いろはにほへどちりぬるを

    日本海新聞潮流  平成14年8月2日寄稿

1.仏教に関心を持って久しい。智者の振る舞いをせずただ南無阿弥陀仏を唱うればお浄土にいけると仏典にある。鎌倉戦国時代の民衆は飢餓と戦乱でこの世は地獄であった。お念仏を唱え来世に託すしか救いはなかった時代と異なり現代の民衆に果たしてそれだけで現世の救いとなり得るか。鎌倉時代のように民と共に生き、共に苦しみ、生きる道の見本を示す祖師のような実践者もいない現代である。現代の衆生を救うには多少の理、ことわりが必要と思える。その理の向こう、人間の最晩年には間違いなく南無阿弥陀仏のみの境地があるとは確信するが。然し、青壮年期のこの世の生きる戦いの最中に南無の帰依のみで生きる支えとなり得るか。そういう意味で理のある救いをと私は多年にわたり求め続けてきた。第一、阿弥陀仏は西方浄土の盟主、即ちあの世の仏さまだ。あの世に行く時にお願いするが、この世では現世の仏様に導いて頂きたいと思って少しも不思議はない。飢餓と戦乱の時代は現世を絶望の末、来世の浄土を祈念するしかなかった。人間は現世を精一杯、誠実に生き抜くことが自ずから来世のお浄土に繋がって少しもおかしくはない。現世の導きと、衆生と共に生きる道の範を示す事こそ現代宗教者の真の目的であらねばなるまい。これらの答えが現代宗教に無いように見える。

2.仏教の核心に触れたいと思い続けてきた。仏教の基本原理は三法印、四聖諦、十二縁起、空と言われる。空海が作ったと言われる、いろは歌は涅槃経の諸行無常を、いろはで表現した日本の傑作である。色は匂へど散りぬるを-桜花爛漫もこの世の栄華も人間も、文明さえも平家のように必ず滅びる。わがよたれぞつねならむ-我が世誰ぞ常ならむ-これは是生滅法-この世には常なるものは無い、宇宙の本質は変化である。うゐのおくやまけふこえて-有為の奥山今日越えて-あるゆる存在、因縁により作られたものを越えるとは因縁の道理に目覚めること、この世の存在を不変と見ずに因縁により生起したと見る-これは生滅滅己。あさきゆめみじゑひもせず-人生は、今日は今日のみの一期一会と見る。寂滅為楽である。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が仏法の真理のしるしの三法印である。すべてのものは無常であり、無我であると悟り執着を断った処に平安な境地が訪れるという事であろう。執着なきはこの世の生き物に非ずだが。諸行とは因縁により造られた一切のもの。これらが連続して流れ、一瞬にして滅する。無常なるものは苦というから第四法印は一切苦となる。諸法の法は行と同じで、心身環境を構成する五蘊と見る。物質感覚知覚意志認識のことである。我は存在せず、我々の生命は常に躍動してやまない。我々の生命は一息、一息、一呼吸の中にこそある。常在、不変化の実体我は存在しない。これが諸法無我。この原理の上に宗教的実践を行うのが涅槃寂静。現実的には無我であるべき我に執着するが、これを制し、律して自立自由になった時こそ、涅槃寂静である。涅槃は本質的には煩悩の火を消すこと、解脱を意味する。この涅槃の状態を寂静という。自分を縛っているものからの解放、即ち心の浄土である。無常の法は、思考や論理から出発したものではなく、在るがままの現実から把握したものでなくてはなるまい。滅びさったものに感傷を抱くことに仏教は無縁、地上にあるものが無常の劫火に焼かれて滅ぶ相-すがた-を在るがままに見ているにすぎない。苦とは生老病死、再び戻らぬから死を悲しむのは無益、[もう私の力の及ばぬもの]と悟り悲観を去らねばなるまい。霊魂は実在するかしないか、死後の世界が在るかどおかを推論するのが分別で、この分別を超えた世界を仏陀のみが観たのであろう。

3.仏は創造神ではない、現に存在しているもの、存在に着目し、目前の 現象が縁によっていることを見極めるものではないか。仏法にとって真 理とは、在るがままの現実が無常であり、在るがままの現実を無常法と 観ることを出発点とするのだ思う。宗教は証明や論証がなされるもので はない、稀有な資質を持つ人のみが、厳しい長い苦行の後に体得するも のなのであろう。(続く) 鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典