴史によって作られるのである。前途、未来を照らす一番確かな鏡は過去であり、歴史であるということは、もはや常識になっている。続人間維新より

28日

徳は精神の最高位

人間の精神の最高位のものは徳性であります。雨に濡れてぶるぶる震えている子供がいる。
或いは親にはぐれてしくしく泣いている子供がいる。

そういうのを見て、あなたはどう思いますか。ああ、可哀そうに、と不憫(ふびん)に思うでしょう。惻隠(そくいん)の心ですね。それは人間だけが持つ心なのです。そういう心が徳なのです。人物の条件より

29日

本当の人間・本当の自分

禅とか陽明学とか言っても、何も珍しいことではない、ありふれたことなのです。それは本当の人間になることである。本当の人間を知ることである。

ということは、本当の自分を知ることであり、本当の自分をつくることである。本当の自分を知り、本当の自分をつくれる人であって、初めて人を知ることができる。人をつくることができる。国を知り、国をつくることもできる。世界を知り、財界をつくることもできる。活学・第二編より

30日 (めい)は絶対 人間の考えるような、何ものに依ってでもない、何の為でもない、天・造化・絶対の作用を「(めい)」という。生は生命であり、性命である。何故、何の為に生まれたかなどは心の問題で、物思うということも、何故、何の為に物思うかではなく、物思う、即ち、我れ在り(cogitoergosum)我在り、即ち、物思うのである。

長者の言いつけ、国家の法令は不服を許さない絶対的なものであるから命令である。この子はかくなければならぬ、こうさえあればよいのだという絶対的意味で名をつけるのを命名という。易学入門より

31日 本当の男 大体、大丈夫は女に好かれるようではいけない。これは普通の人間の考えと反対ですが、そもそも大丈夫は、それくらいの気概がなければならない。

男と生まれて金を欲しがったり、名誉をほしがったり、地位を欲しがったり、女を欲しがったりするようでは、まだ器量が小さい。金や地位で男になるようなのは、まだ本当の男ではない。そんなものは皆、人に任せて、堂々と世に立てるこそ真の大丈夫です。
運命を開くより