日本海新聞 潮流寄稿 平成1612月10日

「自虐」に関する一考察

現代の青少年を、包括的に、社会的に、歴史的に見ると、目標を失った人間のように享楽的に見える部分がある。功なり名を遂げ、老化して日々好日の如く、或いは小成に甘んじて肥満となり、覇気の無い壮年のようでもある。我々の青少年時代には社会に、確かに目標があり、坂の上には青雲がたなびいていた。現代日本は完全に爛熟し、あらゆるものが自由、豊富で、がつがつしなくていい面が彼らにも影響し腐臭さえ漂う。

つらつら思案して見ると、どうもその原因が、それだけではない様に思える。

「偉大なるものに近づこうという心は、同時に自らを反省し、至らぬ点を恥じ、懼れ、自戒する。尊い、高いものを仰ぎ、感じ、憧憬し近づきたいと思う。これが敬の心である。敬という心は、尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心である」
こう言われたのは故安岡正篤先生である。

私は、この安岡先生の言葉にヒントがあると思う。人間には、敬されたいという心が、本源的に存在する。同時に、先ずは、敬するものに近づき模倣したいという欲求、それが創造へと進むのは人間生来のものである。動物には存在しない。物質的に満たされても、どんなに地位が低くても、貧困でも、敬されたいという精神的なものは存在する。個人段階では容易に理解できるであろう。自分が敬されたいと思うなら、先ず自分が相手を敬しなくては巧くいかないのは自明のことである。

さて、敗戦日本は、戦勝国の歴史的通弊であるが、彼等のカラクリを信じたままで、日本が戦前にとてつもない悪い事をしてきたと、戦後教育がこれを主眼に教えて子供を育ててしまった。
2千年の日本歴史の真実を教えないで、僅かの期間の、偏ったものだけを注入しすぎた。その結果、戦後の多くの日本人が、誇りに思い、敬される日本だと思わなくなったと思われる。
そんな人間集団ばかりだとすると、一体全体、その国の人間達はどうなるか。

敬するもののない人間集団は、何をしてもいいこととなり、自暴自棄となり破廉恥なことも平気でするようになるのではないか。
今は没落しているが、自分の先祖は立派な人で、世間から尊敬されていたと親から聞けば、心の隅にそのような人間にならねばとか、恥じないようにとか考えて自省するのではなかろうか。

これを日本国に置き換えるとよく分かる。戦後日本は、余りにも戦前の、有史以来の日本国の誇り得る歴史的人物の業績を、親も学校も教えていない。だから、子供達が誇りを持って見習うような敬する祖先を知らないから、今日のような事態になったのではないか。戦後の自虐的な在り様に起因すると結論を出さざるを得ない。

松江藩の著名な藩主、松平不眛侯は、嫡孫の少年が訪ねて来た折、全く対等な接遇をされ、敬語も使われて応対されたという。少年と雖も人格への敬意である。これを受ける孫は、あの偉い祖父の藩主が自分に対してきちんと接遇されたら背筋がぴんとして、それに応えようとするのが人間だ。人間とはそのようなものである。

日本国は有史以来、他国に比して遥かに凌駕する人物を輩出している。世界に誇り得る人材、発見、発明、歴史を有する。これをきちんと子供に教えないから、今日のような自虐的な現象が発生することとなった。要するに、わが家、すなわち日本には、ろくな先祖がいないからと思っているから、子供に矜持の心が育たない、故に恭謙なる誇りも生まれない。これでは、他国に劣る精神の青少年ばかりとなるのではないか。
日本人の先祖や歴史は世界的に見て、他国より優れている、伝統も素晴らしいものだと、誇りに思えば違ってくる。他を見下すことでなく謙譲が基本だが自意識が高くなりいい効果を生む。

自国の伝統文化、歴史を尊重する国民は他国からも尊敬される。それはアイデンティティが確立しているからだ。日本人の培ってきた伝来精神への先祖がえりが解決の要諦だと思われる。
(鳥取市) 鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典