平成156月2日 日本海新聞潮流寄稿

一等賞余談

1.聞く所によると、近年は小学校の運動会でカケッコ一等賞というのはないらしい。走りの速い子供が認められていい刺激になる、カケッコは遅くても数学が凄い子、作文得意の子、音楽得意の生徒と能力の相違があるのは当然だ。なぜ一等を作らないのか全く理解に苦しむ。情緒的な余りにも情緒的な平等主義から生まれている。人間社会にはいい意味の競争が生存の原理だ。これでは、21世紀の熾烈な国際社会の生存競争に日本人として打ち勝つ力を子供時代から放棄したと言える。日本を蝕みつつある、結果平等主義なるものの最たるシンボルがこの運動会に一等賞の無いことではないか。

考えてみれば、人間など、生まれつき不平等極まりない。これは誰の責任でもない。自分の境遇が悔しくて懸命に努力して傑出した人物が輩出するのは、どこの国にも見られる。そのようにして人類社会も個人も進歩発展し成長してきた。肉体も親の遺伝子が自分を宿命づけるのは否定できない絶対事実だ。人為では、これを超える事はできまい。人間生来の能力、体質、親の経済力等々、如何ともし致し難い。

人権の本質は、人間として男女、能力、貧富、職業、地位、名誉、国籍等々に関係なく人格が平等である事だ。皆がこの世的に幸せになろうとして懸命に努めている。一等賞の廃止などより、この熾烈な人生で、夫々が幸せを求めて必死に生きている人間の姿に対して無責任な事を言わぬ躾けこそ大切だ。

2.戦前の日本は列強と言われ一等国?に属した。私たち昭和一桁は、物量的には西欧先進並みでなかったが、いい悪いは別として精神的には一流に非ず、一等国民の自負を持って育った。
国家に一等や二等はないが、戦前は米国・英国・ドイツ・フランスに並び明治以降の先人の努力によりアジア人として日本は世界の列強の一員となり、精神的な一等国民の矜持を持っていた。欧米基準ではなく、自らの伝統・文化に対する矜持である。戦前の凡てを肯定するものではないが一等国とは名実共に主権を持つ国家の事である。武士が貧しくても精神的で質素倹約の中に誇りを持ったようなものだ。

近年の識者で活躍中の佐々淳行、岡崎久彦、竹村健一、渡部昇一、谷澤永一、石原慎太郎、田久保忠衛、桜井よし子等、同列ではないが、かく申す小生も昭和一桁の生まれである。
この人たちの発言の共通項は戦後日本の、国家の尊厳の欠如、そのテイタラクに我慢ならないのだと思う。推測だが、上述の人々は少なくとも精神的一等国民の経験があるからではないか。タカ派と決めつけるなど幼稚な物のいいようで本質から外れている。

敗戦後、日本は米国の属国であり、主権がなく、主体性も欠け一人前の国ではない。戦前風に言うならば等外国民であろう。凡ての人ではないが戦後は、属国の負け犬根性が刷り込みとなりそれが当たり前で、矜持に欠ける国民となっている。教科書・民族信仰を他国に内政干渉されるのだから等外国に違いない。だから国旗とか国歌、伝統等に対して誇りがなくなるのであろう。昇竜の中国と比較すれば一目瞭然だ。等外国民、日本の現実を早く悟ってほしい。それには自らの歴史を学ぶことだ。

3.米国債を3百兆円持ち、世界一の外貨準備高を持つ日本が、世界一の貿易赤字国アメリカの金融資本に常に円高にされて、言うならば“恫喝・謀略・政治力学為替”で収奪されていると見ている。市場経済なんて米国の都合のいい謂いである。そうでなくては、このマカ不思議な日本の国際金融経済は理解できない。経済学以外の論理に支配されているからだ。それはアメリカンマジックであり、それに翻弄されている日本国民は哀れだ。
要するに米国債を自由に使用できれば日本はこんなに困る訳がないのだ。それが出来ないのは、米国や近隣諸国の恫喝に屈している無主権等外国、日本だと私は確信に近い結論を持っている。
大マスメディアも反米風だが、知ってか知らぬか、真実を突いていない。基本的に私は親米だが、ここら辺にこの
12年不況の真の秘密が潜んでいると思えて仕方が無い。
鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典