日本海新聞・潮流コラム 寄稿 平成17年1月3日

神様は「森と水」

明けましておめでとうございます。
昨年のオリンピックで古代アテネの象徴であるパルテノン神殿を多くの方はテレビで見られたと思う。あれは、アテネという都市国家が紀元前
432年に政治・経済・芸術のトップに立ったという政治的シンボルである。神殿と言うが、今や瓦礫の廃墟にしか見えない。

それに比して、日本の神社は鬱蒼たる森の中に佇んで、恰も生きておられるように思える。
全国各地、二千ヶ所あるという鎮守の森に日本の神様は、さながら静かに生きておられる。
伊勢神宮を初めとして、緑の森林に覆われたお社は生きた神殿であらう。伊勢神宮は毎朝、神様に捧げるお供え物の為に、千数百年前と全く同じ儀式、木を擦り、火をおこして調理する古式を、今なお同様な形態で運営している。供物は自給自足、塩、魚まで古式通りに自前で生産・収穫する。こんな国や神社は日本だけで世界にはない。

「伊勢神宮の力強い自然の中に本当の日本を感じた」と言ったのはフランスの若いエリートである。
簡素美を極致に表現した伊勢神宮を初めとする神社も森も日本を象徴する根源的実在である。宗教的悟得の感動は、所詮は言語では語り尽くせず、もどかしさがある。原典を調べたり解釈してもその深奥に到り得ないものがある。神道には他の宗教のような言語体系はないが、日本人の日常生理の中に恰もDNAの如く組み込まれ、ダイナミズムが存在していると思える。

神道はお祓いにより日常の罪障を洗い流し、再び清浄に立ち返る再生と復活であり、神社で行う、二礼二拍手一礼は浄化独特の手段だと私は思う。
人間は水が無くては一日たりとも生きられない。その水を育むものは緑、森林である。日本の神様は清浄を最高とする。清浄は水が齎す。

私は日本の神様の原理が、日本の原理でありそれは「緑と水を崇める」ことだと思っている。地球人口激増の為、大規模開発で深刻な水不足、排ガスによる温暖化が深刻化している。中国の黄河は干上がり、米国、インド、中央アジア等、世界的に地下水が枯渇している。アルタイ湖は数年以内に干上がるという。
そこで、「緑と水」を大切にする神道が「生命」を救う原理であり信仰だと外国では気づいてきた。当然であろう。森の消滅は文明の消滅であることは歴史が証明している。

世界的歴史学者トインビーは
神道を高く評価し、「戦後、日本人は近代化の道を邁進してきたが、その見返りとして心理的ストレスと絶えざる緊張にさらされている。それは産業革命がもたらす、まぬがれない代価である。ところが神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説いている。日本国民は、自然の汚染によってすでに報いを受け始めているが、実は神道の中にそうした災いに対する祖先伝来の救済策を持っているのである」物質文明が避けられない災いを救う宗教であると言っているのだ。

ドイツの植物学者ヒューセン博士は「日本人が生活環境に郷土固有の神社林を保護育成してきたこと、また山岳地帯には祖先伝来の原生林がまだ存在することとあいまって、日本民族の優秀な資質育成に大きな効果を果たしてきたことからも、現代人はこれらを大切に守って子孫に伝える責任がある。ヨーロッパ諸国では、放牧により早くから原生林を失い、その弊害を補うために人口植林に努めている。日本の社叢などを見て祖先の賢明さに敬意を表する」と鎮守の森との関係で味わうべき言葉を残している。

伊勢神宮は過去千数百年間
20年ごとに遷宮してきたが、今も300年未来の遷宮用檜・杉の植林を行っている。悠久の古代より連綿として続けているこの事実こそ、「緑と水」と「生きている日本の神様」を示し、大いに誇って良い大文明なのである。自然を愛する事が無意識ながら我々に血となり肉となって流れている。これは21世紀の世界にとり、極めて示唆に富む、価値あるもので、これこそが日本文明の日本文明たる所以であり大いに誇りにしてよいのである。
(鳥取市)鳥取木鶏クラブ 代表世話人 徳永圀典