東京裁判についての私見

東京裁判について詳しく勉強していませんが、次のような考えをしています。
戦争裁判の妥当性については同感です。
日本の敗色濃厚な時期に、広島長崎に原爆投下をする必要性があったのか、原爆の残酷な非人間性や、日ソ不可侵条約を無視したソ連の違法性など見ますと、勝利したからとて敗者を裁く立場ではないような気がします。共産主義のソ連の行った戦後の日本兵のシベリヤ虜囚は国家犯罪です。

世界の戦争裁判を見ますと、勝者が敗者を裁く時、理性はなかなか通用せず、復讐とか怨念とか、利害とかの感情に流され、公平性を期待するのは難しいですね。仮に日本が勝利した時、果たして公正な裁判ができたでしょうか。日本軍が日本兵を裁く戦時の軍事裁判でも、一方的な判決が多かったのではないかと思います。
私が東京裁判に興味を持つのは、もう少し違った角度からです。それは、日本軍の最高司令官クラスが、果たして武将だったのか、あるいは武士道の心得があったのかという、まことに「ノーブレス・オブリージ」(高い地位に立つものの負う重い責務)の根源的な問題です。特に「生きて虜囚の辱めを受けるな」という軍人訓のために、多くの兵や民間人が自決し、あるいは無謀な突撃をしたと思います。ところが、敗戦(終戦ではない)という現実に拳銃を頭に当てず腹に打ち込んで、生きながらえ、絞首刑にあった軍人首相がいます。

私は、武士道は(一部の軍人を除き)明治維新で消滅したような感じがしています。武士道あるいは「ノーブレス・オブリージ」という精神的観点から、明治維新から現代までを見直しています。日本人の精神的風土は、江戸時代に比し、相当にお粗末になっているような危惧をしています。

東京裁判を、被告たちのあり様からもその責任を見ないと、片手落ちにならないでしょうか。被告もさまざまであり、また、裁かれることを潔しとせず自決されたかたがたのことなど、高い地位にある方々の責任のとり方は、まことに人間の生き方を示しているようです。
「生きて虜囚の辱めを受けた」将軍の多さに、当時竹槍少年だった私は、「ナーンダ」と思いました。自決しなかった将軍たちは、戦争犠牲者に何を弁明できたのでしょうか。死に直面してたじろぐのであれば、「生きて虜囚の辱めを受けるな」と兵に訓示すべきではないと思いました。

私は、右翼左翼の思想の立場の問題でなく、人間のあり様として、自らの言葉に責任をとらず、「生きて虜囚の辱めを受けた」事実をどう評価するのか、ここらの論議が日本人に欠けているように思います。

余談ですが、欧米では「生きて虜囚の辱めを受けるな」という思想はなく、古くから捕虜はありうることだという歴史の体験から、捕虜を虐待しない相互の慣習が現代に法制化されています。

本題に戻りますと「ノーブレス・オブリージ」の欠如が、現代の政治家や大企業経営者に残っているのではないでしょうか。一部のアメリカ人指導者の浅薄さについては、また別の機会に語りたいと思います。世界規模でマネーゲームをするアメリカの指導者や経営者には、地球規模での「ノーブレス・オブリージ」の意識はないようです。人間は物質的な繁栄は出来ても、精神的な成熟はなかなか難しいですね。
平成16年1月28日  鞍馬古天狗