日本あれやこれや 22 平成182月

 1日 岩倉使節団

明治初年、維新後の国家像研究の為の元老クラスの欧米視察旅行団である。岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、佐々木高行等である。

50人ほどの、いうならば革命政権の顕官の国家見学、19ヶ月、632日の途方も無い、近代化探索である。「米欧回覧実記」であるが昨年、慶応大学で読みやすいものが発刊された。

 2日 岩倉使節団2.

この使節団は、海外でも講演を行い、色々な感想や意見も聞いている。この日本の国のかたちと針路を決めた男たちである。

その男たちは、志の高さ、凛呼たる倫理観、深い教養と礼節、そして歴史的大変革の時に敢然と対処したその類い稀なる勇気に欧米諸国の国民は感動した。
 3日 人物の凄み

維新の回天は命懸けであり白刃の上を越えた人物ならではである。鉄の意志がある、政治家として冷徹、現代の政治家のように「やわ」ではない。

ただ功罪の振幅は大きい、好き嫌いも激しい、現代では不人気であろう。政治家はメディアと、政治の何たるかの分からぬ庶民にはやり難い時代ではある。
 4日

見っとも無い日本人

当選だけの無定見議員、自己保身だけの無責任な官僚、数字だけで卑の経営者、節操もない軽薄才子のマスコミ、礼儀知らずの若者、軟弱な男たち、ノー天気な破廉恥な女たち。日本人はどうなってしまったのか。 国豊かにして卑しく、衣食足りて品性下劣、なぜこのような国となりしか。憤懣やる方ないのである。
 5日 本当の日本人・堂々たる日本人

「西洋の原理」に嵌りすぎた、日本人の本来のものを失い過ぎたから、上述のような日本人が増えたのである。

それは明治以来の西洋化の度が過ぎた上に、敗戦により更にアメリカ化の度が過ぎて、日本人自らを喪失した。
 6日 明治維新の実態 全国にいた260人の大名の地位を奪った。サムライ40万人の身分を剥奪したのが明治維新である。無論、大名には年金、武士には当座の家禄は与えられた。 新政府の余りの大胆さ、思い切りのよさに、武士階級は幻惑し圧倒されてしまった。実質の維新はここなのである。
 7日 再び岩倉使節団

特命全権大使右大臣の岩倉具視は47才、参議の木戸孝允は39才、大蔵卿の大久保利通は42才工部大輔の伊藤博文31才である。

岩倉具視は公家であるが、「知恵あり、才気あり、弁才あり、またすこぶる立派な文才がある」と言われた。みんな一級の人材である、今日のヘナチョコ政治家をみると実にイヤになる。
 8日 大久保利通 司馬遼太郎によると「才能、気力、器量、そして無私と奉仕の精神に於いて、同時代の抜きん出た存在」であった。幾多の危機を粘り強く闘い抜き維新革命をやり遂げた中心人物である。 「沈着・剛毅」「寡黙」「自己と国家を同一化し他に雑念ない政治家」と司馬良太郎は言う。
 9日 桂小五郎 木戸孝允のこと、幕末から坂本竜馬と命懸けで革命期を生き抜いた先見性ある聡明な人物。長州人脈の総帥的地位。
師の松蔭の次の言葉に啓蒙されたのか。
吉田松陰
「鎖国の説は一時の無事であるが、宴安姑息の徒が喜ぶところのもので、始終遠大の大計ではない。一国に居ついたままなのと天下に跋渉するのとでは、人の知恵労逸は狭い日本の中でもかけ離れている。まして世界に於いておや、堂々大艦を作り、公卿から列侯以下に到るまで万国を航海し、知見を聞き富国強兵の大策を立てるべしだ」
10日 五人の少女が同行 岩倉使節団に60人の留学生が同行した。民権思想のリーダーになる中江兆民、団琢磨、医療界の先駆者・長与専斉、平田東助、黒田長知等である。 少女とは、吉益阿亮16才、上田悌16才、山川捨松12才、永井繁9才、最年少の津田梅8才、津田塾創始者である。何れも当時の顕官、著名人の女子である。
11日 使節団の三つの目的 @新生天皇国家誕生のため各国元首への挨拶。
A幕末不平等条約改正予備交渉。
B西洋列強の文明探索。
治外法権を認めていたのでその是正が急務、岩倉具視は「わが国の領地内に外国の軍隊が駐留し、裁判さえ外国人によって行われるというのは、わが国の恥辱たること甚だしい」と。現在の日本もそうなのだ、日本人よ、恥辱と思わぬか。
12日 治外法権

日本がこの時期に条約改正のための提言をしているのは独立に関して驚くべき鋭敏であったかという事。現代日本人の鈍感。

中国(清国)では国家的に治外法権の非を自覚したのは、それから50年後だといわれる。
13日 関税自主権 伊藤博文が指摘しその不利を痛論した。当時の日本のように充分開化していない国は、保護関税であるべきで、さもなくば文明の時期を失するとした。 当時の日本は関税さえ自ら決められなかった。日本の産業は無防備のまま蚕食され収奪されたのである。力不足でとても現段階では無理と判断し急速な西洋化を図り。明治45年にこの不平等条約を改正実現したのである。
14日 万雷の拍手の演説 伊藤博文が英語で演説したのはサンフランシスコの歓迎レセプション、時は明治41871年。「欧米方式で既に陸海軍、学校、教育制度で滔々と西欧文明の流れがあるとした上で・・」わが国の進歩は物質文明だけではない、国民の精神進歩は著しい、数百年来の封建制度は、一個 の弾丸も放たれず、一年のうちに撤廃された。このような大改革を世界の歴史に於いて、いずれの国が戦争なくして為し遂げたでありましようか。この驚くべき成果は、わが政府と国民との一致協力により成就されたものであり、この一事を見ても、わが国の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものであることがお分かりでしょう・」
15日 万雷の拍手の演説2. わが国最大の目的は、文明のあらゆる側面について勉強することである。貴国は科学技術の採用により、祖先が数年要したことを数日間で為し遂げることが出来たでありましょう。わが国も寸暇を惜しまず、文明の知識 を取り入れ、急速に発展せんことを切望するものである。わが国旗にある赤いマルは、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、まさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文化の中原に向けて躍進するしるしであります。
16日 ビスマルクの直言 ビスマルクは、明治初期の頃の20の領邦国家ドイツを統一した宰相である。岩倉使節団の晩餐会で話した。 「当今、世界はみな親睦礼儀をもつて交わっているように見えるが、それは全く表面的なことで、内面では強弱相凌ぎ、大が小を侮るというのが実情である」万国法などは表向きで、利害が反していると結局は力がものをいうのが国際社会の実態であると直言した。今日でも少しも変わらない。
17日 久米邦武随行員

小国スイスの感想
外国侵入の防御は、国中みな奮うて死力を尽くすこと、火を防ぐが如し、家々にみな兵を講じ、一銃一戎衣(戦時中の衣類)を尾ざるなし。 ・・隣国より来たり侵すときは民みな兵となり・婦人は軍糧を弁し、創傷を扶け、人々死に至るも,他よりその権利を屈せらるるを恥ず、故にその国小なりといえども、大国の間に介し、強兵の誉れ高く、他国よりあえて之を屈するなし。
18日 アデン港の感想 アラビア半島の南端の良港、戦略的重要港、ここは欧米列強の餌食の歴史。最初はポルトガル次にオランダ、次に英国が占有した。アジアへの拠点である。 久米は、弱肉強食を地で行くような欧州人の仕業を分析し、そこから英国人が教訓を引き出して間接統治の法を編み出し成功したことを見抜いた。
19日 19ヶ月ぶりの日本の山と海 長崎近海に達した船、久米邦武は記す「港口大小の島嶼、みな秀麗なる山にてなり、遠近の峰々、みな峻抜なり。船走れば、島嶼は流るる如く、転瞬の間に種々の変化をなす。真に瓊浦(けいほ)の美称に負かず。 シンガポール、香港島嶼の景も、はるかに及ぶことあたわず。世界にて屈指の勝景地なり。」芸備海峡にさしかかり、朝五時、アメリカ人の船長は「世界の絶景ですから起き出てご覧あれ!」と船客に呼びかけた。
20日 欧米の軍備 久米邦武は、各国政府がしきりに軍備を重視し誇示するので、こう書いた。「これ政府の務めとすることは、ほとんど国威をはり、軍備を振るうを主要とせるものの如し。いわんや、欧陸の列国に至れば、全国の丁壮(壮年男子)を蒐集して兵となし、国中に屯営羅布す。 これを聞く米国の紳士、欧陸に遊び、各国無用の民膏を吸い、有為の民力を廃し、凶器を執り、枴然羅立せしむるを笑えりと、それ兵は凶器なり、戦いは危事なり、殺伐を嗜み、生命を軽んずるは、野蛮の野蛮たるところにて、これをサヴェージといい、これをバルバリーといい、文明の君子深く憎む所なり。
21日 久米邦武の感想 西洋人は有形の理学を好む。東洋人は無形の理学に篤くす。両洋国民の貧富を異にしたるは、もっともこの結集より生ずるを覚うなり。 東洋の西洋に及ばざるは、才の劣るにあらず、知の鈍きにあらず、ただ済生の道に用意薄く、高尚の空理に日を送るによる。東洋の民、その手技によりて製作する産物は、高尚の風韻あり、警抜の経験を存し、西洋に珍重せらる、これ才優なり。
22日 個人主義・家族主義 佐々木高行は「個人主義が行き過ぎると、人々随意わがままになり、人の努めはなくなるべし」と警告。更に言う、「各人をして働き次第、衣食住も勝手となり、人物次第、高位高官にも上る道立ちたる上にて、親子の間にもよくよく孝を立て、親は子をして学問等を十分にいたさせ、独立のできるように力を尽くし、何もかも服従せずとも、 とかく立派なる人となりて独立し、父母の老いたるを厚く養うのみをもって孝道となると心得、父母も我が子を教育したるを本願に、恩着せがましく思わず、若くより働きて、老いたる時は自分だけの暮らし方をつけ、子弟の厄介にならずと申すところの教法を建て、その及ばぬところは法律にて補い候ようのことにいたれば、国はいよいよ興らざることを得ざるべし。
23日 死囚の像 新約聖書なるもの、我輩にてこれを()みすれば、一部荒唐の談なるのみ。天より声を発し、死囚(キリストのこと)また生く(復活する)、もって 瘋癲(ふうてん)のたわ言となすも可なり。と辛辣である。儒教的教養の理論家の久米には、処女懐胎、復活、原罪など理解不能であった。
24日 十字架 実感として違和感を抱かせるのが十字架、教会の十字架にキリストが磔になり、釘で刺されて血を流している。これを暗い教会で幾度も見せられて耐え難いものであったようだ。 欧米の各都、至る所に紅血淋漓(りんり)(赤い血がぽたぽたち滴る)として、死囚十字架より下がるを図絵し、堂壁屋隅に揚ぐ。人をして墓地を過ぎ、刑場に宿する思いをなさしむ、これにて奇怪ならずんば、何をもって奇怪とせん。と言い放った。
25日 久米邦武の東西文明観察1. 西洋では「快美の生活を極むるにあり」とするが東洋では「足るを知る」の精神である程度食べられればよいとする。だから必要以上に余りに物質的、量的なものは求めないで精神的なもの、美的、詩的なものを追求する。西洋は「しからず、財産を豊饒にし、努めて快楽の生活を なすを目的とする」、つまり快楽をとめどなく追求する。その結果、当然社会の貧富の差に現れる。久米は「白人種は情欲の念盛んに宗教に熱中し、自ら制御する力乏し、約言すれば欲深き人種なり」とした。そして「黄種(黄色人種)は情欲の念薄く、清浄を享受するに強し」とした。
26日 久米邦武の東西文明観察2.

故に「政治の主義も東西では相反し、西洋では保護の政治をなし、東洋は道徳の政治をなす」となり「義か、利か」との対比になるとした。アメリカ各地の歓迎は実業家が知事や市長の上にあるようであった見ていた。サムライ的気分からすれば異様な風景であったろう。ニューヨークで久米は「共和国は自由の弊害多し、大人の自由を全し、一視同仁の規模を開けるは、羨むに足るが如くなれど、貧寒小民の自由は放癖にして忌憚する所なし、上下に検束を欠くにより風俗自ら不良なり」と感想している。

つまりわきまえた人の自由は結構だが、そうでない連中の自由は、我が侭放題、やりたい放題でもどうしようもない、その上に上下のけぢめがないから風俗も不良だと観察している。少しく人通り少なき街に至れば、窃盗俳諧し、前より帽を圧し、背中より懐を探りて逃れさる。・・寂しい所に行くと、短銃を携え毒薬を懐にして、行旅を悩ますの賊あり。鉄道、汽車の上には博徒、拐児、各車を回りて田舎漢を騙す。木戸孝允の言「貧民靴というより悪漢の巣で言語に絶する。世の中が浅ましくなつた。日本は全般的に貧しいとはいえ、貧富の差にそのような激しさはなく、治安もよく、盗難の心配もないような温和な社会だ」
27日

「長期間に亘り日本人の特徴であった外国人嫌いは、心の狭い愚かさからではなく、充分な理由があって起こったと考えられる。日本との交流に於いてポルトガルはオランダより先行していた。ポルトガルがスペインの属国となり、スペインが諸国に君臨した時、そのゴールドで溢れたいた自分達の島を、この攻

撃的で貪欲な強国が気に入るのではないかという正当な不安を抱いた。オランダ人がどうにんして得た日本政府からの好意は、オランダ人のポルトガルに対する公然の敵愾心が大いに影響しているように思える。更に国民の関心が似ていたことも。ある程度日本人のオランダ人に対する好意を助長したと考えざるを得ない。
28日

両国民ともに忍耐強い勤勉さを備え、海洋業を好み、商売熱心、園芸好きという点に於いて共通している。オランダ人のチューリップは日本人の椿である。日本の職人は、驚くほど腕がよく、並外れた模倣力を持っているので、多分ヨーロッパやアメリカの織物は、どのようなものでも、日本で流行すれば、何ヶ月もしないうちに、より安価で生産されるだろう・というのは日本は人口も多く労働力も豊富である。中国人は人間の格が低すぎて、占めている地位相応の威厳を示すことのできない人物を外国に派遣したが、日本人はこれと異なり、立派な経歴を持ち、ごく最近まで開港場の一つで重要な職務についていた人物を選んだ。

(森有礼のワシントン駐在か)。中国の使節団が、有益な結果を得るのに我々の眼前で完全に失敗しているので、あまり楽天的な期待を持つことは慎まなければならないだろう、然し、この日本と中国の二つの国民の相違は、日本人の進歩への欲求を信じるほうが正しい。
いずれにしろ、その価値と能力があらゆる知的な外国人の興味と賞賛をかきたて、その国があらゆる視点から見て、この世界の中でも好奇心をそそる国民が他の人類との親しい交わりに仲間入りするのは喜ぶべきことであり、19世紀後半の歴史上記憶されるべきことであるに違いない。一年後の話だが、上述のように日本の世界史的意義を述べた。更に、私はいたるところを旅したが、失望しないで済んだのは日本だけだ、と飽きるほど旅した人が言っていると報道していた。