美しい日本歌 平成16年12月 京都の師走

京都の師走と言えば、南座であろう。古都、千年の都は師走も秋も夏も春も、そして冬も、年がら年中季節に応じて情緒が漂う。師走の歌を中心に探して見た。

1日 中村吉衛門

冬霧や四条をわたる楽屋人

年末の顔見世は中々の人気である。南座は京都唯一の桧舞台。
2日 吉井勇

顔見世の招き看板仰ぐとき
ふと胸を過ぐはかなかるもの

顔見世興行が始ると京都の師走は駆け足である。愛宕山あたり、時雨れて曇り冬の気配である。

3日 木下利玄

朝寒の祇園の小路おしろいをこぼししごとも薄雪ふりぬ

だらりの帯の舞妓が浮かぶ。
4日 吉井勇

一力の縁に燕がはこび来し金泥に似る京の土かな

一力茶屋、縁の燕もいかにも京つばめ
5日 城昌幸 かの宵の妓−おんなー失せしと秋たより

お気に入りか、名ありしか、浮名の妓か、風評雀。

6日 高浜虚子 暮遅き花見小路の人通り

花見小路の南の入口は、べんがら色の大きな犬矢来のある「一力茶屋」が、京の花街の情緒たっぷりに人々を惹きつけている。

7日 五島美代子

尼君も舞妓も渡る京の橋この淡雪に艶めくらむか

この歌にあるような昔の風情の橋はもうないのでは。
8日 吉井勇

うっとりと酔ふて夜長の太夫かな

島原の揚屋に呼ぶのが太夫、容貌秀で、書道、茶道、華道、和歌・俳諧などに堪能な者から選ばれた。
9日 吉井勇

稲荷山赤き鳥居のつづきたる頂ちかき遠太鼓かも

昔、稲荷に住んでいた長者が餅を的にして矢を射ると餅が三羽の白鳥となり三の峰へ飛び、その跡に三つの稲が生えていた。それで三つの峰へ衣食住の三神を祭ったのが稲荷社の起源という。

10日 吉井勇

京寒し鐘のおとさへ凍るやと言ひつつ冷えし酒をすすりぬ

伏見には酒の蔵元が40くらいある。地下水が豊富らしい。甘口は水の硬度が柔らかいのと杜氏の伝統か。

11日 川田順

鳳凰堂の朱のにほひの夕寒み遊ぶ人なしこの池の辺に

真っ黒な樹林の陰に入ると、どこからともなく蛙の声が静かに聞こえてきた。

12日 与謝野晶子

定朝―じょうちょうーの御仏のごと黄金を再び胸に塗るよしもがな

鳳凰堂の本尊は藤原時代の名人・定朝の代表作。
13日 菁々

雪晴れの神殿に破魔矢の羽根光り

石清水八幡宮の男山祭、奈良の春日大社の祭、加茂の葵祭りは天下の三勅祭と言われる。

14日 坂東蓑助

傘かりて裏寺町の時雨かな

新京極は明治に開かれた。東側の狭い小路が裏寺町で「うら寺」と呼ばれている。

15日 武嶋羽衣

嵯峨もよし新京極の夜もよしやどりかさぬる京の三条

京都の河原町が銀座とすれば新京極は浅草の味であろうか。

16日 吉井勇

かへり来ぬ北野やしろの雪除の土器守―かわらけまもりーふところにして

北野神社の祭り、ずいき祭りー芋茎祭とも言う。
17日 吉井勇

寂しければ大徳寺にもゆきて見つ時ならぬ雪降るがまにまに

大徳寺は古い巨刹、昔ながらの風姿あり。

18日 吉井勇

生くることの清さ深さを知らしめし利休聖のまへに額づく

利休は茶道の四能を述べた、和敬静寂である。

19日 吉井勇

恋びともいづれは土にかへるらむはかなし悲し鳥辺野の土

兼好の徒然草に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ」がある。

20日 木下利玄

石だたみぬれて二人を映しつるそは宵なりき清水の雨

紅葉の名所、本堂からの景観は捨てがたい。
21日 城昌幸

ふと仰ぐ八坂の塔や今朝の月

加茂川西岸で東山を眺めると、朝靄の中に形よく霞んで見える塔、京都のシンボル。

22日 高浜虚子

眠る山にかへる雲あり南禅寺

湯豆腐の寺、最盛期は室町時代の初めで僧千人、寺域数十万坪であったと言う。

23日 中村健吉

雨雲のうへに日暮れてむかしより大比叡寺は鐘を鳴らさず

詩人、宮沢賢治の碑が根本中堂の前にある。「ねがはくば妙法如来正返偏知大師のみ旨成らしめたまへ」

24日 川田順

四明嶽を登ると汗はにじめども若杉の根に残れる雪あり

野鳥の繁殖地、比叡山の鳥の王者は、三光鳥
25日 樟樟蹊子

つゆけしや簪も杉立つ雲ヶ畑

杉坂というくらいの杉の名産地、北山丸太
26日 小塙徳女

大原や日もすがらなる冬がすみ

大原の名物は「しば漬」、「小原女」

27日 長塚 節

糾の森かみのみたらし秋澄みて桧皮はひでぬ神のみたらし

「連理の榊」が近くの下鴨神社社前にある。
28日 神保朋世

寒菊に去来とのみの墓小さし

去来「いと便なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友だちの許に消息送るとて、みづから落柿舎と書はじめけり」

29日 巌谷小波

野の宮の蔦吹く宵や秋の声

嵯峨の中でも、ここは昔ながらの感じの濃いところである。

30日 富安風生

薄紅葉仏の墓をいづれとも

祇王寺、「萌出るも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべき」

31日 千利休

人生七十 力囲希拙 吾道宝剣 祖仏共殺 ひつさぐる我が得具足の一つ太刀いまこの時ぞ天になげうつ

辞世、時の絶対権力者、秀吉に対し、従容として武士の如く、端然として自らの生を絶った。大徳寺に墓がある。