平成165月10日 日本海新聞 潮流寄稿

砂漠の神

1. 砂漠の神とは唯一神教のことで、旧約聖書の預言者、アブラハムの一神教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教などである。唯一絶対神で他の神々を排除し、その存在を認めない。 砂漠の宗教とも呼ばれ、これら一神教発生の背景に中近東の過酷な自然がある。砂漠の民は生きる上で、明日の十円より今日の一円であり、持てる者から貰うのは当然の民族性がある。他の神々とは他民族の事とすら思える。
ローマ法皇が数年前に、この二千年間で初めて、過去にキリスト教が行った歴史的な迫害を認め謝罪した。欧州の民族大移動、十字軍など、言葉はいいが、実態的には、他民族の侵略に外あるまい。同様に、米国の西部開拓の言葉など、正義づらの雰囲気だが西部侵略に等しい概念にすら私には思える。

現今中近東諸国の抗争を見ると、本当に人間とは哀しい、なんと言う愚かな存在だろうとさえ思える。殺し合い、せめぎあいは絶えることがない。個別の事情は理解するが、何とかそれを乗り越えられないものかと思うのは当然だ。

乗り越えられないその背景にこの唯一絶対神の宗教原理があると私には思える。一神教が異教徒を殺してよかったのは歴史的事実である。勿論現代は、そのような事は言わない。然し、信仰の自由は当然だが、このような一神教の原理では、抗争は途絶えることなく連綿と続くのではあるまいか。目には目を、歯には歯をだからである。テレビなどで見ると、どうしてあの国の人達は自分たちの国の為に心と力と手を合わせて住みやすいように、この際、宗教宗派意識は別にして生活安定の為に立ちあがらないのかと不思議に思う。

自分の立場を越えなくては全体の安定には決してつながるまいに。彼らの汗して働く姿が映らない、してもらうだけのようにさえ見える。日本人なら自らの立場を越えて団結するに違いない。そのような民族的、風土的なものが日本には存在し危機的状態には宗派、思想、イデオロギー等を超えようとするに違いない。

2.
尊敬する哲学者、和辻哲郎の名著風土」から引用する。

“砂漠における遊牧人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然から僅かの獲物をもぎ取る。これは直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。この戦闘様式は古代から常に砂漠的人間の特性である”“部族の敗北は個人の死であり、各々は極度に力と勇気を発揮しなくてはならず、感情の温柔さを顧慮する暇のない不断の意思の緊張、即ち戦闘的態度が不可欠である。”と。

一神教の本質を鋭く喝破している。この民族の精神的特質、思考、宗教、国家制度など全て砂漠民族の生活条件から生み出された過酷なもので、温暖な環境で育つ我々には想像を絶するものがある。

3.日本の土着信仰は「カミ」である。私は、唯一絶対神、即ちゴッドと弁別するために日本の神をカミとする。一口で言えば日本のカミは、森羅万象への感謝のカミである。日本の自然は温和で、四季もあり湿度も充分あるから30年経過すれば禿山も放置のままで完全に森林は復元する。だから、砂漠に何千年生きてきた人間と大違いの民族気質、慣習、伝統が生じてくる。有難い風土の日本である。

日本人が優しいのは、この風土の産物である。見るがいい、日本猿の可愛いこと、蜘蛛でも、亀でも、魚でもこの風土に適応したものは一律に温和なことが分る。熾烈な環境の砂漠や熱帯地方の動植物の原色とは大いに違う。だから、外国の動植物ゃ種を日本に無闇やたらに入れると、土着のか弱い動植物は弱肉強食されて絶滅の危機に瀕する。

これは人間社会とて同様で、昨今の国際経済・政治情勢とよく似ている。これらから、元来日本人の本質は島国でもあり、平和共存である。故に土着の信仰であるカミも森羅万象、大自然の恵みに対する感謝の宗教となっている。日本のカミには砂漠の神のような敵対的なものはない。これが日本の基礎原理であり、私はこれらを含めて「日本の原理」と呼んでいる。
鳥取木鶏クラブ代表世話人 徳永圀典
(鳥取市)