日本海新聞 潮流寄稿 平成16年2月2日

男と女に関する章

男女の色恋を取り上げるものではない。古代の人類は生きる上で狩猟と闘争に明け暮れていたのは容易に想像できる。生来、肉体力の強い男が森林原野、海などに出て食料獲得の担当であり女は家にいて育児専門であったのだろう。英語に男をストロンガーセックス、女をウイーカーセックスという言い方があるのは未開時代の男と女の原始形態を示している。闘争に明け暮れていた中世日本に於いてもやはり男中心の世界であった。闘争とは戦いの事であり日本でも60年前迄戦争に必要なストロンガーセックスが中心であった。現在でも中東とかアフガンなど平和でない国は依然としてストロンガーセックスが表で女性は後ろにいる。

元禄と言えば徳川時代が始まって将軍は五代目となり家康から80年経過し戦国時代が過去のものとなった頃である。平和が続くと男は闘争がないから段々とウイーカーセックスに近づく。この元禄は戦後60年経過した現代の世相とよく似ている。両時代とも男の性―サガに変化が見られる。元来、動物である人間には雄と雌しかなく他の生き物同様に互いに強く相惹かれ求め合うように出来ている。戦争がないと日常、男の関心は女に惹かれるのは致し方なく生来積極的なストロンガーセックスが生存闘争から解放されウイーカーセックスへの関心が増大する。

闘争時代とか古代は男中心であり山岳信仰等では女性は体力的に近寄れない。その分野で女性に穢れがあるとされた。理由は知らぬが、これは実におかしい。もし女性に穢れがあるとすれば、どんな穢れか知らぬが、その女性から生まれた男性も穢れを共有している事を忘れた男の身勝手な理屈である。知性と科学の発達した現代にはこんな理屈は成立しない。

男と女は生き物として、雌雄として、天から与えられた夫々固有の役割があるだけだ。これは誰も否定できない。だから、男女同権という問題をこの生物的観点を除外して論ずるのは無理がある。男女同権とは生物的観点では無い筈だ。ここらを混同している議論が多すぎる。

男女同権とは、人間として、男も女も人格、能力、或いは存在として全く同格で平等という事であり至極最もな事である。処が、平和が続くとストロンガーセックスがウイーカー化してしまうのは致し方ない点もあるが、生物として人間種として、退化を意味する。生き物として人間の男は雄らしく女は雌らしい方がいいのは明白である。だからと言って男女同権を否定しようとするものではない。雄は雄らしく、雌は雌らしいほうが存在としての人間種らしいと言っているのだ。男子、厨房に入らずとかは、実に男女同権とは無関係な事である。動物でも、雄の孔雀はあのように大きくてきれいな羽根で雌を惹きつける。雌は雌らしく雄は雄らしいのが生き物の世界の普遍的原理だ。

要するに人間も男は益々男らしく女は益々女らしい動物としての特徴を発揮したほうが摂理に適っていると言う事だ。
このように見てくると、世の中は何か変だ。これは文明が爛熟しつつある事だとは歴史が示す。その先はどおなるかも自明である。中国など国として向上中であり、日本の昭和30年代の趣がある。勉強に真剣そのもので能力あるものは益々向上を目指し励むから国は更に上むく。中国の官僚など男女を問わず頭脳明晰な素晴らしい若手を時に見る。迫力が違う。日本はどうか。能力的には高いのに結果平等が蔓延して生来の能力を存分に生かせる仕組みが消滅中だ。これでは国家、社会の未来が思いやられる。

男は益々男としての魅力、女は益々女の魅力を増やすのが自然だ。肉体的にも経済的にも頭脳的にも社会的にも、優位の者は非優位者に優しい。これら能力の高い人は更に伸ばすが謙虚で、決して奢らない。これが人間として最高に尊重されるモラルだとの認識を確立させておけばいいのだ。個人の能力を最大限に向上させ国家社会に寄与するという仕組みを早く取り戻したいものだ。
鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典