成16年6月--今日の格言・箴言25  安岡教学関係徳永圀典蔵書
安岡正篤先生の言葉その5
「安岡教学」は「活学」である。活きた学問でなければならないと言われた。

1日

お辞儀

お辞儀をするとは、自分が相手に敬意を表すと同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表することである。
知命と立命
敬意の第一義は「自らを敬す」である。他を通じて自己を敬すことである。それは、先ず自分が最初に相手に心からの敬意を示す、必ず自分も敬される。
2日 機械化した人間

人間の機械化、かくして日に日に人格は破綻していく。
儒教と老荘

人間を群集生活に駆り入れて個人生活を奪う。都会人は内を省みて確実に自己を掌握する余地がなく、群集に圧倒せられて摂取されて泳いでゆく、そこに強烈な色彩、騒音、あらゆる刺激、不断の機械的労働が精神生活の余裕を喪失する。かくして人格を破綻する。意志の働きも衝動的、抽象的、唯物的に堕し感情も浅はかである。
3日 人物の要諦

人物に大事なものは、活力、気迫が旺盛でなければならない。陽明学十講

先ず、人物に大事なことは、養気である。気とは性命力、心身一如の性命力即ち肉体的活力、気迫、精神性、霊性である。

4日

機により動く

人生というものは、すべて機によって動いている、それを活かすことが重要だ。
知命と立命
人間のみではない、自然もすべて機に満ちている。人生は機によつて動いている。のんべんだらりでなく、常にキビキビとした機の連続である。
5日 習うより慣れる

なによりも慣れる、習うということが、大事な学問の要訣。
易と人生哲学

本当に、慣れてくるとなんとなく分ってくる。慣れる、習うということが大事な学問の要訣である。学習も習うと言っても頭でやっている間は駄目である。

6日

六中観

六中観、安岡先生はこの観で、いかなる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけられた。
百朝集

中が六つある。即ち「死中・活あり」「苦中・楽あり」「忙中・閑あり」「壺中・天あり」「意中・人有り」「腹中・書有り」

――明日から説明する。

7日 「死中・活あり」

追い詰められて、もはや絶体絶命と思う時、腹を決めて開き直り、断固とした正攻法で対処することにより危機脱出も可能。

8日

「苦中・楽あり」

どんなに苦しい時でも、必ずなんらかの時と心の余裕が必要。ささやかな楽しみを得ることは大切な生き方。

9日 「忙中・閑あり」

いかに繁忙でも必ず寸暇を見つけて読書とかの時が大切。この積み重ねが人生を決める。

10日

「壺中・天あり」

世俗の中にあって、それに限定されず、独自の世界即ち別天地を持つこと。内面的精神生活の重要性。
11日 「意中・人有り」

常に心の中に人物を持つことの意。或はまた私淑する偉人を、或は共に隠棲できる伴侶、また要路に推薦し得る人材などあらゆる場合に人材の用意があること。

12日

「腹中・書有り」

目にとめたとか、頭の中の滓のような知識ではなく、腹の中に治っている哲学のこと。
13日

六時心戒

六時心戒――百朝集
安岡先生曰く、「こういう人知れぬ自心の秘修などを近代人は全くやらなくなって世間を相手に議論し運動するような、華やかな、然し空虚なことばかり流行る。真の人物・事業の出ない所以である。」

鬧時・心を練る。静時・心を養う。座時・心を守る。行時・心を験す。言時・心を省す。動時・心を制す。(鬧時―だうじ。)
明日から説明する。

14日 鬧時・心を練る。

だう時・心を練る。―騒がしい時、ごたごたと取り込んでいる時こそ、それにめげぬように心を練ることだ。

15日 静時・心を養う。

せい時・心を養う。―静かな時に心を養っておく、座る時には心も動揺を静めるように守る。

座時・心を守る。

ざ時・心を守る。座る時には心も動揺を静めるように自分の心を守る。

16日 行時・心を験す

ぎょう時・心をためす。―行動する時は心を実験する好機である。

17日 言時・心を省す。

げん時・心をせいす。―ものを言う時こそ内心を反省しながら行う。

18日 .動時・心を制す。

どう時・心をせいす。―動揺する時こそ散乱しやすい心をよく制御すべきである。

19日 万病の根源

(いかり、怒り、立腹)はあらゆる病気の原因
禅と陽明学

私心、私欲で腹を立てる、神経を尖らせるのを瞋−しんーという。これは最もいけない。人間のあらゆる病気の一番悪い原因は怒り、凶悪犯人の息に栗色のカスがありモルモットに舐めさせたら頓死した猛毒が発生するとアメリカの医学書が究明している。

20日

慎独

独自、絶対的な自己、独を慎む。
人物を創る

独の意味に二つ。一つは他に対する孤独の意。二つは絶対という意味。大事なのは絶対。慎独とは孤独の自分でなくて絶対的存在、人が見ていようがいまいが、自分自身を絶対化することを慎独という。世俗的な地位、名誉に少しも乱されない、即ち自ら成り立つこと。独善という言葉は本来独りよがりという意味ではなく、「世間の人間がいかに生きようが、自分だけではあくまでも善に生きる」ということ。

21日

真の武とは

武とは、いかなる矛盾とも戦う雄雄しい精神と努力をいう
ー暁鐘

現実の生活は色々の矛盾がある。これを克服向上してゆく実践の努力を武という。この矛盾を克服して一歩一歩生活を築きあげてゆくところに生ずる哲学だ、信仰だ、芸術だ、文学だというものを文という。文化の根底に実践的努力がなくてはならない。これが武である。武が本体であり文はその表現である。必ずしも武はいわゆる軍備をいうのではない。いかなる矛盾とも戦う雄雄しい精神と努力が武で、それから生じた文でなくては、いわゆる文弱となってしまう。文弱はやがて文亡である、文で滅びる。

22日

男女の欲

飲食男女の欲を、澹然ならしむる秘訣―おんじきなんにょ、たんぜん
瓠堂随門聞記

断えず熱中する問題を持つこと。感激の対象を持つこと。人生は退屈が一番いけない。断えず問題を持つ者が精神的には勝利を占める。

23日

如何に死すべきかの、覚悟が常に必要
経世瑣言―けいせいさごん

人間は腹を据えると妙に落ち着くものである。落ち着くと物事がはっきりしてくる。それが真剣であればあるほど、しっとりとした情味も滲みでてくる。日本人は伝統的に「如何に死すべくか」の覚悟の上に独特の精神と文化を実現してきただけに、そこには実に秘められた深愛と献身の尊さとがある。

24日 腹のある人間

これからの世は、頭の人間では救われない。腹のある人間が救世主―天地有情

今日の社会は頭で人間を評価する。我々の先祖がいった「腹」ということを余り言わぬ。頭とは、浮世三分五厘的生き方に過ぎない。世の中を深刻にわたること、人間を真実ならしめること、人生を尊くすることなどに役立つ力ではない。そこに腹の尊さがある。腹とは世の中を深く洞察し人生にどっしり落ち着いて、自己、他人、世間、国家、すべてを真に血有り涙ある尊いものにしてゆく力である。これからの世は殊に頭の人間では救われない。
25日

真の学問

学問は世の中に出てからやるものだ、日常の生活以外に学問はない天地有情―

近頃の青年は学校を卒るともう学問をやらない。もし学問の本当の意味が解れば世の中に出てからやるものだ。「学者という者は文字言語ばかり追うて心の真の把握がない。」と朱子も言っている。哲人の言葉である。とにかくもっと真実でなければならぬ。真実という事が人生万事の根底である。

26日

真の教師

本当の教師は、生徒・父兄のお手本となって導化していく。
人物を創る

教育というのは、教師が生徒、あるいは生徒を通じたその父兄のお手本になって導いていく。そして皆を化していく。これが本当の教師であります。自然の営み、自然の推移、創造の働きを「化」という。

27日

縁尋機妙

人生は万事縁。人間の縁というものの不思議なことは、とても計り知れないものである。
王陽明――

人間の縁が次第に広がっていく、これを縁尋機妙ーえんじんのきみょうーと言う。これは計らざるべきものがある。真剣な目を持てば必ずどんな本屋でも探している本がパッと目に付く。人生でも同様で自分が真剣になれば必ず求めているものは見つかる。

28日 学ぶ

本当の学問とは道楽であり、年季を入れなければならぬ。
――
人物を創るーー

最初は親から「大学」をやらされた。子供の時に教わったことはよく覚えている。学校で教わった知識など忘れている。すべて学問というものは、根から養分を吸収して、幹が出て、枝が延びて、それが分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。そしてそれがまた落ちて、肥料になって、新しく芽をふいてゆく、というように自然に伸びてゆくべきもの。自然に伸びていって、それが分裂せずに自ら一つの体系をなしてゆく。こうでなければ本当の学問ではない。
29日

学問

本当の学問とは道楽であり、年季を入れなければならぬ。――人物を創るーー

最初は親から「大学」をやらされた。子供の時に教わったことはよく覚えている。学校で教わった知識など忘れている。すべて学問というものは、根から養分を吸収して、幹が出て、枝が延びて、それが分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。そしてそれがまた落ちて、肥料になって、新しく芽をふいてゆく、というように自然に伸びてゆくべきもの。自然に伸びていって、それが分裂せずに自ら一つの体系をなしてゆく。こうでなければ本当の学問ではない。

30日 五医

費を省いて貧を医す。静坐して躁を医す。縁に随って愁を医す。茶を煎じて倦を医す。書を読みて俗を医す。
――格言連壁―百朝集より

名医は自己内奥の浄室におる。書はただ何の書ではない、聖賢の書である。この五医、自他の病状如何でどのようにも匙加減できる。欲を少なくして迷を医す。事を省いて忙を医す。客を謝して煩を医す。山に対して疲を医す。書を読んで俗を医すも好かろう。