日本の心の古典 「国学」

正月でもあり、日本の国学に就いて一考する。平成1811

 1日 国学とはなんぞや

十七世紀末、北村季吟らが盛んに古典の注釈をし出版もした。やがて新しい古典研究が国学として起こってきた。僧契沖は「万葉代匠記」で、文献だけを証拠に言葉の真意を追求、それにより古典の中の人間の姿をありのままに捉えるべきだとする実証主義を確立する。それ以前の歌学では古人の伝承による見解を尊重したがここではそれを厳しく排された。

当時の漢学の古義学派の伊藤仁斎の、原典に即してのみ解釈を試みる方法と共通する。後の荷田春満外来の儒・仏教の思想を排斥して本来の日本民族の心を知るべきことを主張した。これが国学の思想的基盤となる。その後、加茂真淵本居宣長が、この実証主義と日本的思想を発展的に統合して行く。
 2日 加茂真淵 1697-1769年,浜松出身、37才で京都に出て荷田春満に学ぶ。後に江戸で国学者として一家をなす。 田安宗武に仕え、その国学の師となる。
 3日 真淵の国学と和歌 そのような上代語研究の一環として、上代の人々と同様な歌や文を作るべきと主張して万葉復古の歌風を提唱した。 真淵は「万葉孝」など万葉の研究を通じて国学の方法を具体化した。万葉を通して儒仏に影響されない上代の人々の言葉を知り極め、上代の人々の心や考え方が明らかにできるとした。
 4日 うたの心のうち(歌意孝(かいこう))

加茂真淵

あはれあはれ、上つ代には、人の心ひたぶるに、なほくなむありける。心しひたぶるなれば、なすわざも少なく、事し少なければ、言ふ言の葉もさはならざりけり。

ああほんとうに、上代においては、人の心が率直であり、純粋であったのだった。心が率直であるので行動も単純だし、行動が単純であるので表現する言葉も複雑ではなかったのだった。
 5日

しかありて、心に思ふことある時は、言にあげて歌ふ。こを歌といふめり。

そして、心に感じることことのある時は、それを言葉に表わして歌う。これを歌と呼んだようだ。
 6日

かく歌ふも、ひたぶるに一つ心に歌ひ、言葉もなほき、常の言葉もて続くれば、続くとも思はで続き、調ふともなくて調はりけり。

このように歌う時には素直に感動を集中して歌い、言葉も飾らない日常の言葉で表わしたのでことさら続けようと思わないでも続き、整えようとしなくても、その調べは整っていたのだ。
 7日

かくしつつ、歌はただ一つ心を言ひ出づるものにしありけば、いにしへは、ことと詠むてふ人も詠まぬてふ人さへあらざりき。

こうして歌は感動によって集中した心を言葉に表するだけのものであったから、上代においては、専門的な歌人であるとか、歌人でないとかの区別もなかった。
 8日

古今集の中に、よみ人しらずてふ歌こそ、万葉に続きたる、奈良人より、今の(みやこ)の始めまでのあり。これをかの延喜のころの歌と、よくとなへくらべ見るに、かれはこと広く、心みやびかにゆたけくして、万葉につげるものの、しかもなだらかに、にほひやかなれば、まことに女の歌とすべは。

古今集の中で、読み人知らずとされている歌は、万葉集に続いている奈良の人の歌から、今の平安朝の始めまでの歌がある。この歌をあの延喜のころの歌と十分に誦し比べてみると、詠み人知らずの歌は、歌の世界が広く、心情が風雅で豊潤であり万葉集に続く性格を持っているが、しかも調子がなだらかで余韻が感じられるから、真に女の歌とするのが適当であろう。
 9日

いにしへは、ますらをは猛く雄々しきをねとすれば、歌もしかり。さるを古今歌集のころとなりては、男も女ぶりに詠みしかば、男・(をみな)のわかちなくなりぬ。

上代においては、男は勇壮で雄々しいことを理想としていたので、歌も同様男性調である。ところが古今集の時代になり、男も女性調で詠んだので、男性調、女性調の区別がなくなってしまった。
10日

さらば女はただ古今歌集にて、足りなむといふべけれど、そは今少しくくだち行きたる世にて、人の心に巧多く、言にまことは失せて歌をわざとしたれば、おのづからよろしからず、心にむつかしきことあり。いにしへ人のなほくして、心高くみやびたるを万葉に得て、後に古今歌集へ下りてまねぶべし。

それならば、女性はただ古今集を学べば足りるといえるわけだが、古今集は少し衰え始めた人の心に理知的な働きが多くなり、言葉の真実味がなくなって、歌を技巧的に詠んだので、自然とよくないところがあり、歌の心情に煩わしさが感じられる。上代の人の純粋で、品格があり、高雅なところを万葉集から学び得て、後に古今集へ下って学ぶのもよい。
11日 本居宣長 1730-1801年、国学者、歌人。伊勢松阪の人。源氏物語などの王朝物語・和歌を研究したが後に大著「古事記伝」完成。 和歌では新古今調の歌風を主張し近世和歌の一流派を形成した。諸国に門人が多く、江戸後期国学の源流となった。
12日 真淵と宣長 加茂真淵は宣長が師と呼んだただ一人である。然し一度だけしか会っていない。宣長34才、真淵67才で宣長が、真淵が松阪に来た時に宿を訪ねた。この時、真淵は宣長の古事記研究を心から励ました。その翌年から26年かけて宣長は古事記伝を完成した。 宣長は終生に亘り真淵を尊敬したが、師説の批判には手を緩めなかった。万葉ぶりの真淵と、新古今風を理想とする宣長と文学観が異なる。子弟関係は真淵の死まで続く。
13日 心と情・「もののあはれ」

宣長は「心」と「情」を区別して「情」にこそ人間の本質があると見る。人間の感情・感性は、儒仏などの道理、いわば理性などでは律することができないとして、その感性から発せられる止むにやまれぬ感動を「もののあはれ」であると説いた。

そして、人間的な感動は恋において典型的に現われると考え、不義と知りつつも心を動かさざるを得ない源氏や藤壺に、人間の本然的な形姿を見出す。この「もののあはれ」論は、物語を儒教・仏教などの思想から解放して、物語固有の意義を明確な理論として跡づけようとした最初の文学論と言われる。
14日 玉の小櫛

宣長作、源氏物語の注釈書。総論・年立・注釈から構成。

もののあはれ論の確立が見られるとという。明日から始める。
15日 もののあはれ論 
本居宣長

さて物語りは、もののあはれを知る旨とはしたるに、その筋にいたりては、儒仏の教へには、そむけることも多きぞかし。

さて物語りは、「もののあはれ」を知ることを旨とはしているが、その内容にいたっては儒教や仏教の教えに背いていることも多い。
16日

そはまづ人の(こころ)の、ものに感ずることには、善悪邪正さまざまある中に、ことわりに(たが)へることには感ずまじきわざなれども、情は、われながらわが心にもまかせぬことありて、おのづから忍びがたきふしありて、感ずることあるものなり。

というのは、まず人の感情が物に感ずるのは、善悪正邪さまざまあるうち、道理に反したことには感動すべきでないということかもしれないが、人の感情は、われながら自分の意思まかせれぬものであって、おのずと堪えきれずに感動することがあるものだ。
17日

源氏の君の上にて言はば、空蝉(うつせみ)の君・朧月夜(おぼろづきよ)の君・藤壺の中宮などに心をかけて逢ひたまへるは、儒仏などの道にて言はむには、よにうへもなき、いみじき不義悪行なれば、他にいかばかりのよきことあらむにても、よき人とは言ひがたかるべきに,

源氏の君のことで言えば、空蝉の君・朧月夜の君・藤壺の中宮などに心をかけてお逢いになつたのは、儒教仏教などの道理から言えば、これ以上のこともない、ひどい不義悪行なので、他にどんなよいことがあったとしても、よい人とは言い難いはずなのに、
18日

その不義悪行なるよしをば、さしもたてては言はずして、ただその(あひだ)の、もののあはれの深きかたを、かへすかへへす書きのべて、源氏の君をば、むねとよき人の(ほん)として、よきことの限りを、この君の上にとり集めたる、これ物語の大むねにして、そのよきあしきは、儒仏などの書の善悪と変はりあるけぢめなり。

その不義悪行のことはことさらに指摘しては言及せず、ただその間の「もののあはれ」の深いことを繰り返し繰り返し述べて、源氏の君を専らよい人の模範として、よいことのありったけをこの君の上にとり集めている。これがこの物語の本意であって、そのよしあしは、儒教仏教などの書物でいう善悪とは異なった趣があるのである。
19日

さりとて、かのたぐひの不義をよしとするにはあらず。そのあしきことは、今さら言はでもしるく、さるたぐひの罪を論ずることは、おのづからそのかたの書どもの、世にここらあれば、もの遠き物語をまつべきにあらず。

かと言って、その類いの不義をよいとするのではない。その悪いことは、いまさら言わずとも明らかであり、その類いの罪を論ずることは、おのずとその方面の書物が数々世の中には沢山あるのだから、それとは余り関係ない物語に期待すべきではない。
20日

物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひを離れて悟りに入るべき(のり)にもあらず、また国をも家をも身をも修むべき教へにもあらず、ただ世の中の物語なるがゆえに、さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、ただもののあはれを知るかたのよきを、とりたててよしとはしたるなり。

物語は、儒教仏教などの厳格な道のように、迷いを離れて悟りの境地に入るべき法でもなく、また国をも家をも身をもおさめるべき教えでもない。ただ世の中の物語であるがゆえに、儒教仏教でいう善悪の論はしばらくさて措いておき、そのようなものには関係なく、ただ「もののあはれ」を知っているということのよさを、取り立ててよいことだとしているのである。
21日

この心ばへを物にたとへて言はば、(はちす)を植えてめでむとする人の、濁りてきたなくはあれど、泥水(ひぢみづ)をたくはふるがごとし。物語に不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでてにはあらず、もののあはれの花を咲かせん(かて)ぞかし。

この趣意を物にたとえて言えば、蓮を植えて鑑賞しようとする人が、濁ってき汚くはあるけれども、泥水をたくわえるようなものである。物語に不義の恋を書いているのも、その濁った泥を鑑賞するのではなく「もののあはれ」という花を咲かせようとする考えのためなのである。
22日 近代の黎明 明治維新からを近代とする歴史区分では、明治になり古い迷妄が初めて除去されたと思いがちだ。然し、近代の黎明は、それより遥かに早い江戸後期に始まったといわれる。 鎖国体制下でも実学を中心に西欧の科学は移入されており、合理主義の精神は、旧弊な知識層の抵抗があったにも拘わらず広まった。
23日

安藤昌益は万人が農耕に従事する社会を理想とした。画家の司馬江漢は「上天子将軍より下士農工商非人乞食に至るまで皆以て人間なり」と述べた。

非合理的なものを拒否した山片播桃は、記紀の神代の記述は虚構で「応神よりは確実とすべし」と近代史学の結論を早くも出して、君主の先天的権威を否定した。
24日

儒教思想を幕藩体制の支柱とする幕府は、キリシタン弾圧だけでなく仏教も迫害した。

赤穂浪士の処刑も批判覚悟の忠君思想の補強策だという説もある。忠臣蔵は為政者の思惑通り評判となったという説もある。
25日

社会不安と生活困窮から、民衆は世直しを願い、集団行動に走る。一揆である。一揆は増加し、越訴の形式から次第に実力行動を伴う強訴・打壊しとなる。

本居宣長は一揆の原因を「いづれも下の非は無くして、皆上の非より起これり」と断定している。
26日

近世末期に周期的に発生した集団的伊勢参宮「おかげ参り」や、維新前夜解放の幻想に酔った集団的熱狂「ええじゃないか」には、既成秩序への反抗が見られるが、いずれも社会を本質的に変革するものとはならなかった。

近世300年は、他の時代と同様、その時代の中で大きく揺れ動いていた。文学ひいては文化のありようは、政治史による時代区分の枠では捉えきれないのである。
27日 安藤昌益

江戸中期の医者、封建社会を批判した思想家。一切の身分秩序を破棄した平等主義が特色。人間すべては「直耕」(生産活動)に従事し、男女が平等に一夫一婦の関係で結ばれる社会を「自然の世」と呼びそれが理想的な人間の生き方であるとした。

人為的な法律・制度による身分社会を「法世」とする法とは自然に反する作為とした。戦争や犯罪は法による身分・差別が原因であり、儒教や仏教などは身分社会を合理化するものだと批判した。
28日 鳥の話
(安藤昌益)
鴛鴦(おしどり)もこの会合の内にあり。諸鳥の見る処を恥ぢず、雌雄、愛淫に溺る。(かたわ)らの(くぐひ)、意見して曰く「われ過って色欲に溺れ鼻声なれども、汝がほどに溺れず、諸鳥の見る前もあり。ちと慎まれよ。」 鴛鴦もこの会合に加わっている。鴛鴦は諸鳥に見られるのも恥じず、夫婦でみだらな色恋にふけっている。かたわらの、(くぐひ)、が見かねて意見するには、「私は間違って色欲に溺れかけて鼻が欠け鼻声だけれども、あなたがたほどには色にふけらぬ。諸鳥の見る手前もある。ちょっと慎まれよ。」
29日

鴛鴦が曰く「御辺、みだりにわれを言ふことなかれ。法世の人、聖王・諸侯、おのれ一男(いちだん)に多くの官女、昼も(いつく)しび犯し、人目を恥づることなし。法世の上に立つ人、かくのごとくなれば、鳥世にわれらごときなければ、法世の人に違ひて気の毒なり」

鴛鴦が言うには、「そこもと、どうかわたしどもばかりをむやみに責めることをやめて下され。法世の人間は、聖王も諸侯も自分ひとりに多くの官女を抱え、昼間から彼女らを愛して弄び人目を恥じることがありません。法世では、上に立つ人がこのような様子ですから、鳥世にわたしどものようなものがなくては、法世の人と違ってしまって気の毒ではありませぬか。
30日

鵠が曰く「法世の人は鳥世に似せてするなれば、これ可なり」時に鴛鴦、諸鳥の会多くして、(えん)(おう)と、その間(さえぎ)り隔てられ、その隔てを悲しみ、鴦、(もだ)へて死す。鴛、これを見て、鴦が死骸(しかばね)に翼を覆ひ、ともに死す。

鵠が言うには「法世の人は鳥世の真似をしていることなので、法世の人の模範としてするのならば、それでもよい」そのうち、諸鳥の会は列席者が多くなり、鴛鴦は、鴛と鴦と間をさえぎり隔てられて、その隔てを悲しんで鴦が悶えて死ぬ。鴛はこれを見て、鴦の死骸に翼を覆い、ともに息絶える。
31日

諸鳥これを見て「愛恋に迷へるかな」と。鴨が曰く、「この恋惑は、鴛鴦のみにあらず。法世に釈迦、「夫婦は二世の契り」と説法す。ゆえに法世の男女、たがひに恋慕し、障り隔てありて夫婦になることかなはざる時は、たがひに心中して死す。これ仏法世にあることにして、鳥世に違はざるところなり。(自然真営道) 

諸鳥はこれを見て「色恋に迷ったか」と言う。鴨が言うには、「この愛欲の惑いは、鴛鴦だけではない。法世では釈迦が「夫婦の縁は二世につながる」などと説法している。それだから、法世の男女は互いに恋慕し、支障があって夫婦になることがかなわぬ時には、二人で心中して死ぬ。これは仏法が世に現われたので、鳥世と違わぬものになったのである。