成16年9月--今日の格言・箴言28
風姿花伝の名言からーその二

世阿弥の作である「風姿花伝」に初めて触れたのは、実に残念ながら50才頃であった。もっと早く知っておればと無念の思いを抱いた記憶が強烈にある。単なる能の本ではない、実に人間そのものの教育の真髄に触れた思いがした。「秘すれば花なり、秘せざれば花なるべからず」など息を止めるような言葉と思った。二ヶ月にわたり披露する。人間そのものの歩みの深奥に迫る思いがする。含蓄ある洞察次第か。平成1681日 徳永圀典

1日

「上手は下手の手本、下手は上手の手本」

下手もまた、上手にとってはわが身を向上させる手本となる。

上手の誤りは、下手を侮るところから始まる。よい所を発見できない者はやがて下手となるほかない。

2日 「初心の人思ふべし。稽古に位を心掛けんは、返す返す叶ふまじ」

初心の人はよく考えねばならない。技を稽古することにより芸位の高さを得ようとしても、これはなし得ぬことだ。

天性の資質があっても稽古を積まねば質を磨くことはできない。稽古だけ積んでも芸の「位」は得られない。とは言え、天性の「位」に対して、稽古の劫を積んだ「位」があるのも確かである。

3日 第一、身を使う事、第二、手を使う事、第三、足を使う事なり」

詞章に合わせた身のこなしについて、第一に身体そのものを利かすこと。第二は身の風情を生む為に手を使い表情を加え、第三に足を使う。

足は舞の基本であるが風情にはならぬ。動きを派手にするために足を使い、手を利かせたく思うが、舞の振り・風情の中心は心持を内包した身の使い方にある。

4日 「何と見るも見弱りのせぬ為手あるべし。これ強き也。何と見るも花やかなる為手、是幽玄なり」 どのように見ても見弱りのしないシテがある、これは強き芸の人という。また、どのように見ても花やかなシテがある、これを幽玄という。

荒々しく勇んで見えるのが強き芸でもなく、弱弱しく優しいものが必ずしも幽玄ではない。人間、人物にも該当するものがある。

5日 「萎れたると申すこと、花よりも猶上の事にも申しつべし。・・花咲かぬ草木の萎れたらんは、何か面白かるべき」

萎れた美は、時に面白さよりも上の事として云々される。花咲いて後にこそ「萎れ」はあり花咲かぬ草木の萎れているのが何の面白い筈はない。

世阿弥は、萎れた風情は「花を極め」た後に生まれると見ておる。芸格の低い者が「萎れ」てみせようとすると「湿り」になるという。

6日 「花は心、種は態ーわざーなるべし」 養いの中に在り、その花の種は、演技、芸妓を幅広く身につけた芸域の広さ、確かさの中にある。

稽古により芸を磨く、それを本当の花とするための工夫は一にシテ自身の心、主体的な在り方にかかる。

7日

「道をたしなみ、芸を重んずる所、わたくしなくは、などか其徳を得ざらん」

芸の道を志し芸を大切にしていくには無私の心をもって芸の深奥へ参入する態度を持ち続けば、芸の奥義を極め、芸の徳を悟ることができる。

無私という純粋を求めてやまない世阿弥の危機感は芸の修行を忘れ名利に走る芸人の芸の乱れから生まれていた。「心より心に伝ふる花」という思い。

8日 「天下の許されを得ん程の者は、いずれの風体をするとも、面白かるべし」 天下に名人として許される程の芸人は、どんな風体でも面白いであろう。 一つの方向、一つの風体に固執し他の風体を嫌うのは、その風体ができないからだと世阿弥はいう。名人は日頃たしなまぬ、と見える風体も面白くこなす力を持っている
9日

「得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、又、目利かずの眼にも面目しと見るように、能をすべし」

能の深奥を究めたような上手でしかも工夫を怠らぬシテであるなら、理解の浅い観衆の眼にも「面目し」と映ずるように能を演じこなすだろう。

いかに高度の芸術性を目指すとも芸能は観る人があって支えられているもの。優れた名手の高度な芸は、高度でありながら広い観衆をつかむ魅力が備えている。
10日

「この芸とは、衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり」

多くの人から愛され迎えられる人気をもって一座が成立してゆく上の徳分である。

人気は観衆に媚びることではない。世間の嗜好を先取りするとともに、高度に芸能の時代を推し進めるものを持っていなくては繁栄しない。

11日 「所の風義を一大事に掛けて、芸をせしなり」

世阿弥の父観阿弥は、地方での興行にはどんな辺鄙な所でも、土地の人の心を大切にし土地の風習を尊重、観衆の心をよく引き入れるように芸をした。

地方興行では中央を押し付けないこと、謙虚に地方の風習に従うこと。しかも花と面白さと芸格の高さを崩さないこと、観阿弥の名人たる所以である。

12日

「田舎・遠国の褒美の花失せずは、ふっと道の絶ゆることはあるべからず」

田舎や遠方の各地で、なお人気の力がありさえすれば、ぱったりとその芸道が絶えてしまうことはありえない。

地方は時に芸道の存立にとり中央以上に頼もしい力を発揮することがある。中央の人気が落ちても、それが芸の落ち目ではない場合も多い。

13日

「優しくて、理―ことわりーの即ちに聞ゆるやうならんずる詩歌の言葉を、探るべし。賎しく俗なる言葉、風体悪き能になる物也」

優雅で意味内容のそのままわかるような詩歌の言葉を、能の作詞に採り入れるがよい。通俗的な言葉で書くと、能の風体も必ず悪く出来上がるものだ。

通俗的芸能からの高い飛躍を求めた申楽者たちの、文学的・芸術的高さへの切望がある。

14日

「風情を博士にて音曲する為手は、初心の所なり。音曲より働きの生ずるは、劫入りたる故也」

見せるべは仕草を基本にして音曲を謡うシテは初心の程というべきである。音曲をなしつつ動作が生まれてくるのは、年劫を経た所以である。

音曲は聞くもの、聞いて内容が分かって後、風情ある風体は面白い。

15日

「能のよき悪しきにつけて、為手の位によりて、相応の所を知るべきなり」

能作品のよし悪し、演能時の曲の選定の善悪を考えるにつけても、シテの力量に丁度の、似合わしい所はどこかを知るべき。 力以上の不似合いな頑張りは見苦しいし、能を知る態度ではない。
16日 「為手によりて、上手程は能を知らぬ為手もあり。能よりは能を知るもあり

シテによって、その力量ほどには能を知らぬ者もおり、またその演ずる能よりは能そのものを知っている者もある。

知る者より、知らぬ者のほうが優れている。この不思議な非倫理はよく体験するものだが、世阿弥は長い時間の中で、結局「知る」者に軍配をあげている。

17日

[花と、面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり]

花と、面白き感興とも珍しき新鮮感は、三つとも同じことである。

人々の心に訴える芸術的感動、常に魅力的な感銘の根本は、言ってみれば簡潔にある。

18日

「散る故によりて、咲く頃あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先花と知るべし]

花は散る故に、また咲く時節があり、珍らかな感銘を与える。能も一つの風体に安住しないことを、先ずは花あることと考えるのがよい。

花は咲き、かつ散る。その短い、時の流れに従った変化故に長く愛される。世阿弥の考える花とは、世に無き珍しさではなかった。熟知の花が、なぜ新鮮なのかの問いであつた。
19日

「物まねに、似せぬ位あるべし」

物まねには、似せようと、既に意識しない芸の位がある。

世阿弥はそれを、そのものに真になりきってしまった時の、我か、彼かの境の消えた芸境だという。
20日 「年々去来の花を忘るべからず」

幼少の頃から、年々に体得した技や、年月とともに身に過ぎていった様々な風体の花を、忘れずに一身の中に保っておくことが大切。

過去において賞賛された花を忘れることは、ひたすら花の種を失う事になる。身にもっているものを常に新鮮に工夫して出すことだ。「初心忘れるべからず」とはこのことである。

21日

「因果の花を知る事。極めなるべし」

原因があって結果が生まれる。それを「花の論理」の一つと悟ることは、この道の窮極である。

正当に報いられる因果は嬉しい。然し、努力や誠意が正当な因果として現れない時もある。だが、それも、時に作用された因果なのだと世阿弥は考えた。

22日 男時(をどき)女時(めどき)とてあるべし。これ、力なき因果なり 物には、男時・女時ということがある。いかに努力しても効果が上らぬ下降運の時、これが「女時」である。不可抗力ともいうべき「時」の推移の変則である。

世阿弥はこれを長い人生にも、一年の芸能運にも当てはめつつ、女時にも自棄にならずに励んだ。

23日

[人々心々―にんにんこころこころーの花なり。いずれを真とせんや。ただ、時に用ゆるをもて、花と知るべし]

人々、心々によって花はさまざまである。そのいずれを「まことの花」と決めることができよう。ただ、折をえて、その時に登用され、多くに感銘を与えた芸を花であったと知るがよい。

人のよしと思う所は夫々異なるが、名手は時と場の情況に応じて、人々のいきいきとした共感や感動を収斂する演技をたちどころに行ってみせるだろう。

24日

「家、々にあらず。次ぐをもて家とす。人、々にあらず。知るをもて人とす。

芸の道を伝える家というものは、単に、親から子へと続いてゆくものではない。血のつながりの有無にかかわらず、正統に芸続を継ぎ発展させた者をもって跡継ぎとし、芸の家とするべきだ。また、人も同じである。正統の家に生まれたからといって、それだけで正統の人とはいえない。芸能の真髄を極めた人をもって、正統の芸能を保つ人とすべきである。 世阿弥時代より以前から言われていた言葉らしいが、世阿弥は強い共感をもってこの一語を巻末のとじめに据えた。芸を重んずる者の決意でもある。
25日 「花」 花とは一体なんであろうか。世阿弥のいう花は、何か分かるような気持ちはするが、的確にはいえない。

「心の花」というような言い方もしている。人生に、また人間そのものに、「花」があるか、ないかは大きく人生そのものを変えてしまう。従って運命そのものを動かすものでもある。

26日

人間論

世阿弥の芸術論と言えるこの風姿花伝は実は私には人生論・人間論・教育論と思える。

哲学を含み人生論を含むが、重厚にして深遠で含蓄ある思いがしてならない。美の表現論でもあるが、人間の格調や品性品質の高さと共に味わいのある能の鑑賞法でもあるように思える。

27日

まことの花

世阿弥の芸の花の基本風姿は「声」と「身形―みなりー」にあるという。目を喜ばせ、耳を楽しませ、心に響くもの。

童の幽玄な美しさは忽ちにして移ろうもの。失せても花として存在するためには「まことの花」たる芸を身につけるしかない。これは人生論に違いないと思う。

28日 花が咲くのは 心と技の一体化した芸に「花」は咲くものと考え、「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり」としている。 「まことの花」は永遠なりとしている。咲いたままでは、最早や咲く期待もない、散るという惜しさ、散る故に「花」である。不変の花の真理を指摘しているのには唸らされるのである。
29日 圧巻は「秘すれば花なり」

この秘めた花は、世阿弥にとり老年に至るとともに深く哲学的となり、「善悪不二、邪正一如」という止揚の機を含み、遂に「万能を一心につなぐ」という芸心の深さへと進展する。

「内心の感、外に匂ひて面白きなり」から「闌けたる位の安き所に入りふして・・無心無風の位に至る」。将にこれは哲学的人生論と思う所以である。

30日

「花の工夫」

花を演出し、創出していく工夫の尋常でない、生き生きした美しさへの憧憬。

克己の修道精神が遺憾なく発動されて、活力も溢れている。生きる工夫と通じる、素晴らしい人間指南書である。完