平成182

生死(せいし)一如(いちにょ)死んでもともと 捨身(しゃしん)即光明(そくこうみょう)(かーつ)!

言いたいことの言える人間になれ。菅原義道師―報国寺元住職

平成18年2月

 1日 死んでもともと 日本人が日本人として生きる道、人間が人間として生き抜く道。剣禅一致「武士道とは死ぬことと見つけたり」がある。

禅の修行は「死にきる」ということ。
「わが身を殺して生ききれ」ということ。

 2日 剣禅一致 その場で死にきる、これが禅の精神であり鎌倉時代以来800年、日本人の精神的支柱となってきたのである。 現代的には、「青年は命を掛けてその瞬間、瞬間を生きろ」ということである。
 3日

瞬間、瞬間を生きる、人間が人間らしく、男が男らしく生きる、日本人が日本人らしき生きる。

思いっきり、やりたいことを体当たりで敢行する、死んでもともとという考え方に立ったのが剣禅一致。
 4日

君は間違っとる

国会議員が沢山誕生した、誰の眼から見ても正しいと思われる一国民としての意見を一喝できる人であって欲しい。 例え、普段は居眠りしていても、日本の為に、一喝できる議員であれば、天下を動かせる。枝葉の議論に執着する奴に、「君は間違っちょる!」といえる議員であれ。
 5日

陰でブツブツ文句を言う奴、匿名でしか発言できない人、これはニセ者である。日本人は農耕民族で、みんなが渡りだしたら一斉に追随する。これはズルイのである。自分が可愛いからに過ぎない。

重要会議の前には、洋式便所に座り、坐禅でもして、精神統一を図り、胆を据えた議論を堂々としている人もある。
 6日 真正直 論語にある「子曰く、我汝に隠すなし」。一切の隠し事のないことである。 「真っ正直」は道の極という言葉もある。人が修行し、美しくなる時は、真っ正直になつた時である。その時、人は強くなる。
 7日 ついついのウソ それは「小ざかしい自己」が働くからである。醜い自己が働く時、それを取り繕う為に又新たなウソを重ねる。 どんなに隠しても偽りの言葉というものは分かるものだ。真の姿というものはわかるものだ。どんな時でも、どんな場所でも真の言葉を吐け。
 8日 西郷南州遺訓 「過ちを繕わんとて、思慮をするは愚かなことなり、過ちは過ったと思えばそれにてよし」 間違ったら、しまつた、と悔い改め、次に一歩前進するところに過ちの価値がある。
 9日 俺の行く道は俺が決める いいたいこと、やりたいことを大声で実行するには、あれこれ先のことを考えていては駄目だということだ。無我になりきることだ。 世の中のことは、是であると信じて行えば是になるものだ。迫力と動力と信念で死地に飛び込むことだ。虎穴に自ら入ることだ。
10日

捨身の自己を創る

因果応報、原因があるから結果がある。蒔かぬ種は生えないのだ。 どんなことでも、大死一番のつもりで、命懸けでやることだ。瞬間に命をかける。
11日 人生は闘争 一大事というは、本日ただ今のことなり。

何がなんでもやつてやる、と燃えることだ。

12日 この世は弱肉強食 松永文永和尚「千古不易 弱肉強食 優勝劣敗 生者必滅会者定離」 これが人間に課せられた大きな宿命であり、宇宙の原理でもある。
13日 勝てば官軍 負ければ賊軍、戦後の日本の置かれた立場と同様であるが、まだ肌身に徹していない人間が多い。 人生も外交も闘争の連続、生き抜く為には勝たねばならぬ。徳で勝てぬなら金で、金が駄目なら仕事で勝つ、最後には力で相手を圧倒せんとする気迫で勝つ。
14日 自力本願 強い者が勝ち、弱い者が負ける。だから己の意思を貫く為には、何が何でも負けないだけの力が必要。 直情径行でも猪突猛進でも、これだと信じたら行動あるのみ。最後に頼れるのは自分だけ。山岡鉄舟は「死んだとて損得もなし馬鹿野郎」
15日 人生は人を相手の事業 良かれ悪しかれ、人生は人を相手とする事業だ。その相手とする人たるや、我執が強く、欲望に燃え、名誉に飢えた人々である。

社会はこのような人間により構成されてい。負けてはおられない、命もいらず、名もいらず、金もいらぬという捨身の己れ自身の火のような意思が人生の行動の源泉となる。

16日 始末に困る人 西郷南州は言う、「命もいらず、名もいらず、官位もいらぬという人は始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大事業はなしえられぬなり」 更に言う「人を相手とせず、天を相手とせよ」、禅では、更に進んで「天を天と思わず、地を地と思わず、人を人と思わぬ底の人になれ」と教えている。
17日 死との対決

菅原義道
(報国寺元住職)
地獄は自分で造るもの。世の中というものは、人が鬼をつくるものではない、人が地獄へ落とし込むものでもない、 自分で地獄を作り、鬼を作り、自分で落ち込んで苦しむものだ。自分自身が自己に目覚めて救われれば他人も一切のものも救われる。
18日

人間は何のために生きる?

菅原義道(報国寺元住職)

お前さん!人間は何の為に生きるかって言ったって、人間はそもそも生れて来る時に、意識して考えて生れて来た者はないよ。何の為にでもなく、生まされて来たというべきかな。生まされて来たのだから、生きて行くんだよ。 そして生きて行くだけで即、それが「善」でもあるんだよ。あんたが生きて行くことが、両親始め大勢の人の支えになつているんだよ。あんたが死ねば、社会的に大なり小なりの穴があくのだよ。そのポッカリ開いた穴を誰かがふさがねばならないんだよ。
19日 菅原義道(報国寺元住職) 人間は生きていることが善であり、人間は美しくあることが善であり、人間は一人で生きているのではないということが解ってきた。 大きな生命のもとに産まされ、生かされ、死なされて行くことも頷けてきた。大自然に逆らわず、諦めて諦めて、平々凡々と生きることが善であると解ってくる。
20日 いつ死んでもええわなも 70才を越えた一人の修行僧、覚念坊、若い雲水と素足に草鞋で托鉢の行に出る。若い雲水「ご僧はご年輩のようですが、そんなに修行されてどうします。修行中倒れたらどうします」 覚念
「ええ、まあ、わたしはなも、いつ死んでもええわなも、私、生れておらんから」。ぽろっと出た言葉に全人格を表現する言葉が出てくる。
21日 いつ死んでもええわなも2. 盤珪国師が「不生でござる」と言われた。禅の真髄と言われる。全く自己否定の、徹底した言葉である。 自我滅却を徹底していた覚念さんにとつては、年齢もない、地位もない、安住の棲家もいらぬ。至る所青山あり、修行場のセンベイ布団が極楽浄土であった。
22日 いつ死んでもええわなも3.

どんな死に方をしても、死んでゆくことは間違いない。誰も線香一つあげてくれなくても、お経一声あげてくれなくても、全く死んでゆく本人には分からぬことであり、無関係である。

正に然り、他郷の春を求める前に、自家庭前の梅を見よ。春は枝頭にあってすでに充分である。どこまでも自己の心中からの言葉を見出して、自己の信念とし、自己のものとしなければならぬ。
23日 某僧侶の講演 「お婆さんたちよ、直きに死ぬのだから、やりたいことをやれ!」と絶叫したことがある。聞いた人も唖然としていたが、数分後に万雷の如き拍手が起こった。皆さんも、「俺は直きに死ぬ、直きに死ぬ」とお念仏のように常に唱えて暮らすことだ。そうすれば 、下らないことにかまけておられなくなる。死にきった人は物を欲しがらない、死にきった人は物を正しく見る、死にきった人はこわがらない、死にきった人は物に動じない。大死一番、大活現前して、無碍にして自在な生活ができる。
24日 臨済禅師 仏法を学ばんとする者、旦らく真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去往自由なり。すべからく真正の見解(心境)を掴まねばならぬ。 今日はただの今日に非ず、勃初の始めより一大継続された自己である。これくらい天地雄大の気を持たねば、この浮世を生き抜けない。自己は即ち大宇宙の大生命と切っても切り離せない自己である。
25日 無になりきる 刻苦光明、必ず盛大なり。身体中で骨折った人はその骨折りの度合いに応じて、その無の掴み方も深く掴むものだ。 そうすれば、不思議なもので、今日まで何気なしに見ていた紅葉の一葉が、遮那無に、我に呼びかけているかの如く美しく見えるという。
26日 坐禅による無 ジャイアンツの川上哲治氏、背番号16、三割打者も危くなる、正力松太郎翁は美濃の伊深の正眼寺の坐禅を勧めた。 逸外老師は「なあ、川上さん、背番号16を捨てて来なさい、三割バッターの責任捨てて来なされ。スターでなく、真裸になって来なされ。男一匹川上哲治で来なされ。そして「無ん参ぜよ、無に参ぜよ」。無の尊さを掴んだ川上は気が楽になつていた。
27日 無とはなんだ 「天地いつぱいの自己」
「無なるが故に万有す」
「無一物中無尽蔵」「無なる故に万有す」
28日 相対二元の世界 無に取っ組むと、差別の世界に生きて、あれは、価値ある世界だ、これは価値のない世界だ、損だ、得だ、利口だとかバカだとか、そんな相対二元対立の世界を幾ら繰り広げて行きても限りが無い。 一を得れば、二が欲しくなる。二を得れば三が欲しくなる。だが、欲すれば欲するほど、山の彼方、空遠く逃げてしまう。そういう世界から解脱して、無の世界に行くと本当の安らぎがある。