正法眼蔵9.
平成17年12月

1日 かくのこどく問取し試験(しげん)すべきなり。一切衆生即不仏性といはず、一切衆生有仏性といふと参学すべし。 このように尋ねて、その真意をただすべきである。「一切衆生が仏性を持っている」というのでなく,一切衆生がそのまま有仏性なのである」という意味であると学ぶべきである。
 2日 有仏性の有、まさに脱落(とつらく)すべし。脱落は一条鉄なり。一条鉄は鳥道なり。 仏性のあるという、その有ることの囚われから解脱(自由)しなさい、解脱するとは、仏性がなにものにも影響されず、なんのあとかたもとどめない自由の働きをすることである。
 3日

しかあれば、一切仏性有衆生なり。これその道理は、衆生を説透(せつてう)するのみにあらず、仏性をも説透するなり。

従って一切の仏性がそのまま一切の衆生なのである。この道理は、衆生を超越するばかりでなく、仏性をも超越することである。
 4日

国師たとひ会得(ういて)道得(だうて)承当(じょうたう)せずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。

国師がたとえその悟ったところを言葉によつて現していなくても、それを現すことは不可能ではないのである。従って、ここに言われていることは、徒に意味のないことではないのである。
 5日

又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取(ういしゆ)せざれども,四大五陰もあり、皮肉骨髄もあり。

また、もともと自己に備わっている道理は、まだ悟られていなくても、変わりなく存在し、継承されていくのである。
 6日

しかあるがごとく、道会も一生に道取することもあり、道取にかかれる生々もあり。

そのように、自分は知らなくても、一生かかって心理を体験するものであり、また、真理を表現しようとしてとらわれている人たちもいる。
 7日

大潟山大円禅師、あるときに衆にしめしていはく、一切衆生無仏性。

大潟山大円禅師は、あるとき僧たちに説いて言った。「一切衆生には仏性はない」と。
 8日

これをきく人天(にんでん)のなかに、よろこぶ大潟あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊説道は、一切衆生悉有仏性なり。

これを聞く人々の中には、それを歓びとする特に勝れた者たちもあり、驚き疑う者たちもないわけでもない。釈尊の説く道は「一切衆生にはことごとく仏性がある」ということである。
 9日

大潟の説道は、一切衆生無仏性なり。有無の言理(ごんり)はるからことなるべし、道会の当不うたがひぬべし。

それに対して大潟の説く教えには「一切衆生には仏性はない」ということである。有るという道理と、無いという道理では、はるかに異なっているから、この二つの言葉が正しいかどうか疑うのである。
10日

しかあれども、一切衆生無仏性のみ仏道に長なり。

塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条(いちでう)柱杖(しやぢやう)両人(りょうにん)()なるべし。

しかしながら、衆生には仏性がないという言葉ばかりが、仏道においてすぐれているのである。斉安国師の説く「仏性が有る」という言葉は、釈尊の教えとよく似ているが、それは両方で手を指し伸べているようなもので互いに対立しているように見える。
11日

いま大潟はしかあらず、一条柱杖呑両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潟は馬祖の孫なり。

ところが、今の大潟の言葉はそうではなく、一本の杖を両人でかついでいるようなものである。即ち仏性というものを、この二つの立場を両方とものみこんでいるように思われる。いうまでもなく、斉安国師は馬祖第一の弟子であり、大潟は馬祖の孫弟子である。

12日

しかあれども、法孫(はつそん)()(おう)の道に老大り、法子(はつす)は師父の道に年少なり。

しかしながら、孫弟子は馬祖の仏道を理解することにすぐれており、直接の弟子達はそれより劣っている。
13日

いま大潟の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり、いまだ曠然(くわうぜん)縄墨外(じようぼくげ)といはず、自家屋裏(じげをくり)の経典、かくのごとくの受持あり。

いま大潟が述べている言葉は、「一切衆生には仏性がない」ということを真理としている。それはただ、漠然と仏教の筋道を離れているのではない。仏道の最も深い教えを、正しく継承してきているのである。
14日

さらに模索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん一切仏性あらん。

さらに真剣に命懸けの参学をしなくてはいけない。「一切衆生がどうして仏性そのものでないのであろうか。仏性をもたないのであろうか」ということである

15日

もし仏性あるは、これ魔儻なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。

もし一切衆生のほかに仏性があるならば、それは真理の外のものに違いない。一切衆生と異なったものをもってきて、一切衆生と重ねようとしているのである。
16日

仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。

仏性は仏性のほかの何ものでもなく、衆生は衆生のほかのなにものでもない。従って衆生は、衆生のほかの仏性をそなえているのではない。たとえ、それをそなえようとしても、仏性がとりたててくるものではないというのが大潟の真意である。
17日 

張公()(しゆ)李公(すい)といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。

それは、張公が酒を飲めば話し相手の李公は酒も飲まないのに酔い心地にさせられるというように、仏性も何か他の機縁で酔い心地にさせられるような偶然のものでない。もともと仏性があるものならば、仏性のほかに衆生はないのである。
18日

すでに衆生あらんは、ついに仏性にあらず。

すでに衆生があるならば、そのほかに仏性はないのである。
19日

このゆへに百丈にいはく、説衆生有仏性、亦謗仏法僧。

そのため、百丈(懐海(えかい))は「衆生に仏性があると説くことも仏法僧を謗ることであり、
20日

衆生無仏性、亦謗仏法僧。

衆生に仏性がないと説くことも仏法僧を謗ることである」と言っているのである。
21日

しかあればすなはち、有仏性といひ、無仏性といふ、ともに謗となる。

従って、有仏性といい無仏性というのは、ともに仏道を謗ることである。

22日

謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。

それでもなおかつ、これについて説かないわけにはゆかないのである。
23日 且問称(しやもんにい)大潟・百丈、しばらくきくべし。 ここで、しばらく問題提起しとみよう。
24日

謗はすなはちなきにあらず。

大潟はここで百丈に対して「仏性があると言っても無いと言っても仏道を謗ることになると言われますが、
25日

仏性は説得(せつて)すやいまだしや。

それで仏性を説きあかしたことになるでしょうか」と聞いて見るべきである。
26日

たとひ説得せば、説著をけい礙(けいげ)せん。

もし説きあかすことができるならば、説きあかいそのものが仏性であり、
27日

説著あらば聞著と同参なるべし。

説くことも聞くこともともに仏性である。
28日

また大潟にむかひていふべし、

そこで百丈は大潟にむかつて言うべきである。
29日

一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、

「一切衆生に仏性がないということを会得しても、
30日

一切仏性無仏性といはず、

一切の仏性に衆生がないと夢にも見ることのないことである。
31日

いはんや一切諸仏無仏性は夢也見在なり。試挙看(しこかん)

これについて答えるならば、お前の理解のほどを見てやろう」と。