日本、あれやこれや G日本の原理3.日本の神様

平成16年12月

1日 神社の格
1.神宮
単に神宮と言えば伊勢神宮。神宮の社号は天皇、或いは天神を祭る神社に多い。

天皇系は宇佐神宮・明治神宮など。
天神系は、石上神宮・香取神宮・鹿島神宮など。

2日 2.大社 古来、大国主神を祭る出雲大社のみの社号であった。

戦後、住吉・日吉・伏見稲荷・春日など全国に多くの分社を持つ有力神社の総本社が大社を名乗っている。

3日 3.神社 大半がこの社号である。

前日引用の他に八幡・熊野等、総本社の名を冠している神社が多い。

4日 延喜式神名帳1.

神祇―天つ神と国つ神―制度が充実してきた平安時代に完成した。

これに掲載されている神社を「式内社」と言う。それ以外を「式外社」という。

5日 延喜式神名帳2.

式内社は朝廷から幣帛がでる官幣大社と国司から出る国弊社に分けられた。平安末期には朝廷と縁の深い有力神社22社を定めて保護した。

一の宮・二の宮が定められ、総社の制もできた。総社は国府に有力神を勧請した神社である。

6日 全国神社総数

敗戦で米国占領軍命令の「神道指令」により一切の社格は廃止され神社と国家は分離された。

小祠を除く神社総数は約8万1千社、内神社本庁が統括する神社は7万9千社。各県平均2千社で日本は神々の国に間違いない。神は日本の風土に生きている。

7日 参拝祈願の仕方
1.

参拝は二通りある。正しい作法を。
1. 一般参拝は社頭参拝とも言う。拝殿前で賽銭箱に賽銭を入れて、拍手を打ち拝礼する。

2.正式参拝は、初宮参り・七五三・成人式・厄年・年祝いなど、特別祈願したい時、祈祷料を納めて拝殿にあがり参拝する。昇殿参拝とも言う。大麻―おおぬきーによる修祓の儀・祝詞の奏上・玉串の拝礼。
8日 参拝祈願の仕方
2.

清潔な衣服を。神と接する場合は必ず、心身が清らかでなくてはならない。ハレの日の正式参拝には、正装或いは晴れ着を。

「神は鳥居をくぐつたときから見そなわす」という。鳥居は聖域と俗界の境界である、くぐったら威儀を正せ。参道を歩く時は真中を避けて端を歩くこと。真中は正中といい神が歩かれる道である。

9日 参拝祈願の仕方
3.

手水舎で手を洗い口をすすぎ、身も心も清らかになり初めて神前に参ることが許される。正しい作法と水の浄化力により心も洗い清められる。

手水、右の手に柄杓を持ち水を汲み左手に注ぎ、次に左手に柄杓を持ち同じ様に右手に注ぐ。最後に再び右手に柄杓を持ち水を汲み、それを左手のたなごころに受け、その手を口に持って行き口をすすぐのがしきたりである。

10日

参拝祈願の仕方
4.

お賽銭は神への感謝の捧げもので古くは稲米を奉納したので「お初穂料」とも呼ぶ。

お賽銭を捧げた後、鈴の緒を両手でしっかり持ち三回力強く鳴らす。「鈴祓え」と呼び、鈴の清らかな音に込められた神霊の力で自分の魂を祓い清める。

11日 参拝祈願の仕方
5

「二拝二拍手一拝」が基本。拝礼は神の霊威を畏敬し服従すること。拍手は神を招き御霊を頂くことを意味する。

拍手は、背筋を伸ばし、清冽の気を漲らし、何より清らかに無心に、どこまでも響くように打つ。拍手は霊魂を振り動かす魂振りである。

12日

参拝祈願の仕方
6.

修祓と玉串奉奠、修祓を受ける、神職が祓詞を奏上した後、大麻―おおぬきー柳や木を芯にして麻や紙を取り付けたものーで参拝者や周囲を清める。これで神前に進むことができる。

神職の祝詞の後、玉串奉奠、玉串とは魂のこと。神前に奉奠することで自分の魂を神に捧げるの意。二拝二拍手一拝し退く。

13日 参拝祈願の仕方
7.

神棚は家族や住居を守護して頂く神様を祭る所で一家の精神的中心である。氏神、信仰する神社のお札を毎年正しくお受けする。

祭る場所は清浄で明るく、静かな高いところがよい。家族全員が集まり、南または東向きに設ける。

14日

三種の神器
1.

歴代天皇が即位とともに引き継ぐ、天孫・瓊瓊杵命―ににぎのみことーがこの国土に降臨する時、天照大神より授けられた。皇位を象徴するもの。八咫鏡、天叢雲剣、八坂瓊勾玉である。

「八咫鏡」やたのかがみ。伊勢神宮にご神体として奉斉されている。天の岩戸に隠れた天照大神を岩屋から出すのに使われた。

15日

三種の神器
2.

「天叢雲剣」あめのむらくものつるぎ。日本武尊が東征にあたり、伊勢神宮の斉王・倭姫命から授けられた。火攻めにあって、この剣で草を薙ぎ払い難を逃れたので、別名、草薙剣。

「八坂瓊勾玉」やさかにのまがたま。
皇居の賢所に奉斉されている。碧玉製で形状は三日月形。色調の青緑色は月光を意味する。

16日 遷宮

1300年間、20年ごとにすべての社殿を隣地に新造し神座を遷す行事。式年遷宮という。

飛鳥時代に天武天皇が定められてから平成5年が第61回の遷宮であった。

17日

遷宮の哲学的意義

20年という周期で行われる遷宮を通じて、伊勢の大地とこの日本の国土・国民に新たなる「生命力」を甦らせることにある。

神と人の生命が、絶えざる甦りにより永遠に維持されていくと言うことである。

18日

大嘗祭

新嘗祭と共に天皇の祭祀の中心である。

大嘗祭は天皇が天照大神と新穀を共食し、神霊と一体化し、霊力、資質を身につけ天皇位を神権的に継承する大切な儀式である。新天皇が「天津日嗣」―あまつひつぎーとなられる重要儀礼である。

19日

.神嘗祭

伊勢神宮の最大の祭り、10月15日から25日。

新穀の初穂を内宮・外宮の大神に供えて収穫を感謝する祭り。

20日

ケガレ1.

日本人は清浄を尊ぶ、神も人もこのうえなく清浄な若々しい生命力を尊ぶのである。

生命現象に直結する死穢・産穢・血穢の不浄なケガレが生命力の凋落・枯渇を象徴するが清浄は躍動する生命力である。

21日

ケガレ2

ケガレとは「気―霊―枯れ」で生命力が枯れることである。このケはハレー晴―に対するケである。

ケガレは日常の若々しい生命力の衰亡である。清浄は若々しい生命の充満で躍動である。

22日

祝詞1

神祭りの中心儀礼、祝詞を奏上する神主を「斉王」と呼ぶ。斉−いわいー祭るの意。斉−ゆーまわり、清まわりと言う清浄な状態で、降神の儀を行う。

或いは御扉を開扉して神霊の出御を仰ぎ楽を奏で神饌を供えて饗応する。それからおもむろに祝詞を奏上し神に叶えて貰うという次第。

23日

祝詞2

神に奏上する神聖な詞であるから、第一に「麗しい言葉」でなくてはならぬ。信仰から溢れた誠意のこもった、正しく、美しい言葉で、大和言葉であると共に、誰の心にも触れ、聞きよい、筋道の通った文章でなくてはならぬ。

第二は、生命力溢れる言霊の霊力が神と人とを感動させ神がそれを喜ばれるという期待と祈りが込められている。

24日

祝詞3

祓詞
毎日参拝の最も簡素な祓詞

祓ひ給へ 清め給へ 幸は給へ、祓ひ給へ 清め給へ 幸は給へ、祓ひ給へ 清め給へ 幸は給へ

25日

祝詞4

家内安全の祝詞

八十日日―やそかびーは有れど、今日の生日―いくひーの足日―たるひーに、掛巻−かけまくーも畏−かしこーき、天照大神(或いは祭る神の名)大神たちの大前に、自分の名前、恐−かしこーみ恐み白−もうーさく、予てより大神の神徳―みいつーを、崇−あがーめ尊び仕え奉−まつーらくを、見行―みそなわーし給ひて、大神たちの高き貴き御恩頼―みたまのふゆーを以−もちーて、恤―あわれーみ給ひ、慈−いつくーしみ給ひて、

家内―いえうちーの親族―やからーは、各―おのーも各も、清き赤き真心に誘−いざなーひ導き給ひて、日に異−けーに勤−いそしーみ励む生業―なりわいーを弥―いやー進めに進み給ひて、過ち犯しけむ罪咎有らむをば、見直し聞直し坐−まーして、諸々の禍事―まがごとー有らしめず、子孫―うみのこーの八十連属―やそつづきーに至るまで、家門―いえかどー高く立栄えしめと、恐み恐みも白−まおーす。
26日

神輿

最初の神輿は宇佐八幡宮で誕生した。神輿は異動可能な神座である。

神輿の数は全国で三万五千ある。国宝の神輿は大阪・誉田八幡宮と、和歌山県・粉河八幡神社の二基。

27日

大和言葉

万葉集にも、わが国は神代の昔から「言霊−ことだまーの幸−さきはーふ国」「言霊の助くる国」と語り継ぎ、言い継がれていると歌われている。

我々の遠い先祖は、大和言葉には「言霊」という霊魂が宿り、その働きにより、人生の吉凶禍福をも左右できるという言霊信仰を持ち続けてきた。

28日

神道の基本思想

「恥を知る」、「己の心に問え・天知る、地知る、人知る。」「お天道様が見られる」「障子に目あり壁に耳あり」など目に見えぬ神を畏れ己の愚を戒めた。

神道では、罪も含めた全てのケガレは禊や祓い清めることで回復する。神に額づいて反省し「もとつ心の直きにかえる」のである。

29日

ムスヒ
産霊

神道の根本原理の一つに「ムスヒ」がある。生産と技術の原点とも言える。

物を生み成し、造り成す。という自然の働き、あるいは摂理を母胎に形成された「産霊―ムスヒ」の観念である。
30日 万物が神である 日本の神は霊性のあるすべてのものが神となる。

本居宣長の言葉。「さてすべて神というものは、古くから書に書かれている天地の諸々の神たちを含めて、それを祭っている社に坐す御霊も神といい、また人はもちろんのこと、鳥獣木草のたぐい海山など、そのほか何でも、世の常ならずすぐれていて徳のある、可畏−かしこーきものを神という。

31日

日本の神様

つまりは霊威をうらわすものであれば、自然の万物が神である。神々が自然神も祖先神とともに人間的容姿をそなえ、意志や感情を持ち、人格神に近いもの

となっているのは、祖先の霊が昇華して神となる時、実在した人間の姿を借りると思われたためであろう。キリスト教とかの唯一絶対神と違うところである。