仏教家に告ぐ・物を超越せよ

仏教とは、単純明快に言えば、この現実の世界は仮の姿であとして、来世を説く。そして、この世は「色即是空」であることを衆生に教えている。。「色」即ち「この世の形あるもの、そして形無き意識から眼界」まで「空」だとしている。 

さすれば、仏教は、自らそれを実行し実践しなくてはなるまい。

それには、僧侶自ら、物を超越する、物質世界を超越すると言う実践の模範を示すことではないか。 

金襴緞子の僧衣も不要であらう、庶民には苦々しいばかりで不要である、墨染めでいいだろう、道元禅師は常にそうされた。立派な伽藍もお堂もいらないではないか、僧自身が、物に超然としなくてはなるまい。さすれば信徒は増大し、黙っていても「お布施」が増えるのではないか。お布施とは本来そのような性質のもので、唆かすものではない。まして近年は請求すらすると小言を聞いた。関西地区の友人によると、仏教にはついて行けないから神道にする人が増加しているという。神道は諸般に慎ましいからであろう。

自ら、この世的な物質世界に超然としていることこそ僧侶に必要であるのに、多くの寺院や僧は逆のことををしている。

ビジネス的仏教になつているのではないかと多くの方々から聞く。勿論、カルトの類いのものは問題外であり私は宗教とは思わない。

我々は俗界にいる人間だから許されるとしても、僧籍にあるものは、物質を越えた存在であると俗人に範を示してこそ、尊敬され自発的に喜捨もしたく思うのである。これが多くの人の思いでもあろう。 

神道や神社や皇室を見るがいい、天皇陛下を初め、宮司や神職を見るがいい、「言挙げしない」神道の原理を守り、実に素朴に質素にしておられる。賽銭など所望はされない。神道では、人間が死んだら平等で戒名の格差もない、ただ自分の名前の後に「命」即ち「みこと」をつけるだけである。私なら「徳永圀典命」となるのである。平等そのものである。日本は縄文時代からこのように平等思想があるのだ。これこそ、現今日本に最も必要な精神的要素である。

鎌倉時代の仏教の宗祖は素晴らしかった、自己研鑽は当然、命懸けの社会性を見習うがいい。寺に籠もりきりではないのだ。

現在は、末世そのものであろう、頽廃は著しい。僧侶たちは、何とも無いのか。

どうして、僧たちは街頭に裸足で進出し、乱れた青少年に、宗祖のように叫び、説法し、身を賭して戦わないのか、それでは衆生は救えない。それでは、なんら我々衆生の俗界の人間と変わらないではないか。お経を唱えるだけでは、救われない社会の現実に眼を向けるべきである。鎌倉の宗祖は命懸けで街頭に進出し衆生に説いたではないか。 

@宗教とは

1.  神とか超越的な絶対者

2.  神聖なもの

に対し信仰・帰依して、現世を生きる悩み多き衆生を教導して、この世で悟りに至らしめるものである。 

Aその為の教導者が宗教家であろう。神道は神主、仏教は僧侶、キリスト教は牧師である。キリストは問題外、仏教は神社より遅れて登場したが日本の血となり肉となっている。

僧侶たちは、神道の簡潔・素朴・質実さを見習うべきである。

  平成18年元旦 徳永圀典