安岡正篤先生の言葉
 その2
前回安岡語録を掲載したのは今年一月であった。安岡語録が好評でありアンコールに応えて五月も先生の著作の中から適宜選択し、自分の勉強を兼ねて日々連ねてみたい。平成15年5月1日  徳永圀典 安岡教学関係徳永圀典蔵書より

5月1日 国家の難局を救うために、決断力・実行力を持った胆識があり節操のある人物の登場を願う。
(活眼・活学)
平生の理想、目標を持つ即ち。永続性はという。締めくくりを。合わせて節操。単なる知識人、実務家では駄目。節操ある人物でなくては難局は切り抜けられない。
5月2日 敏ということは、自分に与えられている能力や素質をフルに動かすこと。
(暁鐘)
敏とは世間では、気をきかす、頭を働かすこと、俊敏、機敏と関連している。大抵の人間は与えられている素質・能力を十分使っていない。自分の素質・能力を遊休施設にしないということ。
5月3日 相見て笑い、心に違うことなし。信じ合えて親しめる。
(天地にかなう人間の生き方)(出典は荘子)
世を乱す人の行動は初めは相助け後必ず相憎む。義ある人は初めは手を取り合い、そのうちに信じ合い心に違うことなく、矛盾や相異なく親子のように心が通じるようになる。人間の交際もこういあふうになれは、ゆかしく嬉しい。
5月4日 人間は信が大事、これを失った人間は困ったものです。
(禅と陽明学)
観音様なら観音様、不動明王なら不動明王をひたむきに信じなければならない。懐疑主義は駄目だ。人間は信が大事。人間は信から入るのである。信じられない人間は悲劇。
5月5日 徳性の培養、明るい心、素直さ、正直というのが徳の基本的なもの。
(安岡正篤先生講演集)
東洋民族は暗くない。宇宙本然の基本は明るい心。インド、アリアン民族は暗い思想を持つ。明、清、が徳の本質。素直、正直、愛、抱擁、勇気、義侠、勤勉の徳は3−4才から養い方により出来上がる。
5月6日 東洋文化というものは一切天より出ると申してよろしい。
(禅と陽明学)
無限なる天が変化そのもの。偉大さを感じ万物創造と考えた。無限・変化・創造そこに造化がある。森羅万象を生む。天は徹底して生そのもの。生きとし生けるものの根源は天である。
5月7日 語言、味わいあり。面構えも出来ているが言うことも味があるというふうにならなければならない。
(知命と立命)
言葉を流暢にペラペラ喋るのは殆ど印象に残らない。苦労を積み出来た人間がポツリという一言が非常に響く。
5月8日 むすび・縁起ということから、人生すべての事が始まる。
(東洋的学風)
日本民族の根本は神道、その根本思想に「むすび」がある。むすびから人生が始まる。仏教の縁起で、によりとなりを生ずる。勝れた因が勝れた縁で、勝れた果を生ずる。勝因善因勝縁善縁により勝果・善果をむすぶ。この「むすび」の妙用を大切に。
5月9日 静ということは絶対であり、造化の真相である。
(人物を創る)
物静かでがさつにならぬ、悠々とした静かさ、人間も出来てくるとそうです。身体、言語動作に出てくる。造化の真相に静がある。
5月10日 今日ーいまーの人間は骨力がない、骨力というのは人生の矛盾を受容する力です。
(日本精神通義)
人間が鳥獣魚を食べて生きるのは本来矛盾。宗教精神の高い人は酒肉を避ける。然し、余り矛盾に対する包容力が欠けると感傷的になり無限の創造である宇宙生活が出来ぬ。矛盾を包含する包容力・忍耐力・反省力・調和力を骨力という。
5月11日 多岐茫羊の文明、人間の生活をあまりに複雑多岐にいたしますと、本当のことがわからなくなってしまう。
(人間学のすすめ)
羊飼いが羊を逃がした、多岐に逃げてわけがわからなくなった。人間文明もそうで、知識・技術が多岐となると人間の幸福、そういうものが分からなくなる。
5月12日 分からぬ、分からぬ、の本当の意味。
(易と人生哲学)
これは易学の言葉。創造の問題で、余り分派すると、茂り過ぎると生命力、創造力が無くなるから、わからなくなる、そこでこれを結ばなくてはならぬ。枝から幹から根にだ。これが創造の理論で陰陽の理論でもある。陰は籠る、結ぶ。陽は分かれる、繁栄するが枝葉に走ると生命成長が止まる。嘘・偽となる。ただ分化発展は分かれ、分かれて行くから、遂に分からなくなる。
5月13日 内省のない欲望は邪悪、人間の存在や活動は省の一字に帰する。
(易と人生哲学)
人格では、この陰陽の陰、即ち成長の原動力、結びの力、これをと申します。
5月14日 喜ぶと、楽しむとは違う。
(人物を創る)
喜ぶは本能的感情。楽しむというのは、これに理性の加わった場合をいう。仁者は山を愛し、知者は水を楽しむ。
5月15日 人物を練磨するには、人物に依らねばならぬ。一流の人物に私淑せよ。
(経世瑣言)
勝れた人物を尋ね切磋琢磨がいいが、現代人は科学とデモクラシーと自由主義とを曲解して横着になり頭が高くなった、冷淡になった。兎に角、もう少し謙虚になり、人に感じ、人に学び、自ら責めねばならぬ
5月16日 運命とは、創造、進化してやまない、動く、めぐるものである。(易と人生哲学) 命とは必然作用をあらわすもので、それ自体絶対である。私達の生活、人生は大自然の創造、進化のひとつの典型。動いてやまない自然と人生のことである
5月17日 運命と宿命
(知命と立命)
独自の命数で生きる人生。動いてやまない運命。命をよく運命ならしむか、宿命に堕さしむか、それは学問修養次第。これが命を知る知命、命を立つ立命の大切な所以。
5月18日 孤独を愛し、孤独に耐える。
(活学第二編)
孤独はすべて優れた人物の運命である。(ショーペンハウェル)孤独に徹するとはすべてに通ずることだ。
5月19日 尋常とは、常を尋ねる、いかなることがあっても平常と変わらぬという意味。
(運命を開く)
小・中学校の初等教育を尋常としたのは明治の役人の見識。真の人間の道は、古今東西、常を養い即ち人格陶冶して其の上に知識・技術をつける
5月20日 文明には偽りが多すぎる、自然に還るところに人間本来の姿がある。
(老農の坂)
人偏に為ると書いて偽りと読むように、余りに人間になることは偽り。自然に還るところに人間本然の姿がある。歴史は文明の衰亡史であり、先ず都市において化膿する致命的腫れ物を発見するのを常とする。農村を見捨て滅びに任せるなど、民族国家永遠の大失策。
5月21日 遊ぶということ、人生も達すればすべて遊である。
(天地有情)
遊ぶとは子供に限らず、おおよそ人間生命の自然作用である。理由とか目的のない、そうせずにはおられなくて、そうするのが遊である。だから自然で真実で美しく、愉快である。
5月22日 われわれは幾歳になっても、これから) 人間は悪い終わりになることを恐れてはいけない。それよりも、未だかって本当の意味の始、始らしい始を持たずに終わってしまうことを恐れよ。大いなる気持ちです。
5月23日 花を咲かせ過ぎたり、実を成らせ過ぎると、駄目になる。
(陰しつ禄)
因果の成り行きは実に恐ろしい、金、地位、名誉、作った財産の為にどれくらい子孫が禍いするか。
5月24日 養寿規、谷間-たにあい-の道を歩むような静かな時間-とき-
(安岡正篤人間学)
1.早起き、静座、梅茶を服す。 2.家人に対し、温言和容を失わず。 3.養心の書を読み、養生の道を学ぶ。 4.老壮の良友に交わり、内外の時勢に通ず。 5.凡て宿滞を除き、陰徳を施す。
5月25日 感動。人間の進歩というものは、すべて感動から始る
(知命と立命)
人間の進歩は、偉大なる発見発明でもすべてインスピレーションとか感動で始る。男同士でもそうだ、本当の知己は大抵初対面のショック、衝撃が多い。恋愛でもそうだ、瞬時の霊感だ。だから人間には感動が大切だ。
5月26日 出処進退の第一義は、仁を求め、仁に立ち、仁に生きる、ということである。
(東洋倫理概論)
無学愚劣であれば、ただ衣食の営みに忙しくて、仁を求めるに苦を解すまい。まことに人生文字を識るは憂慮の始まりである。然しそこに人間の尊さが輝く。出処進退とはつまりかかる場合如何に生きるかという問題に他ならない。
5月27日 文明の進展の問題は、結局は教育の問題に帰するが、なかなか難しい。
(人間学のすすめ)
教育・学問が改まらぬとどうにもならぬ。自分が自分に反って自分を磨く、自分を養う、人間をつくる。これをやらなければ文明も駄目である。
5月28日 歴史、伝統、言い伝えというものは、尊重しなくてはならない。
(知命と立命)
経験科学というか、長い間に多くの人が経験を重ねてそこから帰納して非常な真理を把握している。実証されているので尊重が必要。歴史伝統を軽蔑し否定する人間ほど浅薄、非科学的、非哲学的なものはないと言う事が学問するほどわかってくる。
5月29日 参ったという言葉は、相手を理想像として礼賛する美しい言葉。
(東洋思想十講)
神仏に参るように、敬するものに参りたくなる。更に進むと、側近くに仕えたくなる。参ったとは、人間的尊さ、精神的偉大さを認識した言葉。勝負で参ったとは、自分が負けながら、勝った相手を敬しておる。旭青竜など、横綱として最低だ。精神が伴っていない。
5月30日 自分を失った現代人エリエネーション時代であります。
(東洋人物学)
近代文明社会の一切の根底である「自らを修める」をすっかり棚上げしている。自分を修める、自分を磨く、自分を充実する、自分が自分を把握する、徹見するという事を忘却し、ただ、外物、外界、他人ばかりを問題にしている。
5月31日 母の哲理、母の徳こそは、玄のまた玄なる徳である。
(儒教と老荘)
母の徳ほど尊く懐かしいものはない。母は子を生み育て、教え、苦んで己を忘れ、養うて恩とせず、共に憂い、共に喜んで、我あるを知らぬ。夫を立て、陰で力を尽くし、成功をもって自ら満足する。夫や子が世間で戦っている時に慰謝と奮励を与える。瞋恚に燃え、不如意を歎ずる時、静かに諦観と久遠の平和に導くのも母である。母は人間における造物主のかりの現われではないか。母の徳こそ「玄の叉玄」なる徳である。

安岡正篤先生の言葉ほど含蓄と示唆ある哲学はなく、日々噛みしめている。マダマダ続けたいが、一先ず終了します。徳永圀典