徳永圀典の徒然草口語訳」2..平成15年10月

1日 二十五段

飛鳥川の淵瀬、常ならぬ世

世の中は飛鳥川の淵瀬のように無常なものだ。時が変かわり物事が推移し幸不幸が行き交って行く。華やかであった土地も人が住まない野原となり、住家も住人が変わっている。桃やスモモは昔通りだが話すわけはない。誰と昔を語ったらいいのであろう。わけても昔の尊い方の住んでいた跡くらい儚いものはない。京極殿や法成寺などは見るにつけて、人の思いのみ残って往年の盛時のおもかげもないのは人を感傷的にさせる。御堂殿がこれらを見事に造られて、荘園を多く寄進され自分の一族だけが帝の後見人として、また執権として永劫の繁栄を願われた時、未来はどんな時代でも、これほど荒れてしまうとは予想されなかった事であろう。法成寺の大門や金堂は最近まで残っていたが、正和に南門が焼失した。金堂は倒壊したままで再建の計画はない。無量寿院が僅かに昔の名跡としてあるだけだ。六丈の尊い仏様が九体並んでおられる。行成大納言筆の額と兼行の書いた扉が鮮やかなのは感慨深い。法華堂はまだあるようだが、いつまであるものか。この寺ほど名跡さえない他の遺跡は、偶々礎石があるにせよ、それが何の跡かを正しく知る人は少ない。何事につけ、死後のこの世のことまで考えて気配りするのは実に虚しいことなのだ。

2日 二十六段 

風も吹きあへずうつろふ人の

風に吹かれてひらひらとうつろう桜の花ビラよりも人の心は更にはかないという。その人の心を信じて愛を交わしていた日々を思うたびに、しみじみとして聞いたいとしい人の言葉は、どんな言葉も忘れられない。然し、そのような相手も、やがて自分とは別の世界の人間となるのが世のならわしである。それは人の死別以上に悲しいものである。別れとは哀しいものだから、白糸を見て、それが染色されるのを悲しんだり、三叉路で路が分岐するのを嘆く人もいたらしい。堀川百首の中に、
 むかし見し妹が垣根は荒れにけり茅花まじりの菫のみして
という歌がある。淋しい風景だが作者にこのような経験があったのであろう。

3日 二十七段

御国ゆずりの節会

天子さまの御譲位の節会の時に剣・璽・鏡の三種の神器を次の天皇様にお渡しするのは、この上なく淋しい。新院が御位を退かれた翌年の春に次のような歌を詠まれたという。
  殿守のとものみやつこよそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく
(かかりの役人が御所の庭を無視して掃除しない、落花が一面に散っているのに)
新しい御世の政務が忙しく新院の御所に参る人が少ないのはいかにも淋しい。こんな時に、人の心の在り様が見てとれる筈だ。

4日 二十八段 諒闇の年ばかりあはれなる

諒闇の年は感慨深い。椅廬の御所の様子は特にそうだ。板敷きを低く、葦の御簾を掛け、布の帽額は粗末で道具類も質素、人々の装束、太刀・平緒まで何時もと違うのは重々しい。

5日 二十九段 しづかに思えば 静かに物思いにふけっていると、何事についても過去の懐かしさばかりなのも致し方ない。人が寝静まってから長い夜の慰みに気のむくままに道具類を整理したり保存の必要ない反古類を破り棄てる時に故人が書いた字や絵など見つけると在りし日に戻った思いがする。現存の方でも感傷的になるもので、あれからかなり経過したが頂いたのは、どんな時で何年であったかと思うのは感慨深い。使い慣れた道具なども使用する者は変わるのに道具類は無心で昔のままであるのは実に哀しい。
6日 三十段 人のなきあとばかり悲しきは 人の亡くなった後ほど悲しいものはない。中陰に、残された者が山里などに移り、不便な狭い場所に大勢集まり法要を営むのは落ち着かない。例えようの無いほど日は早く過ぎ去る。四十九日目は、実に白けて互いに話すこともなく我先に身の回りを片付け三々五々と分かれて行く。家に帰ってからこそなお哀しく思う筈である。「とんでもない、追善の場では忌み慎むべきだ」などと言うのは、これほどの悲しみの中で心無い言葉と思うから、人の心はやはり厭わしいものだと思う。
7日

その後年月もたち、故人のことを忘れる訳ではないが、「去る者は日々に疎し」の言葉どおりとなってゆく。忘れてはいないとは言うものの、死の直後ほどの切実さが無くなっているからか、故人について冗談を言って笑うこともある。死骸は人里離れた山中に埋葬し特別の日のみのお参りをするが、まもなく卒塔婆も苔がはえ落ち葉に埋もれて夕方の嵐や夜の月だけが死者を慰めるようになる。

8日

故人を思いだしてくれる人が生きている間はまだよい。彼らもまたまもなく死に絶える。故人の名前を聞き伝えているだけの子孫が見も知らぬ先祖を追慕するわけがない。勿論、追善供養なども行われなくなってしまうと、誰の墓かも分からなくなる。春が来ると草ぼうぼうの墓となり、こころある人はそれを哀れ深いものに見るかもしれないが、更に歳月を経ると、嵐に吹かれて悲しげな音を立てていた松も、千年の寿命をまっとうせずに切られて薪となり、墓所は掘り返されて田んぼとなってしまう。遂には、その跡さえも無くなってゆくのは悲しいことである。

9日 三十一段  雪のおもしろう降りたりし朝

積もった雪のさまが素晴らしい日がある。その朝、ある人のもとに所要ありて手紙を届けたが雪のことに少しも触れなかった。その手紙の返事に曰く。「この雪をどのようにご覧ですかと一言の挨拶もないような粗野なお方のお申し出では受け入れられません。なんと落胆するお心ではありませんか」と言ってきたのは面白かった。故人なのでこの程度のことも忘れがたい。

10日 三十二段  ながつき二十日ころ 920日頃ある方に誘われて翌朝まで月見をしたことがあった。その方は、ふと思い出してある所に立ち寄り、取次ぎに頼ませては入られた。庭は荒れており露が一杯降りていた。そのあたりにわざわざたいたものと思えぬ香の匂いがしっとりと薫っていた。世を避けて静かに住む様子は実に趣きがあった。
11日 は入られた方は程よい時間で出てこられたが、私がなおその様子を優雅に感じていたので物陰から暫く見ていると、主人は妻戸を少し押しあけて月を見ている様子であった。客を送り出して、すぐに戸締りをして中には入っていたら、どれほどがっかりしたことであろうか。この人が、客が去ってから誰かが見ていると気づいた筈はない。このような振る舞いは、ただ日々の心がけによるものであろう。そのお方は、まもなく亡くなってしまわれたそうである
12日 三十三段  今の内裏作りに出されて

新内裏が完成し有職に詳しい人々にお見せになった処、どこも問題がないということで、既に遷幸の日が近づいた。その時、玄輝門院がご覧となり「閑院殿の櫛形の窓は、これと違い、丸く、縁もついていなかった。」と仰ったという。素晴らしいことである。新内裏の窓は、切り込みがあり、木で縁がしてあったので、それを誤りとして作り直された。

13日 三十四段 甲香は、ほら貝のやうになるが

甲香は、ほら貝のような形をして、小さく口のあたりが細長く突き出ている貝のふたである。武蔵の国金沢の浦で見たが土地の者は「へなたりと呼びます」と言っていた。

14日 三十五段 手のわろき人の

字の下手な人が遠慮せずに手紙をどんどん書くのはよいことだ。自分の字が見苦しいと言って代筆させるのは不愉快である。

15日 三十六段 久しくおとづれぬころ

長い間、女の家を訪れていない時、彼女がどれほど恨んでいることか、自分の誠意の無さが気になって、弁解の言葉もない気持ちでいると、女のほうから「下男がいたら貸して欲しい。一人でよい」などと言ってくる。実に思いがけなく嬉しいものだ。こういう気立ての女が好きだ。とある人が話していたが、いかにもその通りであろう。

16日 三十七段 朝夕へだてなく馴れたる人の

朝晩、なんのへだてもなく馴れて親しい人が、ふとした時に遠慮して、改まった様子に見えることがある。「いまさら、そんなでなくても」などと言う人もあろうが、それはやはりしっかりして誠実な立派な人だと思う。親しくない人が、打ち解けた事などを言った時には、それはそれで、なんと良い人だと思って心が引かれるに違いない。

17日 三十八段 名利に使はれて 名誉とか利益に使われて、心静かな時もなく、一生を苦しむのは愚かなことである。財産が多いとそれを守ることに懸命となり自分を守ることが疎かとなる。それは危険とか災難を招くこととなる。自分の死後、黄金を積みその高さが北斗七星を支えるほどとなっても、関係者は煩わしく思うだけだ。また多くの人々を楽しませる娯楽もあじけない。大きな車、肥えた馬、黄金の飾りも心ある人は愚劣よと見るであろう。金は山に棄て、玉は淵に投げ込むがいい。利益に惑うのは大変愚かな人間である。
18日

名を後世に残すことは望ましいことである。しかしながら地位の高い貴人を必ずしも立派な人だとは思わぬ。愚かでつまらぬ人も、然るべき家に生まれ時流に乗ると高位にのぼり奢る人がある。立派な賢人・聖人の方が好んで低い地位におり時流に乗らずに終わることも多い。従って高官を目指すのも利を求めるのに次いで愚かなことではある。

19日

智恵とか心に関してこそ名誉を残したいものだ。よく考えると名誉を望む人は他人の評判を気にする。しかし誉める人も、悪口言う人も、何時までも生きておるわけではない。評判の良いのを聞いた人もまもなくこの世を去るであろう。では誰の評価を気にして、誰に名声を知られようと願うのであろうか。名声は人の謗りを招く、死後の名声などが後世に残っても益なきことである。それを願うのも地位を求めることに次いで愚かなことである。

20日

名声を求める為でなく、ひたむきに知を追求し賢を願う方たちのために一言したい。知恵は偽りを生む。才能とは煩悩の増長したものだ。人から伝え聞き、人から学んだことなどは真の知恵ではない。何を以って知というべきか。世間の人が可とし不可とするものは、実は別物ではない。何を善と呼ぶべきか。悟った人は、知恵も徳も、功績も、名声もないのだ。このような人の事跡を誰が知り、誰が伝えるのであろうか。このような人たちは、殊更に徳を隠し、愚者をよそおう方ではない。もともと、賢愚得失などという相対的な境地にはいないのだ。

21日 第三十九段 ある人、法然上人に

ある人が法然上人に対して「お念仏を唱える時に眠気に襲われて勤行が疎かになります。どうすればこれを克服できるのでしょうか。」と伺うと、上人は「目の覚めている時に念仏をなさい」とお答えになつた。尊いお言葉である。また、往生は必ずできると思えばできる。出来ないと思えばできない、といわれた。これも尊い言葉である。また、「疑っても兎に角念仏しさえすれば往生する。」とも言われたという。これまた尊い言葉である。

22日 第四十段 因幡国に

因幡の国に住む、某入道の娘は美人であった。噂を聞いて求婚する者が多かった。この娘はただ栗のみを食べて米の類いを全く食べなかったので親は「このような変わった者は人の妻となるべきでない。」と言って結婚を許さなかったという。

23日 第四十一段

五月五日、賀茂のくらべ馬を

五月五日、賀茂の競馬を見物した。我々の乗る牛車の前に群集が立ち並んで視野を遮ぎるので、我々は下車して馬場の柵の傍に行こうとした。その辺は特に人が密集しており分け入ることが出来なかった。

24日 その時に、向こう側の楝―おふちーの木に登り木の股に腰かけて見物する法師がいた。その坊主は木につかまったまま眠りこけて,今にも落ちそうになり眼をさます。これを見て人々は嘲り呆れた。「なんという愚かな者かな、あんな危険な枝の上でよくも眠れるものだ。」と。
25日 私はなにげなく「自分達が死ぬのは、今すぐかもしれない。それを忘れて日々見物して過ごしている、その愚かさはあの坊主に勝るとも劣らないのに」と言った。すると前にいた人々は「本当に言われる通りだ。私たちこそ愚か者です」と言って、振り返り「どうぞおはいり下さい」と場所を空けて招いてくれた。
26日 この程度の発言は誰でも思うものだが場合が場合だけに印象深いものがあったのだろう。人間は木石ではないのだからこのように感じることもあるのだ。
27日 四十二段

唐橋中将といふ人の子に

行雅僧都という唐橋中将の子供で教相を学ぶ人が師事する僧がいた。のぼせの持病持ちで、加齢と共に鼻が詰まり息がしにくくなった。様々な治療を試みたが、病は進行し、目・鼻・額などがむやみに腫れてむくみ、物も見えず二の舞の面のような顔になった。その中に愈々鬼のような恐ろしい顔となる。その後は住房内の人にも会わず、ひとり閉じこもって歳月を送っているうちに病状はなお進んで死んでしまったという。世の中には、こんな病もあるのだと知った。

28日 四十三段

春の暮つかた

ある晩春、空ものどかでほのぼのとした日、風情のある家を見かけた。家には奥行きがあり、木立も古びて、庭には散り萎れた花もゆかしいものがあり通り過ぎるのが惜しいので邸内にはいって見た。寝殿の南面の格子戸はみな降ろされて淋しげだが、東に向いている妻戸は程よく空けてあった。
29日

御簾が少し破れている所から、清潔な感じの二十歳くらいの男が寛いでいるが、いかにも奥ゆかしい落ち着いた姿で机上に書物を広げて見入っていた。あの人はどんな人であろうか、誰かに尋ねてみたい。

30日 四十四段

あやしの竹の編戸のうちより

みすぼらしい竹の編戸の中から、まだ若い男が出てきた。月光を受けて色合いははっきりしないけど、光沢のある狩衣に濃い紫の指貫を着けて大変由緒ありそうな姿であった。小さな少年一人を供にして、遥かに続く田の中の細道を稲葉の露に濡れて歩いている間に、笛を見事に吹いてみせる。音色の良さを聞き分けることが出来る人はおらないだろうと思うにつけ、私は彼の行方に興味を抱き、その後をつけて行くと、男は笛をやめて、山際の惣門のある屋敷の中には入った。ししにながえを載せて駐めてある車が見えるのも都ならぬ山里のことで目に付く、そこにいる下人に問う。「なんとかと言う宮様がご滞在中で仏事があるようです。」という。

31日

御堂辺りに法師等が参集した。夜寒の風で薫る香の匂いもしみじみとしたものがある。山里で人目がないのに、たしなみがしのばれる。草木が自然で秋の野のようなこの庭は、露が降りて一面が埋もれているように見え、虫が悲しげに鳴き、遣り水の音が静かに聞こえてくる。この辺は都の空よりも雲の流れも速いようで、月が絶えず見え隠れしていた。