日本の心の古典 P 近代の黎明

平成18年2月

 1日

明治維新から近代とする歴史区分だと、明治になって古い迷妄が初めて除かれたように思い勝ちであろう。然し、近代の黎明は、遥かに早く、江戸後期には訪れていたと見るべきである。

鎖国体制下でも実学を中心に西欧の科学は移入されており、合理主義の精神は、旧弊な知識層の抵抗があったが、広まっていきていた。

 2日

例えば、安藤昌益は「万人が農耕に従事する社会を理想」とし、画家であった司馬江漢は「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」と述べている。

非合理的なものを拒否した山片幡桃は「記紀の神代の記述は虚構で「応仁よりは確実とすべし」と近代史学の結論を早くも主張し、君主の先天的権威を否定した。
 3日

儒教思想を幕藩体制の支柱とする幕府は、キリシタン弾圧だけでなく、仏教も迫害した。赤穂浪士の処刑も、批判覚悟の忠君思想の補強策であった。

忠臣蔵は為政者の思惑通り評判となつたが、江戸の庶民は裏芝居の四谷怪談の方に惹かれていたのである。

 4日

社会不安と生活困窮から、民衆は「世直し」を願い、集団行動に走る。一揆は増加し、越訴の形から次第に実力行動を伴う強訴・打壊しとなる。

本居宣長は一揆の原因を「いずれも下の非はなくして、皆上の非より起れり」と断定した。
 5日

また、近世末期に周期的に発生した集団的伊勢参宮「おかげ参り」や維新前夜解放の幻想に酔った集団的熱狂「ええじゃないか」には、既成秩序への反抗が見られたものの、いずれも社会を本質的に変革するものとはならなかった。

近世300年は、他の時代と同様、その時代り中で大きく揺れ動いていた。文学、ひいては文化の在り様は、政治史による時代区分の枠では捉えきれないものがある。
 6日

杉田玄白江戸後期の洋学者、医学者。1733年―1817年、オランダの外科医学や漢学を学び、オランダ通詞(通訳)からオランダ語を学ぶ。

明和8年、刑場で死体解剖を見学、オランダ解剖書と一致することに驚き、翻訳を企て、4年で完成したのが「解体新書」である。
鼻は面中にありて
フルヘッヘンド
 7日 オランダ医学書「ターへル・アナトミア」の翻訳に関する杉田玄白の苦心談である。西洋医学を紹介、想像を絶する苦労の模様が語られている。 単語、一つ一つたどる訳業が、わが国の近代諸科学を移植する基礎となつた。中国・韓国にはこれが無い。
 8日 ある日、鼻の所にて「フルヘッヘンド、せし物なり」とあるに至りしに、この語分からず。これはいかなる事にてあるべきと考へ合わせしに、いかにともせん様なし。 ある日、鼻の所で、「フルヘッヘンドした物である」と書いてある箇所になつた時、このフルヘッヘンドの語が分からない。これはどんな意味が適切であるかと考え合ったが、どうにも考えつかない。
9日

その頃はウヲールデンブックといふものもなし。ややうやく長崎より良沢(前野良沢、医者)求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合わせたるに、フルヘッヘンドの訳注に「木の枝を断ち去れば、その迹フルヘッヘンドをなし、また、庭を掃除すれば、その塵地聚(ぢんどあつ)まり、フルヘッヘンドす」といふ様に読み出せり。

その頃は辞書(ウオールデンブツク)というものもない。やっと長崎から良沢が求めて帰った簡略な小さい本があったのを対照したところフルヘッヘンドの訳注に「木の枝を伐ったならば、その跡がフルヘッヘンドをなし、また、庭を掃除したら、その塵が集りフルヘッヘンドする」というように読みとれた。
10日

これはいかなる意義なるべしと、また、例のこどくこじつけ考へ合ふに、(わきま)へかねたり。

これはどんな意味だろうと、また、いつものようにこじつけて考え合うのだけど、判断がつきかねた。
11日

時に、翁思ふに、「木の枝を()りたる跡癒ゆれば(うずたか)くなり、また、掃除して塵地あつまれば、これも堆くなるなり。鼻は面中にありて、堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆しといふ事になるべし。しかれば、この語は堆しと訳しては如何」

その時、私が思うのに「木の枝を伐った跡がなおれば堆くなり、また掃除して塵が集れば、これね堆くなるのだ、鼻は顔の中にあって、盛り上がって高くなつているものだから、「フルヘッヘンド」は、(うずたか)いということであろう。それならばこの語は堆いと訳してはどうか」
12日

と言ひければ、各々これを聞きて「はなはだ尤もなり。堆しと釈さば、正当すべし」と決定せり。

と言った処、めいめいそれを聞いて「全くその通りだ。堆いと訳すなら、ぴったりあてはまるだろう」と決まった。
13日

その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。

その時の嬉しさは、何にたとえようもなく、素晴らしい宝物を手に入れた気持がした。
14日

かくの如き事にて、推して訳語を定めり。その数も次第次第に増して行くこととなり、良沢のすでに覚えいし訳語書き留めをも増補しけるなり。

このようなやり方で、おしはかって訳語を決めた。その訳語の数も次第に増えてゆくこととなり、良沢が前もって覚えていた訳語の覚え書きをも増補したのである。
15日

その中にも、シンネンなどいへる事出でしに至りては、一向に思慮の及びがたき事も多かりし。

そのなかでも、シンネンなどということが出た時には、いくら考えても見当のつかないことも多かった。
16日

「これらはまた、往々は解すべき時も出で来ぬべし。先ず符号を付け置くべし」とて、丸の内に十文字を引きて、記し置きたり。そり頃、知らざることをば轡十文字と名づけたり。(蘭東事始)

「これらはまた、ゆくゆくは理解できる時もでてくるだろう。今はまず符号をつけておくがいい」と言って、丸の中に十文字を書いて記しておいた。その頃、知らない事を轡十文字と名づけていた。
高野長英
17日


1804年―1850年、幕末の蘭学者、蘭医。長崎でシーボルトに師事、江戸で開業、渡辺崋山らと西洋事情を研究。

幕府の外国船撃退策を批判して投獄されたが脱獄。6年の潜伏生活を送り、江戸で幕吏に襲われて自殺。

花山翁
18日 ただそのうちに憐れにも悲しむべきは、花山翁(俗名、渡辺登)と篤斉にぞありける。 ただそのなかで、憐れ悲しむべきは、花山翁と篤斉のことであったのだった。
19日

翁はその生まれつき、温順沈実にして博学多才、君に事へて誠忠を致し、母に事へて孝順を尽くし、朋友に交じりて信義を重んじ、実にこれ当世の一人物なり。

翁はその天性が温順で落ち着き、真面目であり、博学多才の持ち主で、君には誠実に忠を尽くして仕え、朋友に交わるときは、信義を重んじまことにこれ当世の一大人物である。
20日

おのれ三六州を遊歴して、幾千百の人に交りしも、斯かる人物なとし思ふものから、常に尊信して、好き厳師を得たりと悦びぬ。

私は日本国中、三十六州を旅して、数千百の人と交わったが、このように優れた人物はいないと思うところから、常に尊敬と信頼をもって接し好ましい師を得たと感謝していた。
21日

好事の生まれにて、画に達し、文を能くし博く文人才子に交り、普く天下の美を探る。

花山翁は、風流を好む生まれつきで、画が上手で、文章がうまく、ひろく文人才子と交友を持ち、すべての方面で天下の美を探究すると言った人物である。
22日

ここに於いて画名益々高く、文名また遠く聞こゆ。近ころは西洋学さへ好みて、地理書を研究しければ(按ずるに、これは或る人の嫌忌を受くるところにして、この災悪の起原するところとぞ見ゆ)

そのため、画名は次第に高まり、文名もまた遠くまで聞こえている。最近は、西洋の学問までにも興味をもち、地理学の研究をしていたのでーこれがある人物から忌み嫌われた理由で、この災厄の原因もここにあると想像される、
23日

分けて交り厚く、朝夕となく往来し、何くれとなく相謀りしに、斯かる人物なれば、物事に精密にして、鹵奔の挙動なく、

私はとりわけ親しく交わり朝夕となく行き来し、何くれとなく意見交換をしたが、このような人物であるから、常に物事をゆるがせにせず、軽々しい行いもなく、
24日

官の律令を犯すべきはずなきに、今かく囚れとなりし所以は如何んぞと考うるに、近歳凶歉うち続き、人心恟々安からず、富める者は益々富み、貧しき者は愈々窮し、窮民処々に騒擾し、世間何となく騒がしかりければ、

政府の法を犯す筈がない。それなのに、今このようにとらわれの身となった原因は何なのかと考えてみると、近年飢饉が続いて、人心が不安におののき、富める者は益々富み、貧しい者はいよいよ貧しくなり、窮民があちこちで騒ぎ秩序を乱して世間が何となく騒がしかった。
25日

慷慨の心より万国の国体・政務・人情・世態なども湊洽し、「鴃舌小記」と題して編集し、

そのために花山翁は社会の不義不正に憤りの念を発し、万国の国体・政務・人情・世態などに関する記事を蘭書の中から抄出し、あるいは伝え聞いたことなども照らしてあわせて「鴃舌小記」と題して編集した。
26日

また近ころモリソンのこと、世評高かりしかば、杞憂の余り、イギリスの風俗・国情より、モリソンのことまで考究し、また最近

モリソン号渡来の件が世間の評判になっていたので、心配の余り、イギリスの風俗・国情から、モリソンのことまでも調べ、
27日

和漢古今の旧弊、当今御政務の得失までも、かれこれと議論し「慎機論」と名づけ、書きつづりしとなん。

和漢古今の対外政策の善し悪し、更に現在の政策の得失までも、あれこれと議論し「慎機論」と名づけて、書きしたためたということである。
28日

しかはあれど、二書ともに草稿に属し、そのうちわけて「慎機論」は、稿さへいまだ卒へず、われもいまだ目に触れざることなれば、みだりに人に示せしことあるまじきに、ある人の間諜、早くも「鴃舌小記」を一見せしことありて、これより讒奏せしなれば、御疑ひかかりたる身とはなりにけり。止んごとなき次第なり。(わすれがたみ)

とは言っても、二書ともに草稿にすぎず、そのうち特に「慎機論」は、草稿さえまだ完成していなかった。私もまだ見たこともないものだから、みだりに他人に見せることはあるはずもないのに、敵方のまわしものが既に「鴃舌小記」を一見したことがあり、これをもとに当局に讒言したために疑いのかかる身となつてしまったのであった。やむをえない次第というよりほかない。