徒然の抄

徒然草は吉田兼好である。兼好は、つれづれなるままに、と筆を起こし、種々の思索や随想や見聞を記した我が国随筆文学の白眉である。私はこのホームページでも、色々な随想やら、経済、金融問題、政治等々を論じているが
この徒然の抄思いつくままの私日記的なもので、他愛無い思いを断片的に、時折書き連ねてみたいというものである平成14年12月1日 徳永圀典

平成14年12月1日 日曜日
 

早いもので師走を迎えた。今年の秋は紅葉の色づきも思わしいものでなく、期待はずれは全国的であったろう。秋があっというまに過ぎ去った事と無関係ではなさそうだ。そう言えば今年も、春を楽しみその余韻を味わう間もなく一挙に夏になってしまった。春夏秋冬というのは、日本人の感性、情緒を深めるのに意味深いものがあり、文学も詩歌も絵画など芸術面に多大な影響を与えて日本人らしさを齎したものと思われる。四季の感覚が減殺され日本人が変質して行くような不安を覚える昨今である。

平成14年12月8日 日曜日

日本人はどうやら日本人らしさを忘れ去ろうとしているやに見える。言葉は民族の精神を現すと思う。明治4年に欧米国民をして、2千年の文明国と言わしめた、連綿として培われた日本の言葉が失われようとしているのは痛恨の悲劇である。何とかしなくてはと切歯扼腕の思いの日々である。その日本人らしさを20年以上前の生活ドラマなどから伺える。ほのぼのとした、つつましい生き方をしていた日本人。昔日への思いがつのる。現代は余りにも物質的になりすぎているようだ。日本人とは、どんな生き方をして、どんなイメージであったろうか。ざっと次のように思い浮かぶままに記してみた。

1. つつましさ   2. すがすがしさ   3. やさしさ 4. しとやかさ   5. 折り目正しさ 
6. まじめさ 7. きよらかさ 8. はじらい 9. いつくしみ 10. きめこまかさ 11. 誠を尽くす 
12. 公のために 13. 恥を知る   14. 律儀さ 15.恩を忘れない 16. 先祖を大事にする
17. 目上の人を敬う 18.質素 19.人様にご迷惑をかけない  20. 使命感を持つ

平成15年元旦 
新年おめでとうございます。今年も宜しくおねがいします。


月並みだが、やはり元旦を元気で迎えることが出来たとは有り難いことである。光陰矢の如しだが、それでも365日生き続けてきた訳で、物騒な世の中、在り難いことである。
私が7-8年前から、犬の遠吠えのように、不良債権問題やら政治問題を論じて憂国を叫んできたが、日本国の政治家は決断をしないまま、バブル崩壊後10年、遂に剣が峰に追い詰められた。私は今年が、良くなるにしても、更に悪くなるにせよ今年で明快に日本の将来が決まると思っている。
ことしの晩秋には翌年の予算が順調に組めるのであろうかとさえ思う。
イラク、そして何より北朝鮮、えらい年となりそうだが、こんな時こそ、日々何とか元気で暮らせるだけでいいと思う。
毎朝、元気で目覚めたら、有難う。粗食でいい、三度三度の食事を美味しく頂けたら有難う。美味しいコーヒーを飲んだら有難う。風呂にいい気分で浸かったら有難う。暖かいお蒲団で休めたら有難う。今日一日無事に過ごせたら有難う。
聖書にあった、野の鳥を見よ、明日の事を思い煩うな、を思いだす。
年初から寂しい話となったが、敗戦後60年、矢張り干支と同様60年サイクルで世の中も循環するようだ。これが現実だ。日本も愈々、抜き差しならぬ正念場、経済も、安全保障も、そして生死にかかる真剣な事態に遭遇する。

平成15年2月1日  旧暦2月きさらぎ 朔 

早や、きさらぎ、如月を迎え立春もまもない、今年は2月4日のはずである。この寒さに着た上に更に着るから
衣更着というらしい。-ついたち-は陰暦1日で月の見えない日。
立春といえば我が家では、日光に輪王寺という寺があるが、20年前からそこのお札を毎年頂いてきた。不思議なもので、それを立春の日の午前0時に新しいものと交換しなくては新春でないようなこととなってしまっている。その立春から88日目が新茶摘みの5月2日の八十八夜、節気というのも陰暦が本当だが農耕民族の知恵を感じる。
厳寒の1月も半ば過ぎると、日中の陽射しが何か少し明るくなったような、陽射しに暖かいものを感じるようになる。この微妙な四季の変化を感じるのは年をとったということなのであろう。冬至から約1ヶ月半たてば確かに太陽が地球に近づいている。然し、寒さはこれからであるが、やがて山々に早春が感じられるようになるのも直ぐだ。若い芽が徐々に新緑となってくる楽しみが控えている。厳寒は厳寒らしい楽しみを求めていこう。この11日には三重県の
学能堂山(海抜1022米)に登山し樹氷や霧氷を楽しむ予定にしている。人生は立ち向かって、戦って生きて行くものだと思っている。

平成15年3月1日 

陰暦3月の異名。やよい、弥生、日本の言葉は麗しい。語源は、草木が弥が上に生い出ずる弥生の意を示すという。この6日は所謂、啓蟄、虫が地中からムクムクと頭を出す啓蟄。春分は3月21日と二月節も春気を帯びてきた。弥生の語感から弥栄も連想する。弥が上にも栄えをとの願望の弥栄-イヤサカ-もいい言葉だと思う。この日本の言葉の持つ感覚が分からない若い人が増えつつあるのは寂しく嘆かわしい。万葉集を初め古今集など短歌の持つ風情は日本独特で、はっきり言わないで相手に伝える情緒の世界が、ビジネスとか市場経済の米国式に翻弄されて影が薄くなりつつある。日本のよき時代が遠くなるようで、実に情けない。これは私だけの感傷であろうか。大切にしたい日本の情感である。これから5月にかけて新緑の燃え出ずる春、生命の復活、大自然、造化の世界の大ドラマが始まる。私の最も好きな季節の3月である。

平成15年4月1日
桜花爛漫の、待ち遠しい4月。私の誕生月という訳ではないが、なぜか4月がこなくては年が本当に明けない気がする。当地の今冬は予想に反して積雪は少なかったが寒い冬であった。それだけに陽春が待ち遠しい。春は間違いなく到来するのに、人間社会は人為的だ。イラクの戦争、民主主義国であればフセインのような結末にはなるまいに。独裁政権の末路は哀れだし民を不幸にする。まだ王制国家のほうが人間的、道徳的である。タイなど王様を尊敬し国の秩序は安定している。日本など世界に稀な天皇様が人間としてのご努力で国家のシンボルとして、人間の域を越えた素晴らしい役割を歴史的に果たしておられる。この事の重要性を日本人はシカと確認しなくては不幸になる。

平成15年5月1日  皐月雑感
皐月、さつき、5月の山々は関西以西では新緑が溢れるように生命の讃美をしている。私は月に数回関西方面の山々に登る。六甲山系は日あたりがいいのかツツジの花が早い。芦屋・夙川の裏山は鳥取の山と異なり垢抜けている。若いときに、縦横無尽に登山した故か、六甲山は私には故里のようだ。鳥取でも私の生地の用瀬の日あたりのよい愛宕山は4月中頃には全山満開で国道53号線で鳥取に向う人々の目を楽しませている。このツツジの花は珍しくはないのだが、実にこの季節に似合う。六甲山は風吹岩あたりのツツジは華やかで清潔で新緑と実によく映える。この5月は、鳳凰山の風景を想起する。山頂の雪、中腹の花模様、裾野の緑と美しく、大声で叫びたい思いがする。やがて、北上して日光戦場ヶ原、小田白原、さらに奥入瀬、十和田湖、八甲田山が素晴らしい新緑となるのが眼に見えるように描ける。例年通り、5月には東北を訪問してみたいという思いがつのってきた。

平成15年6月1日 みなづき 
みなづき、日照り続きで水無し月とも、田に水をはる田水とも言うらしい。早や入梅の季節を迎えた。歳月とは、恐ろしく早いものだ。寒い寒いと思ったのも束の間、芽吹きを待つ事久しい思いも、今や新緑も日々に色濃くなりつつある。人間の命も徐々に確実に、大宇宙の命の一つとして、滅びへと進んでいるのであろう。その人間、私は人間を構成しているのは、知・情・意、中でも情こそ人間の基本であると思っている。
先日、偶然に、次ぎのような言葉を知った。過去の私の世界からほど遠いものである。
それは永井荷風「秋の女」の言葉らしい。
「女性の日本の伝統美のゆかしさと懐かしさは、その形ではなくしてその情操によるものです。ものの哀れを知るに鋭く、あきらめを悟るに浅からぬことではありませんか。」
「肉の底に根を張っていない恋いは,摘まれた花瓶の花に等しい。」
永井荷風「歓楽」、等に見る情の世界である。


永井荷風とか谷崎潤一郎の世界は、私と全く無縁であったが、私の言ってきた、人間の基本は情であるとは異なる情の世界があり、そこにこそ人間本来の真実の情の世界があるのかもしれないと思えるようになった。
 
平成15年7月1日
 ふづき
七夕に詩文を書いて送るから文月というらしい。優しい日本人の習慣であり情趣である。この風情が騒然とした日本となり消え失せつつあるようで悲しい。私は書店で、ふとした事からある雑誌に次のような詩であろうか、語りかけるような文章であろうか見つけてその断片を書き残していたものがある。
この詩の作者は、なんという、やさしさ、溢れるような愛を感じさせるお方であろうか、その語りかけに心を打たれた。新芽の芽吹く頃、シャガとあるから森林近くか渓谷か山野を独りで散策中なのであろうか。ご自分の幼い子供への囁きであろうか、家族へであろうか、それとも思うお方への語りかけなのか、心豊かな優しさが窺える、心の呟きなのであろう。その情景が手にとるように
浮かぶ。
      ・・・横にいるようで心で語りかけました、
      ほら、「シャガきれいに咲いてるわ」
     「何ていう小鳥・・・あのさえずりわ」
     「新緑ステキねぇー」
     「子供たちがもう、お水の中で遊んでいるわ」
     「バーベキュー楽しそうね・・・・」
英語でこのような情感は表現はできまい、日本語とは実に素晴らしい言語でありレベルの高さが分かろうというものだ。その情趣、情感、風情、感情が失せつつあるように思えて仕方がない昨今の日本である。

平成15年8月1日 はづき 葉月

毎年梅雨明けは7月20日前後で、一年の最も暑いのは7月下旬と思っていたのだが、今年のこの寒さには異常気象の地球的規模は本物だと思わざるをえない。日本の四季は無くなったようだ。熱帯のスコールのような土砂降りは普通の現象となった。人間が地球を食い荒らしているからだ。私たち老夫婦でも毎日出すゴミは多く、これらは燃やしているのであろう。膨大なごみを毎日出しては燃やしているのだ。この結末の見通しは出来るのに止められない。世界各地の大陸で地下水位の大低下が発生し世界第四のアルタイ湖などは近い未来に干上がってしまうと言われる。中国の黄河の断流、同国の先進国化はあの国の水を枯らしてしまう。今までは数日に一度風呂に入る程度のあの国の女性達も朝シャンをやりだした。世界一の三峡ダムは地球の生態系に大変動を与えるとも言われる。これからは水の問題が世界的規模でおきるであろう。日本は水の大輸入国なのである。それは食糧輸入は水の輸入と同義語だからである。
夏本番を前に山紫水明の日本も歴史的現象となってしまうのであろうかと寂しい気持ちが湧くこの冷夏である。

平成15年9月1日 長月 ながつき

今年は盛夏がないままに秋を迎えるかとおもいきや僅かの間の猛烈な残暑、そして再び寒いような日々、とうとう秋本番の9月に突入した。
10年ぶりのコメの不作が特に東北、北海道だと伝えられる。コメ不足は有り得ないにしても他人事とは思えない。
それにしても世界的異常気象である。フランスでは暑さで一万人とも二万人ともいう老人が死亡した。人間が地球を食い荒らしてしまい、資源も野生動物も絶滅しつつあり地球が自律的自己調整反応をしている、それが異常気象であろう。地球がブルブルと自己自律調整をしているのであろう。それが異常気象かもしれない。
子供時代、柿の実でも,サクランボでも、どんな木の実でも、全て食べ尽くしてしまわないのだ、一つは神様に差し上げる、来年に備えて残すというような事を教えられていたように思う。このような、ささやかな思いが個人個人にあれば、大きな力となるのだ、それが農耕民族の日本人であったのだがどこかに消えうせてしまったようだ。

平成15年10月1日 神無月 かみなづき

今年もあと3ヶ月を残すのみとなった。早いものだ。月日は百代の過客にして・・のおくのほそ道の通りである。毎年このようにして、誰にも平等に歳月は経過する。去年と少しも変わらぬようで確実に、生きとしいけるものは変化している。変化こそ、宇宙の本質である。それは生きるという事は変化に耐える、変化に柔軟に対処せよということのような気がしてならない。これが私の持論であり自ら体得した生の哲学である。然しながら、不易のものも必要である。それは人間では精神、国家ではアイデンティティというようなものであろうか。私の好きな箴言を、涼しくなった秋、読書の季節を迎えて、ご披露する。

--それ学は通のためにあらざるなり。窮して困
-くる-しまず憂えて意-こころ-衰えざるがためなり。禍福終始-かふくしゅうし-を知って惑はざるがためなり。

--窮すれば変ず、変ずれば即ち通ずる。

平成15年11月1日 霜月 しもつき
10月は実によく登山をした。このような月は私の人生で初めてである。10月1日から4日間、50年間念願してきた東京都奥多摩と奥秩父間にある雲取山。15日には篠山の奥にある三岳。20日から23日、四国は西日本最高峰の石鎚山・弥山、天狗岳そして瓶ヵ森の雄岳、雌岳、途中にも子持ち権現山とかもある。そして28日から30日は島根県は三瓶山--親から女・子・孫を一回りした。実に12日も登山している。在宅であれば晴れの日には早朝5時前から裏山の本陣山は日課である。我ながら呆れる思いがある。11月には九州の由布岳・久住山から阿蘇を狙っている。更に確定しているのは金糞岳もある。この歳となり少年時代はもとより青・壮年時代には毛頭考えられない事である。私の人生の真実真の心の友と同行しているからこのように親和した素晴らしい登山が出来るのだと思っている。真の心友とは実に人生の伴侶とも言える。御蔭様で健康に日々過ごさせて頂いており感謝にたえない。あと二ヶ月で今年も終わる。あっという間に年末を迎えることでああろう。私は友とひたすら山に登り続ける。

平成15年12月1日 しわす 師走
本当に一年とは早いものだ、こうしてこの地上の山川草木もあらゆる生き物も、命を持つものは凡て例外なく生命を変化させている。間違いなく、例外なく、生命は変化している。昨日までの生命とは異なる、それが生命体の真の姿であろう。そして行き着く先は例外なく大自然への同化であろう。そして、例外なく凡てはこの大自然に還元されて行く。それは古今東西、有史以来分かりきった事でありながら、人間とはなんと言う、おぞましい生き物であろうか、民族間、国家間の闘争、それはひとり中近東だけではない、個人殺人の横行は安全な国、日本もおぞましい事件が毎日のように発生している。国際化などやめて、本当は、徳川時代のように対外的に鎖国して静かに反省に入るのが至当な時期である。人間でも、時には静かに読書三昧、座禅三昧、独りを噛み締める時が必要である。日本は、ここらで国民がそのような静の時代に覚醒したらいいように思える。だが、とても至難である。せめて日常生活の中で自分だけでも静の境地を求めて心身のバランスを保ち続けて精神の健全性を図って行きたいものである。いかなる時代が到来しても心身の健康、気力充実による元の気こそ生きる上での根源的要素だと思うからである。