日本人の、心の古典14 近世の詩歌
平成17年12月

 1日 賀茂真淵 

秋の夜のほがらほがらと天の原照る月影に雁なきわたる

明るい月夜の広大さ、作者晩年の代表作
 2日 本居宣長

しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくらばな

日本人の心性の原点、
(から)心に染まない古代の心に求めた宣長、優美で柔和な心情を日本人の本性と見た美意識。いさぎよく身命をも捨てる大和魂の美質を読む。
 3日 香川景樹

山おろし日も夕かげに吹く時ぞしみじみ人は恋しかりける

江戸後期の歌学者、古今調の歌風。
 4日 良寛

山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも

世俗にとらわれぬ、澄明な心を表現。
 5日 良寛 鉢の子をわが忘るれども取る人はなし鉢の子あはれ 鉢は僧侶の托鉢用の鉢。日本はこんな善良な先祖を持つ国。
 6日 橘曙覧(たちばなのあけみ)

たのしみはめづらしき文人に借り初めの一ひら広げたるとき

1812年から1868年、題材も表現も自由、歌調も変化に富む歌多し。
 7日 西山宗因

白露や無分別なる置きどころ

西山宗因1605年から1682年、談林派の文人。
 8日 井原西鶴 大晦日定めなき夜の定めかな 無常の世でも借金取りに悩まされる大晦日だけは必ず来る。
 9日 上島鬼貫

行水の捨てどころなし虫の声

1661年―1738年。形式より内容の美を求めた。行水・・、日常生活の中に、ふっと風流を見出す趣である。
10日 松尾芭蕉

枯枝に烏のとまりけり秋の暮れ

枯枝には藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」に連なり、枯枝、鳥で俳諧的な秋の夕暮れを描く。
11日 与謝野蕪村

五月雨や大河を前に家二軒

濁流の大河の向こう岸に、心細く寄り添う家か二軒、絵画的構成図。
12日 小林一茶

麦秋や子を負ひながら鰯うり

広大な麦畑の中,思い日本の重い荷物を担ぎ、赤子まで背負った行商の女が行く。
13日 四方(よもの)赤良(あから)

あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがす

1749年―1823年大田南畝、蜀山人のこと。江戸後期の文人、儒学を学ぶ。

14日 宿屋飯盛 歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してたまるものかは

1753年―18930年、石川雅望、和漢の学に精通、四方赤良の門下。

15日

作者未詳

役人の子はにぎにぎをよく覚え 川柳、風刺をきかせて人情、風俗の急所をつく発想が庶民に歓迎された。
16日

造化に従ひ造化に帰れ(笈の小文 )

松尾芭蕉

百骸九窮の中に物あり。かりに名づけて風羅坊といふ。誠にうすものの風に破れやすからんことをいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。つひに生涯のはかりごととなす。 ここに、百の骨と九つの穴を持った人間の肉体があり、その中に心が宿っている。それを仮に名づけて風羅坊という。風羅とはまことにその字の通り、うすものが風に破れやすいことを言うのだろうか。彼は、俳諧を好むことが久しい。遂に今では、彼の一生をかけた仕事としている。
17日 ある時は倦んで放擲せんことを思ひ、ある時は進んで人に勝たむことを誇り、是非胸中に戦うて、これがために身安からず。 もっとも今までは、ある時は飽きて放り出そうかと思い、ある時は進んで人に勝って誇ろうとし、どちらがよいか胸中で思い悩んで、その為心身が落ち着かなかった。
18日

しばらく身を立てむことを願へども、これがために

障へられ、しばらく学んで愚を悟らんことを思へども、これがために破られ、つひに無能無芸にして、ただこの一筋につながる。

一時は仕官して立身出世することも願ったけれども、俳諧への執着で妨げられ、また一時は仏教を学んで自らの愚を悟る境地に入ろうかと思ったけれども、矢張り俳諧のために志が破られ、遂に無芸無能のありさまで、ただ俳諧の道一筋につながることになつた。
19日

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり。

和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、夫々道は違っていても道の根底を貫いている精神は一つである。
20日

しかも風雅におけるもの、造化に隋ひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。

しかも、俳諧にたづさわる者は、万物生成の造物主に従い、その造物主の働きによる四季の変化を友としている。だから、目に見るものすべて花でないものはない。
21日 松尾芭蕉 1644年―1694年、俳人、本名、宗房。伊賀上野生、藤堂良忠に仕え俳諧の道へ。江戸で蕉風を確立した。 元禄7年、旅先の大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を残し、風狂反俗の生涯を閉じた。
22日

心、花にあらざる時は、鳥獣に類す。夷狄を出て、鳥獣を離れて、造化に隋ひ、造化に帰れとなり。

心に思うことが花でないならば、その人は鳥や獣と同類である。野蛮人の域を脱し、鳥や獣の境涯から離れて、造物主の働きに順い、それに帰一せよ、というのである。
23日 笈の小文 松尾芭蕉の人生観、芸術観が簡潔で力強い文章で述べられている。 夷狄鳥獣と言い切る厳しさに、雨風に破れた芭蕉の葉のイメージを重ねると、彼の求めつづけた世界が窺える。真摯な告白であり、確固たる宣言の書と言われる。
24日 旅と文学 旅は記紀にも既に描かれている。万葉集、古今集も羇旅の歌あり。 日本書紀の武烈天皇の影媛の歌謡「石の上、布留を過ぎて薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ・・」は道行文の原型といわれる。
25日

古代では、今日のような個人的旅の記録は少ない。万葉の防人は他郷への赴任を強制さ

れた人の歌、紀行文学の祖「土佐日記」も公務の旅。だがそれでも日常からの離脱である。
26日

非日常の世界だから、日常にない発見があり自由な発想が湧き、感傷が思索を深める。

そして旅が比較的自由にできた中世には、旅の文学として意識して書かれた「海道記」「東関紀行」が現われた。
27日 歌枕

未知の土地は人々を誘ってやまない。歌に心を寄せる人が歌枕の存在を忘れることはな

く、芭蕉も「耳にふれていまだ目に見ぬ境」を訪れる喜びを隠さなかった。
28日 芭蕉は「日々旅にして旅をすみかとす」る人に触れ「古人も多く旅に死せるあり」と言った。 しかし、旅で死ぬと決めて生きていた人に、菅江真澄がいる。
29日

旅に生き続けることで、その非日常性を反転して日常とし、旅立つ前に自分を異郷に残したままとした。そのような生きようを選んだ人は彼だけではない。

古代、アシナヅチにとってのスサノオのように、異郷から来る客人(まろうど)は、古代人の他界観や貴種流離の考えにもつながる畏敬すべき存在であった。
30日

時代が下ると、異郷の闇にまで通じていた旅を白日の下に引き出し「(かね)も見知らず不自由さよ「とつぶ

やく他郷だけが残ったと思われた。しかし、旅の魅力は失われておらず、旅に新しい意味と目的が加わった。
31日

近世の「丙辰紀行」「東遊記・西遊記」は知的関心の深さで従来の紀行と違っており、

更に間宮林蔵の探検記「東鞭(とうだつ)地方紀行」などが書かれた。古くからの道に、新しい時代の歩みが刻まれた。