日本海新聞 潮流寄稿 平成16年7月1日

「武士道」抄論

サムライというアメリカ映画がヒットしてから町の書店に武士道の本が沢山並ぶようになった。この傾向は日本人には、どうやら情けないが身についた、生まれながらのもののようである。欧米人に認められてから自分の国の持つ価値観に目覚める。ブランド物を買い漁る根性と瓜二つである。なんとも、いやはや、主体性に欠けることではある。それは、この国の持つ悠久で文明度の高い歴史を本当に学ばないからである。

さて、その武士道、明治時代に新渡戸稲造が滞米中に英語で書き下ろしてルーズベルト大統領を感動させ、日ロ戦争で資金不足の日本を支援させた原動力でもあった。それは世界の指導者階級を唸らせたからである。日本の武士道は元々、成文化されたものではない。然し、戦前の日本人には、精神的徳目として殆んどの人に婦人も含めて、大なり小なり内臓されたものとなっていたと思う。家庭でも学校でもいつの間にか教えられ身についたもので、日本人の道徳の光源なのである。

婦人は社会的な存在ではなかったが、妻或いは母として、最高の尊敬と深い愛情を受けていた。これは武士道と表裏の関係で、複本位制と理解すべきであろう。我々昭和一桁世代の内奥にはこのサムライ精神の片鱗が残存している。この武士道精神の凄さ、素晴らしさの故に明治維新以来、日本があっと言う間に欧米に伍することを得たと確信する。
それを知悉しているアメリカ占領軍が日本を二度と立ち上がらせないために武士道を「反動的で権力者のための御用道徳」と難癖をつけて禁止したのである。その占領政策が完全に奏功して日本は現状のような亡国的様相を呈してきたのである。

では、武士道とは何か、その本質は「精神的貴族」である。圀典流に纏めてみる。
一口では難しいが先ず浮かぶ言葉は「恥を知る」であろうか。「武士の情け」あるいは「渇しても盗泉の水を飲まず」「名を惜しむ」「卑怯であってはならぬ」「潔くあれ」「ウソをつくな」「弱い者をいじめるな」等を思い出して行くと、なにやら現代政治家やら国家中枢官僚に最も欠けているものばかりではないか。元々は師表に立つ武士の徳目なのである。

明治初期の指導者は欧米視察をして「英・米・蘭などは町人国家なり」と喝破して、道義国家日本としての矜持を高く持ち欧米人より精神文明度に於いて進んでいると自負していたのである。私は、先の戦争の開戦、戦争を和平に持って行かなかった大失敗、そして10年前のマネー戦争の完敗は何れも国家を三度滅ぼしたに等しいが、すべて政治家と国家中枢官僚に起因すると信じている。彼らのサムライ精神が欠如し現場感覚を喪失して机上論で対処したからだと確信する。現場感覚なきトップの企業は破滅または衰退しているのは市場経済の現代にも当てはまる。

名外相、陸奥宗光に見る如く、明治の元勲達は、幕末の死線を乗り越えた野性味溢れる現場感覚の分かる人たちばかりであった。戦ってダメとなると潔く方向を転換、その変わり身の速やかさが見事で颯爽としていた明治の元勲。
その元気の根源がサムライ精神である。
それは
@命をかけた使命感。
A名でもない、利でもない。
B自ら正しいと思う志の為に命を懸ける。
C道義を第一義とする。これらが武士道という思想の根幹であろう


何をやるにも命懸け、責任の取り方も命懸け。命が懸かっているから自然と迫力が出る、勇気が出る。現代政治家の最も欠けている精神である。これが武士道なのだ。

その精神を言い換えると
@仁であり
A義であり
B勇であり
C礼であり
D信である。

更に言い換えると
@仁とは慈悲であり
A義とは正しいことであり
B勇とは義をなすことであり
C礼とは思いやりであり
D信とは誠である。

将に、人間至高のモラルであらう。最高の道徳でなくてはならぬ政治とは、このようなものに拠って立ってこそ国民の信を得るのである。

鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典