莫妄想―まくもうそうー
逆境の妄想が人間をダメにする。松原泰道師の説話から編集した。

平成16年12月

1日 道元の言葉

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするなり」道元

2日

ほとけはつねにいませども うつつならぬぞあはれなる ひとのおとせぬあかつきに ほのかにゆめにみえたまふ 梁塵秘抄

「ほとけ」はつまり「こころ」であり「一大心霊」であり「大いなるいのち」であるところのものは常住である。いつも私たちのまわりに実在している。

3日

その大きい力を「うつつ」、つまり現実したものとしてつかまえることは出来ない。

つかまえたと思えば、それはもう「識」であり「ほとけ」ではない。

4日

ヴァヤダンマー サンカーラー アッパマーデーナー サンパーデートゥハ

釈迦臨終の言葉―大般涅槃経
ー明日に訳語と解説掲載

5日 釈迦臨終の言葉の意味
―松原泰道師訳

「心は移ろいやすいもの 見落とすことなくその中にいよ」

6日

先月の莫煩悩に似た言葉に「莫妄想」がある。「妄想を起こすな」である。妄は、空しい、実際でないの意。

故に「妄想」とは事実にないことを事実にあるように思ったり、考えたりして悩むことである。

7日

言葉を変えて言えば、思ったり考えたりする必要もないのに、わざわざ思ったり考えたりする無駄な発想の名である。

妄想は事実から遊離した足場のない思考であるから、所謂「愚痴」にも通ずる。

8日

莫妄想の語は、中国の無業という禅僧が毎日唱えた自戒の言葉という。

現代人は多忙の癖に非能率な煩悩や妄想で時間も頭脳も空費している。莫妄想!莫妄想!と自分を大いに叱る必要がある。
9日

しかし、妄想も煩悩も人間成長の過程で必然的に遭遇する通過儀礼である。

つまり妄想・煩悩を体験して、それを好ましい価値に転換して勇気・努力・決断等の財産が増えるのである。
10日

妄想・煩悩は突然我々に襲いかかる、精神上の刹那の一現象に過ぎない。浮き雲や根無し草に我々の理性が悩むのは愚かである。

誰でも心中に起こすものだが、その頻度は人により異なる。意思の薄弱な人は起こす度合いも多いし、内容も多岐である。薄志弱行で決断力に欠ける人間で同じ思いの人は多い。

11日 良寛さんは、「病むときは、病むがよろしく候」と語ったという。病気の時は病気にわきめもふらずに自分を投げ込めという。

これを「病気に成り切る」とも、「病気三昧ともいう」

12日 そうすると妄想や煩悩の入り込む隙がなくなる。すると、病むことにより健康時には味わえなかった人生の意義が発見される。

禅者は、それを「病中もこれ山野」という。つまり「人生の大切な修行の場」とうけとめている。

13日

明治文学の巨匠・森鴎外は本命を林太郎といい、陸軍軍医学校の教官や陸軍医務局に勤務した一介のサラリーマンである。

サラリーマンにとり何よりも重大な関心事は、人事異動で今も昔も変わらない。

14日 陸軍のある時の移動で森林太郎は東京から九州の小倉へ飛ばされる。全く絶望的な左遷の憂き目にあう。

再び浮上することはおそらくは無いかも知れぬと友人は同情する。が、皮肉なのは彼のライバルが破格の栄転をしたことを彼自身、他から知らされたことである。

15日

森林太郎のこのときの心の痛手がいかに深いかは、誰でも想像できよう。しかも妥当とは思えぬ異動の原因が、林太郎が軍人としてあまりに好ましからぬ文筆活動を続けている点が上司に睨まれたらしいと分かる。

こんなとき、君たちはどうするか。私だったら自暴自棄になり、酒や女で鬱憤を晴らすであろう。

16日

大人物といわれた林太郎も人間であるから、はじめは烈しく懊悩して、母への手紙にも

「辞職しょうか」と決意を仄めかしたりす。しかし、さすがは林太郎であった。

17日

彼は自分の激情を自分で抑え、整理につとめる。

先ず彼が22才の頃留学したドイツ文学の研究を心ざし、ドイツ語を初め、多くの外国語をあらためて学び直す。
18日

そして、ドイツ文学の翻訳に自己投入する。

彼の不朽の名訳「即興詩人」は、実に彼が左遷された逆境時代に手がけてこれを完成している。
19日 私は、森林太郎のこの不屈の努力を、日銀理事・吉野俊彦氏の著」森鴎外私論」で知り深い感銘を受けた。

また彼と「即興詩人」との出会いにも興味深いものがある。

20日

「即興詩人」は、デンマークの有名な童話作家アンデルセンが5才のとき書いた長編小説である。

「即興詩人」が世に出た同じ1835年に、おなじく彼の童話処女作「子供のためのお話」が発表されている。

21日 アンデルセンは、貧しい靴屋の子に生まれ、苦労してコペンハーゲンの大学を卒業する。家は貧しかったが、彼の父は話好きで、暇があると必ず色々の昔話を彼に聞かせた。

アンデルセンは、幼少のころから父の話を聞きながら成長した点を記憶すべきであろう。

22日

林太郎がこの「即興詩人」の翻訳を彼の左遷時代に取り上げ、自己を賭けた意味も察しられ、私は自分の胸も引き締められる思いがする。

この名翻訳によって、彼の文学者としての位置を確立する。彼の最悪の悲境時代において。

23日

白隠禅師の口跡―こうせき、物の言い方―を真似るなら「逆境が人間をだめにするのではなく、逆境の妄想が人間をだめにする」のである。

逆境や、ツイていない時期はたしかに実在する。しかし、必要以上にもまた事実以上に自分の不遇を拡大評価する妄想から自分を台無しにしてしまうことを知らねばならぬ。

24日 最近も、一地方公務員である私の知人が、ある事件のために辞職せざるを得なくなった。いわゆる詰め腹を切らされたのだ。彼は私に悶々の情を訴えるので、鴎外の逸話を告げたら、彼の顔にはじめて生気が蘇った。

一時の情熱で心の致命傷が癒されるわけにはいかない。やはり「継続」という不断の努力と、心の健康は、自分の責任であることを忘れてはいけない。

25日

心の傷を癒し、その心の健康を維持するには読書がいい。よい書物は、いつも変わらぬ態度で私たちに接してくれるからだ。人間と違い書物には感情の起伏がないからである。

読書も黙読ばかりしていると、その間にやはり妄想も煩悩も起きる。出来るだけ声を出して読んだほうがいい。しかし音読の出来ない事情のときは、心中で声を出して、一字一字読んでいくと、余計な雑念妄想の起こるのを防げよう。

26日

おのがこころを師とすべし おのがこころを措きて 他に師を求めざれ 

おのがこころを師となさばまことの知恵の法―おしえーを得べし   法句経

27日 「病むときは、病むがよろしく候」良寛

病気三昧、病気になりきるとも言う。そうすると妄想や煩悩が入り込む隙がなくなる。健康な時に味わえない人生の意義が発見されるという。病気も人生の大切な修行の場という。

28日 「失意・逆境ともにこれ山野」

人間は病む存在、「ツイテいない時、これ山野」と受け止めて人生への情熱をかき立てて行かねばならぬ。ツイテいない時ほど煩悩や妄想が活躍するからである。

29日 妄想が人間を食い殺す。

白隠禅師「病気が人間を殺すのではなく、妄想が人間を食い殺すのだ」との名言を残された。

30日

釈尊「賢い人は病気になっても、心の病が少ないから肉体の苦痛だけですむ。愚かな人は、心と肉体の二重の苦しみを背負う」

釈尊の言われた賢い人とは、教えを求め励む人であり、愚人とは、教えを求めず怠る人をさす。

31日

学問くずれ・地位くずれ・金持ちくずれ。―学識も、地位も、財産も、いずれも正しく自分のものになる為には、それらの価値を一度は忘れて、丸裸になる努力が必要。自己顕示にあくせくするより、顕示するべき自分は何もないとの水洗いが現代人には何より肝要である。

世の中は妙なもので、売り込みに夢中になるとかえって買い手がつかない。しかし、隠れれば隠れるほど、真実の光の穂先が現れて人から求められる事実は、今も昔も変らない。謙虚の徳を身につけた人は、どの社会に於いても専門の仕事や知識をよく水洗いして、「愚」に生きる人だと思う。ここにいう愚は、人間の最高にして最深の自覚を言う。水洗いが行き届いた人は、どの業界にあっても息切れしない。好不況にかかわらず、いつも変らぬペースで歩き続く。