日本海新聞潮流欄 寄稿 平成14年9月4日

あさきゆめみじゑひもせず

4.縁起について。
人生は苦であるのは無明に基ずく。無明がある限り、老死があり、苦がある。般若心経に[無明もなく、無明も尽きることもなく、老死もなく、老死も尽きることもなし]とある。
仏陀の目指した人間苦の除去の為には無明、無苦を明らめねばならぬ。それには人間の迷いの元である12縁起の連鎖を断ち切らねばならぬ。12項目を否定すれば悟りの生き方になる。
生も死もすべて無常で、無我で、縁起したものにすぎないと観ることだ。すべてが無常で、無我であると体得した時、人は仏-覚者になる。

5..四聖諦
諦とは優れた真理のこと。
人生は苦であると説いたのが苦聖諦、苦の原因は欲望や愛着の心にあるという真理を明らめたのが集聖諦。滅聖諦は、苦悩の原因である煩悩が無くなった状態をいい、仏教の目指す浄土は涅槃にあると言う真理である。道聖諦は、涅槃に到達するための実践方法を説き八正道を指す。仏陀や聖者は、このことを知識としてでなく体得したのだ。

6.仏教は[不生不滅]、[生と死は別ではない]、[生死一如]などと説く。又、この世を無常なもの、泡沫の如きものと観る。事物は相互に関係しながら存在する。すなわち、他を縁として生起し、他と相関しながら変動していく。
[人間の苦悩は欲望から起きる。欲望は無明、つまり、ことを明らかにできる智がない為に生じる。ものには縁によって起こる原因--縁起があるから、人間が安楽の境地(涅槃)に入るには無明に囚われている己を自覚し、欲望に執着せず、すべてありのままの姿で受け取る平静な心で生きることである。]という。

つまり縁起の道理に基く中道の実践により輪廻の世界から解脱し、涅槃の境地を得るものだという。生身の体には欲望があるからこそ生きておられるという矛盾との相克だ。

更に言えば、涅槃とは執着を超越したこの世で実現すべき心の状態の謂いであり、それこそが救いの浄土もしくは極楽だと私の理に於いて確信する。

7.について。
すべての物に実体、自性がないことを[
空]。[般若]は空なる真理をつかむ智慧を意味し、空と同義語。悟りの智慧で、般若空とはとらわれないこと、側面的には[色即是空、空即是色]。

形あるものも認識がなければ空。般若の空に徹すれば生のはかなさを知り同時に生の貴さを知る。はかなさゆえに貴い生である。空に徹するとは石に噛りついても生を立派に実現する事か。人間の生死は無相、空である。死を怖れず、死を求めず、は味わうべき言葉。

空は否定と肯定、無と有、の二つを弁証法的に統合している。在るがままにあるのが空であり、仏の相であろうか。

8.終わりに、空海は即身成仏義において密教にとり生命は宇宙的生命であるとし大宇宙そのものを仏とみた。
一切を包容する宇宙を仏、大日如来とした。太陽を象徴した仏である。我々の生命は宇宙そのものでありすべて同じ生命を生きているとした。宇宙原理と人格原理の一致、仏凡一如である。大自然の中に仏を見る生命哲学で生命を讃美する。
大日如来は太陽の如くすべてを生み出す仏で虚無的な性格はなく肯定である。大日如来は三ッの姿で秘密な姿を示す。身・口・意である。身蜜-
身体、口蜜-言葉、意蜜-心、で大生命の姿とする。山の体、獣の体、人間の体は身蜜、風の声、鳥の声、人間の言葉すべて口蜜、川の心、花の心、人間の心、すべて大日如来の意蜜という。

自然崇拝は縄文以来の日本固有信仰と一致する。
鎌倉以後の祖師達はこの三蜜を各自一蜜に専念した。
道元は身蜜を強調し、只管打座、口蜜の強調は法然と日蓮お題目、意蜜、法然は口に出す念仏に重きを置いたが弟子である親鸞信心だけで良いとし心を強調した。親鸞に近代性が窺える。

空海は知を強調し五ッの知を配して体系化し物質原理と精神原理の一元化を果たした。科学の知恵はこの一ッに過ぎない。知恵と生の一致が密教の理想だが、生を上においている。
密教は秘密仏教、なぜ秘密かと言えば、おのれを隠し姿を現さぬのが生そのもので、生は解明されない何かを宿しているという。人間がそのまま仏となる密教では、仏の形は人間の形であり大宇宙の生命は人間の形となって現れると言う。空海の示した法は生きている。

  鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典