一等国一等賞

1. 
聞く所によると、近年は小学校の運動会のカケッコで一等賞というのはないらしい。走りの速い子供が認められていい刺激になる、カケッコは遅くても凄い数学の出来る子、作文の得意の子、音楽の得意の子と能力の相違があるのは当然だ。なぜ一等、二等賞を作らないのか全く理解に苦しむ。情緒的な余りにも情緒的な平等主義から生まれている。

人間社会にはいい意味の闘争とか競争が生存の原理だ。これでは、
21世紀の熾烈な国際社会の生存競争に日本人としてそれに打ち勝つ力は子供時代から生まれ難いと言えよう。日本国を蝕みつつある、結果平等主義なるものの最たるシンボルがこの運動会に一等賞の無いことではないか。

考えてみれば、人間など、生まれつき不平等極まりないものだ。誰の責任でもない。自分の境遇が悔しくて懸命に努力して傑出した人物が輩出するのは、何処の国の歴史にも見られる。そのようにして人類社会は進歩発展してきた。

肉体も遺伝子が自分を宿命づけるのは否定できない絶対事実だ。人為では、これを超える事はできまい。人間生来の能力、体質、この世的な親の経済力等々、如何ともし致し難いものがある。親も、社会も国家さえ一個人に対する責任はもてない。

人権の本質は、人間として男女、貧富、職業、地位、名誉、国籍等々に関係なく人間として平等である事だ。皆がこの世的に幸せになろうとして懸命に努めている。一等賞の廃止などより、この熾烈な人生で、夫々が幸せを求めて必死に生きている人間の姿に対して無責任な事を言わぬ躾けこそ徹底したほうがマシである。

2.
戦前の日本国は一等国と言われていた。私たち昭和一桁人間は、少なくとも、いい悪いは別として、
世界の一等国民として育っていた訳である。国家に、それこそ一等や二等国民がある訳がないのだが、戦前は米国・英国・ドイツ・フランスに並んで明治以降の先人の努力により日本は世界の列強国の一員となり一等国民を自負していたと思う。

経済力だけではなく国家、国民として自らの伝統・文化に対する矜持があった。それが一等国としての背景であろうか。武士は貧しくても質素倹約の中に誇りを持ったようなものだ。

近年の識者で活躍中の佐々淳行、岡崎久彦、竹村健一、渡部昇一、谷澤永一、石原慎太郎、田久保忠衛、桜井よし子等、叉同列に申すのではないが、かく申す徳永圀典も昭和一桁の生まれである。
この人たちの発言の共通項は日本国の戦後、特に近年の国家のテイタラクに無意識に我慢ならないのだと思う。
この原因を推測だが、上述の人々は少なくとも
一等国民の経験があるからではなかろうかと思っている。タカ派と決めつけるなど幼稚な物のいいようで本質から外れている。

昭和
20年の敗戦後は、日本は米国の属国であり、主体性が欠け一人前の国ではない。戦前風に言うなれば四等国民かもしれない。凡ての人とは言わぬが戦後生まれは、刷り込みとなり矜持に欠ける国民となっているのだ。教科書・土着の信仰からして他国に内政干渉されるのだから四等国に違いない。だから国旗とか国歌などに対して誇りがなくなるのであろう。昇竜の中国国民と比較すれば一目瞭然だ。四等国民の負け犬日本の姿を早く悟ってほしいものだ。それには真実真の国史をぶことだ。学問は歴史に極まる。

3.
米国の国債を数百兆円持ち、世界一の外貨準備高を持つ国が、世界一の貿易赤字国アメリカの金融資本に常に円高にされて日本は収奪されていると見ている。市場経済なんて米国の都合のいい謂いである。そうではなくては、
この摩訶不思議な日本の金融政策は理解できない。このマジシャンに翻弄されている日本国民は哀れだ。

要するに米国国債を自由に使用できれば日本はこんなデフレや銀行問題で困る訳がないのだ。それが出来ないのは、どうやら、米国の恫喝に曝されている四等国日本だと私は確信に近い結論を持っている。大マスメディアも反米風だが、知ってか知らぬか、真実を突いていない。基本的に私は親米だが、
ここら辺に真実真の秘密が潜んでいると思えて仕方の無いこの10年である。