中国、あれやこれや そのL

平成18年1月

 1日 半植民地の中国

日中戦争前の中国は「半植民地」と言われ、その経済は欧米列強に依存し、彼等の搾取の対象となつていた。中国の資本は貧弱で、鉱工業はまだ初期資本主義の段階を抜けていなかった。外国資本の支配下にあった。

日本は対中国投資額はイギリスと一位、二位を争っていた。1931年の総投資額の割合は、1934年には、イギリス24l、日本53lとなつていた。
 2日 中国民族資本 労働階級は英国に、労働階級はソ連に奪われる形で、日本の中国進出は常に不安定。 英国は投資の7割を交通・運輸・銀行・金融機関に向けており表面上は土着資本の脅威でなく中国経済近代化を支援するものと評価されていた。
 3日

然し、中国は他国より廉価の日本製品は得策であり、農業の発展、資源開発の資本・技術・経営力が欠如しており日本の私支援は必要の筈であった。日本の軍事作戦上の都合だけでは大きなうねりは説明できない。

いつまでも非現実的な中華世界思想から脱却できず、そのため瀕死の重傷に陥りながら、それでも中国民族は、欧米諸国から搾取されながらも、欧米に対抗して立ち上がった日本と手を組もうとしなかった。
 4日 対外的に一国の政府として責任を負えるものはなかった

過去の一時期とは、中国の天下の崩壊期であり、複数の政府が乱立、軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦と大混戦が延々と繰り広げられた、当にカオスであった。

どの政府も全中国を代表する正統政府、或いは革命の大義を唱える正義・正統・法統・道統の政府と主張しながら、対外的に一国の政府として責任を負えるものはなかった。
 5日

中国は国家としての体をなしていなかた。「中国は国家に非ず」との論が、当時の日本の学会で唱えられたが、それは歪論でも不見識でもなかつた。

日中戦争の本質を考えるなら、日清戦争に始まる一連の衝突事件、事変、戦争は決して近代国民間の国民戦争といえなかったのである。
 6日 統一政府軍に非ず 日清戦争の日本の相手は、北洋大臣李鴻章の手持ち私兵であり、満州事変での相手は張学良の満州軍閥であり、日中8年戦争は蒋介石系統の国民党軍が主力で,何れも国軍、国民軍ではない。日本が日清戦争以来正当な交渉で得た諸権益が中国人に無視され 否定され、脅かされ続けた。それどころか国際法まで無視する革命外交まで展開し、日本を振り回した。日本は中国の独善的な私利私欲の狂奔に愚弄され続けていたのである。今日と同じでありこれが中国の本質である。
 7日 単一政権の無い中国

殆ど単一政権の無い中国で、国家権利・利益を防衛する為、内戦の早期終結に向けて、例えば、段祺瑞政権や汪兆銘政権など親日勢力への加担や内戦への介入を必要とした。

内戦状態の中国では、日本始め列強諸国の介入や加担を避けるにも避けられなかったことを忘れてはならぬ。
 8日 戦争は発生しなかった

このように日本は内戦に巻き込まれ、中国の泥沼にはまってしまい、人的、物的、金銭的に多大な犠牲を強いられ、最後は敗戦の憂き目に遭遇したのである。もし中華民国時代に中国の政府が一つだけなら、戦争は発生しなかった

可能性がある。どの戦いも、各政府、各勢力が自派の私利私欲のために対日挑発をして自派の軍隊は温存しつつ他派の勢力を対日戦争に駆り立てるように仕向けたのは現代の中共と変わらない中国人の本質である。
 9日 中国のダブルスタンダード

戦後の日本人学者や一部新聞がこれを侵略として非難しているが、戦後中国の、世界の騒擾を目的としたやに見える朝鮮、ベトナム、カンボジア

の内戦介入や革命輸出をどう説明するのか。これはダブルスタンダードであり、共産主義国の手法であり中国人のやり方である。

10日 戦後の日本学者の弊害

昨日引用した事実は戦後一時、世界を風靡した「世界革命・人類解放・国家死滅」というスローガンに自己陶酔し資本主義国帝国主義国の非難に夢中になる一方、社会主義国に賛辞を送り続けてきた。

北朝鮮を天国のように言いふらしたり、中国の残忍な文化大革命を賞賛したり、歪曲したきた。

11日 中国の挑発に落ちた日本 日本軍の華北駐留は1900年の北清事件(義和団事件)後の北京議定書による合法的な条約に基づくものである。 信頼を喪失した清国政府に代わり、各国の権益や居留民の安全を守っていたのである。現在のアフガニスタンやイラクと同様な状況であった。
12日 中国の挑発に落ちた日本2.

日中戦争の真の原因は、中国国内勢力が次々と仕掛けた反日、排日の罠に嵌ってしまつたからである。罠とは反日宣伝、排日デモ、反日教育、敵日の教育、日貨排斥、日本人居留民へに攻撃殺害大量虐殺に至るまで数知れない。

この中国による度重なる挑発に、日本の世論が「支那(しな)膺懲(ようちょう)」に燃えあがり、日本が本格的な戦争に突入したのである。
13日

中国の挑発に落ちた日本3

なぜ彼ら中国各派勢力が、それほどまでして反日挑発をしたのか。内乱、内戦の上で、自己の勢力の安泰を図りたいからであった。

国民党の非主流各派は最大勢力である蒋介石の国民政府に日本と戦わせ、その強大化と集権化を牽制し、或いは蒋介石派の討伐から逃れて自己の勢力温存をしようとした。これが中国人のやり方である。現代と少しも変らない。
14日 中国の挑発に落ちた日本4. 中国内各派勢力は、日本人居留民殺害や日貨排斥などの対日挑発を繰り返しながら、日本からの抗議や非難があっても自分で責任を負わず、みな中央政府に擦り付けていたのである。 19647月、日本社会党委員長の佐々木更三が率いた訪中団が毛沢東と会談し過去の中国侵略の謝罪をしたら「何も謝ることはない、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。お蔭で中国国民は権力を奪取できた。日本軍なしでは出来なかった」と返したのである。
15日 中国の挑発に落ちた日本5. 毛沢東は、国共内戦の末、蒋介石に延安まで追い詰められ、風前の灯、そこで起死回生策として「逼蒋(ぴーちゃん)抗日(かんじぃ)」であった。反日、排日、抗日気運を盛り上げ、蒋介石に抗日を迫り、その矛先を共産党から日本に向けさせるという戦略である。 それは対日戦で蒋介石国民軍を消耗させ、自分達は終戦後に政権の奪取をすべく力を温存し、着々と勢力範囲を拡大した。そして日本敗戦後その通りとなった。
16日 中国の挑発に落ちた日本6 当時、蒋介石は日本より中国共産党を真の敵として憎んでいたと思われる。蒋介石の独裁を恐れる反蒋介石派は盛んに対日挑発をして、蒋介石と日本を対立させようとしていた。 日本の世論はその挑発にまんまと引っ掛かった。それでも日本政府は隠忍自重しており、日中開戦後も事態不拡大を方針としていた。
17日 中国の挑発に落ちた日本7
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ケ小平は1978年、三岡健次郎元陸将に対して「日本は中国を助けた。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。日本だけを責めるのは不公平だと思う」と発言している。 謀略で日中戦争を惹起して、計画通り漁夫の利を得た中国共産党の自信ある発言であり、これが孫子の兵法であり、現在の中国共産党の手法とも酷似している。彼等の表面的な発言に引っ掛かってはならぬ。
18日 民衆への略奪 民衆ら対する略奪、虐殺は中国軍の伝統文化である。近代でも不変で、軍閥だけでなく、近代的革命を唱えていた国民党軍も共産党軍もそれに染まっていた。 それが日本人に対して発揮された代表例は、国民革命軍が北伐途上の1927年に惹起した南京事件、翌1928年の済南事件、なんの罪もない日本居留民が大量に虐殺された。
19日 中国人の殺戮方法1. 済南事件における西田領事報告書はその一端を記述して日本全土を震撼させた。 それは現地に転がる死体は内臓を全部露出し、女の陰部に割木が差し込まれ、顔面上部が切り落とされ、耳が切り落とされ、あるいは男性の陰茎が切り落とされていた等々の悲惨極まりないものであった。最近の中国人犯罪と酷似している。
20日

中国人の殺戮方法2.

盧溝橋事件の直後に発生した通州事件も同様、日本軍と協力して通州に駐留していた中国人の保安隊が、国民党か共産党の策謀であろうが、中国軍大勝のデマを鵜呑みにして突然日本人居留民に襲いかかり、通州在住385人の内224人を同様な方法で虐殺した。 これらは中国では、決して奇習でもなく、彼らの文化である。この猟奇性は中国群集の日本人排斥騒動でもしばしば見られ、このような繰り返しから、日本では「暴力支那を懲らしめる」の声が高まってきたのは当然である。
21日 黄文雄氏の見解 渡部昇一氏は大東亜戦争の遠因を@アメリカの移民排斥法A大不況とブロック経済B中国人の排日、侮日運動との順で挙げているが、これより以前アメリカの移民規制が厳しかった時代には、中国人は日本人以上に排斥されていた。 だが、当時は、米中は接近していた。大不況にしても米英ソを除き、不況の影は全世界に広がっており、日本だけが困窮していたのではない。私は、中国人の反日、侮日運動こそが日本を戦争へと駆り立てた、日中戦争の最大の原因でありその延長線上にこそ大東亜戦争があったと考える。
22日 遠交近攻 中国の伝統的な「遠交近攻」「夷を以て夷を制する」の策略で初心な日本は戦前戦後とも中国にしてやられている。それは歴史的事実の検証からして、一目瞭然のように思える。 中国政府は、日本以外の列強国の権益だけを保護する姿勢を示したのである。こうして日中戦争から大東亜戦争へと連なり、日本対米英という対抗図式に持って行かれたのである。米英も中国の巧妙な操作で日本に対する猜疑心・警戒心を抱いて行くのである。
23日 中国人の民族性 中華思想、華夷思想から排他的、排外的な民族性を持つ。 元来はバラバラで愛国心の微塵も無い中国人は、実際は国内での不満や怒りをぶつける相手を外国の求める図式がある。
24日 幣原外交 国際協調主義にバカ正直に徹した「幣原外交」の時代、日本は中国への関与、介入を極力控えた。そこで発生したのが南京事件であり、済南事件である。 中国人は日本側の、いかにも日本的な友情的配慮に、寧ろ日本が与しやすいと侮り、攻撃対象とした。近年の中国問題の本質と同様である。
25日 大東亜戦争の真因 中国人の日本人の優しさに対し、増長と排日、侮日を以てし、日本人の権益、生命、財産を脅かし、それがやがて満州事変を惹起することになった。 それが更にエスカレートして勃発したのが日中戦争である。中国の飽くなき挑発の為、当初の日本の「不拡大方針」など程なく消し飛ばされたのである。そして中国の「以夷制夷」の策略通り、日本は米英と決戦に追い込まれたのである。
26日 アジアを守り敗れた日本 日本の戦争の相手は、殆ど当時の超大国ばかりであった。清国自体も強大な敵として恐れていた。ロシアなどとの戦争は身の程知らずであった。ロシアの意のままにしておくと、日本は間違いなく属国とされるので、生死存亡をかけて戦ったのである。

日中戦争にしても、当時の中華民国は日本の七倍の兵力を擁する世界最大の軍隊であった。

27日 アジアを守り敗れた日本2. 日本がもし、中国侵略、世界侵略などという陰謀を持つ国であれば絶対にこの暴虎馮河とも思える無茶で自殺的な戦いは挑まなかったであろう。 日本が超大国とばかり戦争をしなければならなかったのは、アジアを防衛して自らの存立の保持しなくてはならぬ止むにやまれぬ情況に立ち至っていたのである。
28日 アジアを守り敗れた日本3. アジアには中国も入っているが、この中国はアジアの秩序を徒に撹乱させるばかりで、白人からのアジア防衛の為に何もしないどころか、日本の妨害ばかりしていた。 日ロ戦争では、日清戦争で敗れた悔しさから日本を牽制すべくロシアに接近し、密かにロシアと軍事同盟を締結し、日中戦争では米英を引きずり込み日本を泥沼に引き込んだ。日本はたった一国で白人を相手にしなくてはならなかった。
29日 アジアを守り敗れた日本4. ロシア革命後の満州事変、日中戦争は、巨視的に見れば共産主義の世界的拡大から東アジアを守る戦争であった。 大東亜戦争に至るまでの日米交渉での争点も、日本の中国に於ける防共駐兵を巡るものであった。
30日 アジアを守り敗れた日本5. 日中戦争の最中、南京政府の汪兆銘が最も危惧していたのは、中国共産党がこの戦争を利用して勢力拡大をすることであった。 共産主義という当時の世界に於ける潮流の巨大さとそれがアジアに齎していた脅威の深刻さを理解しなくては、日本の軍事行動の真の目的は理解できない。
31日 アジアを守り敗れた日本6. 万一、日本が日露戦争で負けていたら、亡国を免れていたとしても北海道はロシア領、満州はもとより朝鮮半島もすべてロシアのものとなつていた事は間違いない。 ロシアの南下を生存を掛けて防止した日本は、再びその南下を防ぐ為に、中国人に代わって血と涙で必死に満州を開拓、開発したと言えるのである。中国の当時の考えの悪い事は指摘しなくてはならないのである。