平成158月1日 日本海新聞潮流寄稿

「教育がないでしょ」

1. ある対談。
韓国の国際的著名弁護士
「かって私は日本人はたいしたものだと尊敬していた。凄いなと思い怖かった。自分の国が百年かかっても敵わないと。然し今は、これっぽちも怖くない、畏敬の念は薄れた」
なぜそう思うのか。
「教育がないでしょ」
東大も京大もまだしっかりしているじゃないか。
「そういう意味ではない。日本に伝わっている大切なものを捨て、子供に伝えようとしていない。私の子供は人前でも礼儀作法や親に対する姿勢がしっかりしている。日本人は日本人を捨てようとしているのではないか
。-後略。
これは評論家雑賀孫一氏からの引用である。

2.米国は日本との戦争に勝って、中世はザビエル時代から国際的に評価のある、均質で秩序正しく徳性が高い、間違いなく優秀な日本人を弱体化させる明白な政策を持って日本を占領し武器を背景にそれを実行した。それは日本の伝統文化の全面否定である。その一つが国歌・国旗や神道など伝統文化の否定である。それを戦後の無知な政治家・政党・マスコミ・諸団体・文化人等が、現在でもそのまま受け継いで煽動60年、案の定冒頭の外人発言のようなテイタラクの日本人となってしまった。たかが一度戦争に負けたくらいで、民族の拠って立つものを簡単に捨てここまで従順に戦勝国に靡くのも情けない。立ち直りに暇がかかりすぎる所か元も子も無くしそうである。米国では大統領の演説時に大衆は起立し、国歌を歌う時は胸に手を当てて敬意を示す。それは幼稚園から中・高校まで毎朝の行事があるからだ。どの国も至極当然の事だ。日本では、それすら反対してやらないから国民統合のシンボル、国歌・父国へ敬意を示さない子供たちとなってしまった。米国の占領教育政策は戦後人の刷り込みとなって植え付けられて大成功。子々孫々までこれが続こうとしており、日本民族は換骨奪胎された。未だにそれに気づかない勢力が存在するとはまさに亡国現象だ。

3. 伝統的な問題はさて置くが、戦後は道徳とかモラルと言うと顔をしかめ拒否的である。まして修身とか倫理などは古語のように使用すら憚られる感じがする。冷静に知的に考えれば、人間として極めて大切な要素であり堂々と語られ理解を深め合い人間の素養として家庭も教師も組織も最重要課題として論じていい筈だ。戦後60年、今なお、心が占領されたままだから上述のような発言が外人からなされる。子供を持つ親も教育する立場にある方々もこの韓国人弁護士の発言を当然だと思われるでしよう。それは戦後教育が知識教育に偏重し、人間としての徳育がないとの指摘です。日本人の誇るべきものが消滅した。恥ずかしいし情けない。これでは国際社会で浮き草の国民として軽蔑される。

4.さて本論である。世界のどの国も自分の国だけでは生きていかれない。企業も個人も、互いに助け合い、補完しあって生存するのがこの地球上の動植物であり人間も例外ではない。共存こそ生存の原理である。21世紀には益々地球的規模で共存の原理を高めなくては国家も存立が難しい。私は道徳とかモラルとか修身が嫌なら「共存のためのルール」という普遍的な呼称にして徳育教育を急がなくてはならないと確信する。共存には自己以外の万物に対する慎しみが基本であり、それこそが究極の優しさであろう。それが日本の伝統的本質でもある。戦前派の人間はそのルールを自己完結の形で多少の違いがあっても各人が保有していた。

 5.そこで、提案だが、道徳という言葉に抵抗があるなら、せめて、「共存ルール」として、真剣に子供たちに教えたらどうであろうか。責任を伴わない自由放任が野放しで見るに耐えない。もっと積極的に、子供達に我々が依って立つ矜持ある伝統や父祖の歩みを伝えられないものか。占領政策で完全にスポイルされたままでよいのか 。敗戦によるアメリカン・マジックの麻酔から早く目覚めて欲しい、家庭も学校も組織も、日本人なら心底では願っていると思うだけに歯がゆいのである
                     鳥取木鶏クラブ代表世話人 徳永圀典