日本人の「心の古典」2. 古事記
現在と不可分の関係にあるのが過去である。過去は絶対に取り消すことはできない。歴史は無限の彼方から連綿と織り紡がれている。そこに祖先や我々を包み込んだ日本人がある。自己の証しとしての歴史、そして古典がある。日本人の「心の古典」と題してみた。日本人の自伝、アイデンティティでもある。現在・未来にいかに対処するかを、この「心の古典」から知恵が得られないものであろうか。万葉集は本ホームページで屡々引用しているので長歌を主とした。歌でも叙情の文章にしても、なんと日本語の感性豊かで優美なものかが納得できる。世界最古の、あの源氏物語の、あの優美華麗な表現は日本語だけの、外国語など寄せ付けないものであろう。平成16111日 徳永圀典

平成16年12月

1日 わが国最古の史書である。天武天皇は稗田阿礼に記憶させ、後に元明天皇の命により大野安万侶が撰録したもの。 和銅5年、712年完成。古代人の偽らざる生活感情や物の考え方を素朴に伝えている。民族の情緒として素直に受け止めるべきものであろう。全てがフィクションではない。
2日 八雲立つ

かれ、避け追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ所に降りましき。この時に、箸その河より流れ下りき。

ここに、須佐之男の命、人その河上にありと思ほして、尋ねまぎ上りいまししかば、老夫―おきなーと老女―おみなーと二人ありて、童女―をとめーを中に置きて泣けり。
3日 しかして,問ひたまひしく、「なれどもは誰ぞ」。かれ、その老夫の答へ申ししく、「あは、国つ神大山津見の神の子ぞ」。わが名は足名椎と言ひ、妻―めーが名は手名椎と言ひ、娘が名は櫛名田比売−くしなだひめーと言ふ。 また、問ひたまひしく、「なが泣くゆえは何ぞ」答へ申ししく、「わが娘は、もとより八童女―やおとめーありしを、この高志―こしーの八俣―やまたーの大蛇―をろちー、年ごとに来て食−くらーへり。今、しが来べき時ゆえに泣く」。
4日

しかして、問ひたまひしく、「その形は、いかに」答へ申ししく「その日は赤かがちのごとくして、

身一つに八頭・八尾あり。また、その身にひかげー苔―と檜と杉と生ひ、その丈は谷八谷、峡八峡―をやをーにわたりて、その腹を見れば、ことごと常に血にただれてあり」
5日

しかして、速須佐之男の命、その老夫に詔−のーらししく、」この汝−なーが娘は、我−あーに奉らむや」答へ申ししく、「恐−かしこーし。また御名を知らず」

しかして、答へ詔らししく、「我は天照大神のいろせぞ。かれ、今、天より降りましぬ」しかして、足名椎、手名椎の神が申ししく「しかまさば恐し。奉らむ」
6日

しかして、速須佐之男の命、すなはちゆつ爪櫛にその童女―をとめーを取りなして、御みづらに刺して、その足名椎、手名椎の神に告−のーらししく、「汝−なれーども、

八塩折の酒を醸−かーみ、また垣を作りもとほし、その垣に八門を作り、門ごとに八桟敷−やさずきーを結ひ、その桟敷ごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛り待ちてよ」
7日

かれ、告りたまへるまにまに、かく設け備へて待つ時に、その八俣の大蛇、まことに言のごと来ぬ。すなはち、船ごとにおのが頭を垂れ入れ、その酒を飲みき。

ここに、飲み酔ひ止まり伏し寝ねき。しかして、速須佐之男の命、その御佩−みはーかせる十挙剣―とつかつるぎーを抜きその蛇を切り散―はふーりたまひしかば、肥の河、血になりて流れき。
8日 かれ、その中の尾を切りたまひし時に、御刀―みはかしーの刃欠けき。しかして、あやしと思ほし、御刀の先もちて刺しさきて見そこなはせば、都牟羽―つむはーの太刀あり。 かれ、この太刀を取り、けしきものと思ほして、天照大神に申しあげたまひき。こは草薙の太刀ぞ。
9日 かれ、ここをもちて、その速須佐之男の命、宮造るべき所を出雲国に求―まーぎたまひき。しかして須賀の所に至りまして詔らししく、 「我―あれーここに来て、我が御心すがすがし」と詔らして、そこに宮を作りていましき。かれ、そこは今に須賀といふ。この大神、初め須賀の宮を造らしし時に、そこより雲立ちのぼりき。
10日

しかして、御歌を詠みたまひき。その歌に言ひしく、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに八重垣作る
その八重垣を

ここに、その足名椎の神を呼びて告らししく、「汝―いましーは、我が宮の首―おびとーに任−よーささむ。また、名を負はせて、稲田の宮主、須賀之八耳の神と名づけたまひき。
(上巻 速須佐之男の命)

11日

―やまとーは国のまほろば
-中景天皇の巻

しかして、天皇―すめらみことーまた頻−しーきて倭建−やまとたけるーの命に詔らししく、「東の方十あまり二つの道の荒ぶる神、

またまつろはぬ人どもを言−ことー向け和平−やはーせ」と詔らして、吉備の臣らが祖−おやー、名は御すき友耳建日子を添へて遣はしし時に、ひひらぎの八尋矛−やひろほこーを賜ひき。

12日 かれ、命−みことーを受けてまかりいでましし時に、伊勢の大御神の宮に参りて、神の朝廷―みかどーを拝−おろがーみて、すなはちその姨倭比売―をばやまとひめーの命に申したまひしく、「天皇、すでに我を死ぬと思ほすゆえにか、何とか、西方の悪しき人どもを撃ちに遣はして、遷り参上り来し間、

いまだいくだもあらねば、軍衆−いくさびとーを賜はずて、今さらに東の方十あまり二つの道の悪しき人どもを平らげに遣はすらむ。これによりて思はば、なほ我すでに死ねと思ほしめすぞ」と憂へ泣きてまかります時にも倭比売の命、草薙の剣を給ひ、また御袋―みふくろーを賜ひて「もし、にはかなる事あらば、この袋の口を解きたまへ」と詔らしき。

13日 かれしかして、相模国に至りましし時に、その国の造―みやつこー、いつはりて申ししく、「この野の中に大きな沼あり。この沼の中に住める神、いとちはやぶる神ぞ」ここに、その神を見そこなはしにその野に入りましき。しかして、その国の造、火をその野につけき。

かれ、欺かえぬと知らして、その姨倭比売の命の賜ひし袋の口を解きて見たまへば、火打その袋にあり。ここに、まづその御刀―みはかしーもちて草を刈り払ひ、その火打ちもちて火を打ち出でて向火をつけて焼き退けて、還り出でてみなその造どもを切り滅ぼし、すなはち火をつけて焼きたまひき。かれ、今に、焼津という。

14日 そこより入りいでまして、走水−はしりみづーの海を渡りましし時に、その渡の神波を起こし、船をもとほして、え進み渡りまさざりき。しかして、その后、名は弟橘比売ーおとたちばなひめーの命の申したまひしく

「我、御子に代りて海の中に入らむ。御子は,遣はさえし政−まつりごとー遂げ、返り言―ことー申したまふべし」海に入りまさむとする時に、菅畳八重・皮畳八重・絹畳八重もちて波の上に敷きて、その上に下りいましき。

15日 ここに、その荒波おのづからにななぎて、御船え進みき。しかして、その后の歌ひましく、
さねさし 相模の
ーさがむーの小野に燃ゆる火の火中−ほなかーに立ちて問ひし君はも

かれ、七日の後に、その后の御櫛、海辺の御櫛、海辺に寄りき。すなはち、その櫛を取りて、御陵−みはかーを作りて、収め置きき。

16日

そこより,いでまして、三重の村に至りましし時に、また詔らししく、「我が足は、三重の勾−まがりーのごとくして、いと疲れたり」かれ、そこを名づけて、三重と言う。

そこよりいでまして、能煩野―のぼのーに至りましし時に、国を思−しのーひて、歌ひたまひしく。

倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣
  山隠−こもーれる 倭しうるはし

17日

また、歌ひたまひしく
命の またけむ人は

たたみこも 平群の山の
熊白檮−くまかしーが葉を 髻華―うずーに挿せその子

この歌は、国思
−くにしのーひ歌ぞ。

また歌ひたまひしく、
はしけやし 我家の方よ 雲居立ちくも

こは片歌ぞ。この時に、御病いとにはかになりぬ。しかして、御歌よみたまひしく、
嬢子−をとめこーの 床のべに
わが置きし 剣の太刀 その太刀はや
歌ひ終ふる すなはち崩−かむあがーりましき。しかして、駅使−はゆまづかひーをたてまつりき。

18日

ここに、倭にいます后たち、また御子たち、もろもろ下り至りて、御陵−みはかーを作り、すなはちそこのなづき田に這ひもとほりて、泣きて歌よみしたまひしく、
なづき田の 稲がらに 稲がらに  這ひもとほろふ ところづか

ここに、八尋白ち鳥になりて、天に翔−かけーりて浜に向きて飛びいでましき。しかして、その后また御子たち、その小竹―しのーの刈りくひに、足切れ破れども、その痛きを忘れて、泣きて追はしき。

19日

この時に歌ひたまひしく、
浅小竹原−あさじのはらー 腰なづむ空は行かず
足よ行くな 
また、その潮―うしほーに入りてなづみ行きましし時に、歌ひたまひしく、

海処―うみがー行けば 腰なづむ大河原の 植え草 海処は いさよふ 
また、飛びてその磯にいましし時に、歌ひたまひしく、
浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ 

20日 この四つの歌は、みなその御葬―みはぶりーの歌ひき。かれ、今に至るまでに、その歌は、天皇の大御葬に歌ふぞ。かれ、その国より飛び翔り行きて、河内国の志幾にとどまりましき。

かれ、そこに御陵―みはかーを作りて鎮まりいまさしめき。すなはちその御陵を名づけて、白鳥の御陵と言ふ。しかるに、またそこよりさらに天に翔りて飛びいでましき。

21日

古事記下巻
仁徳天皇
聖の帝の像「枯野の琴」

この御代に、兎寸河―とのきがわーの西に、一つの高き樹ありき。朝日に当たれば、高安山を越えき。かれ、この樹を切りて船を作れるに、いとはやく行く船にありき。時に、その船を名づけて、枯野と言ふ。

かれ、この船もちて、朝夕―あしたゆふへーに淡路島の清水を汲みて、大御水―おほみもひー、献−たてまつりーき。この船破れて塩に焼き、その焼け残りし木を取りて琴に作りしに、その音七つの里に響―とよーみき。

22日

しかして、歌ひしく。
枯野を塩に焼き しが余り 琴に作り かく弾くや

由良の門―とーの門中―となかーの海石―いくりーにふれ立つ なづの木の さやさや
こは、しつ歌の歌ひ返しぞ

23日 三輪山伝説
古事記中巻
崇神天皇

この意富多々泥子―おはたたねこーといふ人を、神の子と知れる所以―ゆえーは、上にいへる活玉依琶売―いくたまよりびめー、その容姿端正―かたちうるはーしくありき。ここに、壮夫―をとこーあり。

その形姿―かたちー威儀―すがたー、時に比―たぐひーなし。夜中の時にたちまちに来−きたーる。かれ、相感−あひめーでて共婚―まぐはーひして住める間に、いまだ幾時―いくだーも経ぬに、その美人妊−をとめはらーみぬ。
24日

しかして、父母、その妊みしことを怪しびて、その女―むすめーに問ひて曰ひしく、「汝―なーはおのづから妊めり。夫―せーなく何のゆえにか妊める」答へ曰ひしく、「麗美−うるはーしき壮夫あり。その姓名―かばねなーも知らず。

夕毎―よごとーに来りて、住める間に、おのづから妊みぬ」ここをもちて、その父母、その人を知らまく欲り、その女に教へて曰ひしく、「赤土―はにーを床の前に散らし、へその積麻―うみをーもちて針に貫き、その衣の裾に刺せ」。
25日

かれ、教へのごとくして朝−あしたーに見れば、針着けたる麻は戸の鍵穴よ控−ひーき通りて出でて、ただ残れる麻は三勾−みわーのみなりき。しかしてすなはち、鍵穴より出でし状−さまーを知りて、

糸のまにまに尋ね行けば、美和山―みわやまーに至りて、神の社にとどまりき。かれ、それ神の子とは知りぬ。かれ、その麻の三勾残りしによりて、そこを名づけて、美和といふ。
26日

日本書紀三輪山の猿―皇極天皇巻24―求愛交歓の場

皇極三年六月乙巳に、志紀上郡―しきのかみこほりー申さく、「人ありて、三輪山にして猿の昼眠−ねぶーるを見て、ひそかにその腕−ただむきーをとらへて、その身をやぶらず。猿なほ眠りて歌ひて曰く、

向つ嶺−をーに 立てる夫−せーらが 柔手−にこでーこそ 我が手を取らめ 誰−たーが裂手―さきでー 裂手そもや 我が手取らすもや
その人、猿の歌を驚きあやしびて、捨てて去りぬ」と申す。
これはこれ、あまたの年を経て、上宮−かみつみやーの王−みこーたちの、蘇我鞍作がために、居駒山にかくまるる兆しなり。

27日

悪逆の子日本霊異記・中巻3―最古の仏教説話集

吉志火麻呂―きしのひまろーは、武蔵国多摩郡、鴨の里の人なりき。火麻呂の母は、日下部の真刀自なりき。聖武天皇の御代に、火麻呂、大伴に、筑紫の防人に指されて,応―まさーに三年経むとす。母は子にしたがひて行きて相かひ養―ひだーしき。

その妻―めーは国にとどまりて家を守る。時に火麻呂、己が妻を離−かーれ行きて、妻のいとしさに堪へずして、さかしまなる謀りことを起こし、我が母を殺し、その喪に遭ひてしたがひ、役−えーを免れて還り、妻とともに居むと思へり。

28日

母の人となり、善きことを行ふ心とす。子、母に語りて曰はく、「東の方の山の中に、七日、法華経を説きまつる大会―だいえーあるなり。いざ、母よ、聞きたまへ」と言ふ。

母、欺かれ、経を聞かむと思ひ、心を起こし、湯に洗い清め、ともに山の中に至りき。子、牛のごとき目をもって母をにらみて曰はく。「汝―なむぢー地にひざまづけ」と言ふ。母、子の面をまぼりて答へて曰はく「何の故にかしか言ふ。もしは、汝、鬼―ものーに狂へるにや」と言ふ。
29日 子、刀を抜きて母を切らむとす。母、すなはち子の前にひざまづきて曰はく、「木を植えむ心は、その木の実を得、しかしながらその影に隠れむがためなり。 子を養はむ心は、子の力を得、しかしながら子の養ひをかがふらむがためなり。頼みし木の雨漏るがごとくに、何ぞ、我が子の、思ひしに違ひて今怪−けーしき心のある」と言ふ
30日

子つひに聞かず。時に母わびて、身に着たる衣―きれーを脱ぎて三所に置き、子の前にひざまづき、遺言して曰はく、「我がために、しのひ包め。思ふに、一つの衣は、我が兄の男―をのこー、汝、得む。一つの衣は、我が中の男に賜りたまはむ。

一つの衣は、我が弟の男に贈りたまはむ」と言ふ。さかしまなる子、歩み進みて、母のうなじを切らむとするに、地裂けて落ち入る。母すなはち立ちて進み、落ち入る子の髪を抱―うだーき、天を仰ぎ泣きて、願はくは、「我が子は鬼―ものーに狂ひて事をなせり。まことの現心―うつしごころーにはあらず。願はくは罪を許したまへ」と言う。
31日

なほし髪を取りて子をとどむれども、子つひに落ち入る。慈母、髪もちて家に帰り、子のために法事をまうけ、その髪を箱に入れ、仏像の午前―みまへーに置きて、謹みて諷誦−ふじゅーを請ふ。

母のあはれみは深し。深きが故に悪逆の子にすら哀―かなーしびの心を垂れて、それがために善を修しき。まことに知る、不孝の罪報ははなはだ近し。悪逆の罪はその報いなきにはあらずといふことを。