「大新聞・テレビVS.ネット」考  日本海新聞 潮流 寄稿 平成18年2月2日

 ーー真実・真相・実態は大新聞・テレビでは得られないーー

 

私のインターネット体験10年からの雑考である。新聞・テレビは、担当記者の経験知識レベルが主となり報道される。整理部の対応もあるが、即戦即応の日々の情報活動の中での取材であり、担当記者の知識、人生経験、見識、文章能力が即座に出てくるものであり、厳密な傍証とか事実確認に各社の能力が試されるものではあるまいか。従って、そこには止むを得ない、不確定なものも生れ得るし、当然ながら記者の思想、主観も多く入ることとなる。

中には昨年総選挙の時、朝日新聞長野支局の記者のように、ありもしない田中知事と亀井静香氏との対談をデッチアゲ、政局を誘導するような悪意ある意図的なものも生ずる、記者も功を焦る。厳密な情報の検証は一刻一秒を争うメディアの競争場裡にあっては至難であろう。勢い、報道記事は各般に亘り心くばりを要するから、真実真の実態を、メディアは流し難いのではないか。その前に彼らは利益を目標とする商業新聞・商業テレビである。大きな広告主がスポンサーとして控えておれば、彼らの決定的不利な真実には余程でないと触れ難いのであろう。それに配慮が無いとは断言できまい。

大メディアの記事や放映を永年に亘り観察しておればその通りだと痛感するし、彼らの思想的スタンスも分かるが、概してタブーの諸問題には知らぬ顔となって真のジャーナリズム精神から程遠いものになっている。

それは外国との間にもあるようで、特に大メディアは公共放送のNHKはじめ日本の国益に関わる問題でも、第三者のようなコメント的ニュースを流しており、どこの国のテレビであろうかとさえ思う。多年に亘り各テレビ・大新聞の傾向を観察してくると、どこのメディアがどのように偏向し、或いは一方的であるとかが明快にわかる。概して、どのメディアも、問題点に対して公明正大な国民社会的、国益的正義を貫いていないと思える。

公共放送で我々の受信料で成立しているNHKさえ、玄人の専門家は、昨年の総選挙中、巧妙に専門的、心理的、作為的手法で意図的な画像を流し野党に肩入れしたと言う、真偽の程は分からぬが。
何とか流とかいうのも仕掛けられたものだと、ネットの声は溢ふれている。

このように、新聞とかテレビしか見ていない人々は制約の中の情報しか得ていないこととなり真実とか実態から隔離されているようにさえ思える。

朝日新聞とかNHKの報道姿勢など、過去様々な体験から推察すると、日本の大メディアはどおもオカシイと多くの国民は気づいているのが現実ではないか。

それは、実はネットの普及により更に加速されて、大新聞・テレビだけでは真実のものに触れられない、彼らは避けたり、隠している部分がかなりある、と多くの国民は気づくようになっているように私は思う。

明快に言うと、ネットの世界では、当たり前の情報が大新聞テレビでは、皆目知らされていないと言うことである。要するに大新聞テレビのみでは、国内や世界の本当のことが分からないという時代になっていると言えるのではないか。

中でも近隣諸国の実態報道がベールにかかっているように思うばかりか、作為的なものすら感じられるのである。

処が情報にタブーが無いのがネットである。私も昨年、新聞テレビ、雑誌等では知らされていない情報を数多く知り愕然とする事が屡あった。それを知る事により不可解であった過去の諸問題の原因・背景が霧消するように理解できたのである。それは、あっ驚くような、ああ矢張りそうであったか、それで、多年に亘りおかしいと思っていた事が氷解したという事実に数多く遭遇した。

進行するネット時代には、表面的なテレビ・大新聞情報だけでは我々には情報閉鎖が現実にあると確信している。活字離れの現代、若・壮年層が戦後の自虐史観から脱しつつあるのもネットの影響ではなかろうか。大メディアによる情報封鎖、偏向が度を過ぎると行き着き先は不信、そして存在価値の揺らぎではあるまいか。(鳥取市)

徳永日本学研究所 代表 徳永圀典