執着と人間
生死一如―死んでもともと 捨身即光明「喝!」
平成18年.3月
1日 | 道元禅師 | 鎌倉時代曹洞宗の開祖、中国での五年の修行を終えて帰国、禅道場開きの言葉。 |
「空手にして郷に還る」、何も持たないで戻ってきた。自由自在に生き抜ける人間になって帰って来たの意。 |
2日 | 老子の言葉 |
「天下を取ろうとして事を起こした者に、天下が取れたためしはない」 |
取ろう、奪おうという意識が先に立つと失敗する。 |
3日 |
私達は、何にでも手を出したがる。掴みたがる。然し、掴んだらそれでお終いになる。宝物にせよ、藁屑にせよ、手に握ったらそれきり。 |
手に物をつかんでいると、自由に手を働かすことはできない。だから、いつも空手がいい、空手であれば、必要に応じて、なんでも掴める。 |
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4日 |
もつと金が欲しい、地位が欲しい、いい家に住みたい、あの人にもっと労わって欲しいいつも何か取ろうともがく。 |
掴んだら離すまいとする。掴んだつもりで、手を開かないから、結局は囚われの身になる。作為する程何も得られない。 |
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5日 |
物でも人でも求めれば逃げる。友でも、金でも、得ようとして小ざかしい手立てをするとまずくなる。 |
寧ろ実直な、淡白なほうが成功しやすい。空手ということの深い意味はともかく、物・金・地位でも退けて平気でいる程の度胸があると人生は面白くなる。 |
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6日 | 無用の用 |
有用だと思っていることが有用でなく、無用だと思っていることが本質的には重要な役割を果たすことが多い。荘子は、車の例で「無用の用」を | 説明、車輪があるから車は走る、心棒と車輪の軸受けが、きっかり固定していたら、車輪は回らない。軸受けと心棒の間に、空のところ、無があるから円滑に回転すると。 |
7日 | 空はエンプティではない |
米国でも禅が高まっている。空は文字だけでのエンプティとかナッシングでない。箱の中が空っぽの意味ではない。 | むしろ満ち満ちて、何もかも満ち足りている状態。しかも、ひとつにもそれにコダワリがない、そこに無尽蔵の自由自在の働きがある。それが空であり無である。 |
8日 | 美醜に対する執着1. |
維摩経に天女が花びらを撒く、空からひらひらと、地上の人達の上に舞い落ちた。修行僧に落ちた花びらは体にへばりついた。醜くく萎んだ。払い除けられない。観音菩薩、 | 地蔵菩薩に落ちた花びらは、さらさらと体に触れて地に落ちても麗しい。なぜか、菩薩も地蔵にも執着がない、妄執がない。執着のある僧は花を素直に見られない。詩的物語がある。 |
9日 | 美醜に対する執着2. |
自分の美醜に執着すると、どうしようもなく醜くなる。 |
醜かったら、どうしたというのか、くらいの度胸とプライドで醜さに対する執着を一擲する、気にすると更に醜くくなる。 |
10日 | 無量寿 |
万物は流転、ひとつとしてとどまるものはない。生き行くものの生命は、個々の存在を | 超えて永遠に受け継がれて行く。この計り知れない生命を表現して、仏教では「無量寿」と言う。 |
11日 | 十界一心 |
心の正体を見破った言葉のことである。インドで何千年も前に考えられた分類。 |
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・佛である。 |
12日 |
「地獄」は激しい苦しみ合いをしている鬼の世界、闘争の世界。「餓鬼」は、物欲のシンボル、欲望を満たせば愈々飽き足らなく、いつも飢え渇えているものの世界。「畜生」は、情欲の奴隷。「修 |
羅」は、闘争の世界、何やかと対立抗争して相手をやっつけなければ承知できないものが住む。この四つは人間以下の生き物の世界。 |
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13日 | 十の煩悩 |
人間の迷い、大きく分類して、知性的な「見惑」と情緒的な「修惑」がある。 |
見惑は知性的な煩悩、道理が分からない、どう処置するか決めかねる、知的に壁に突き当たる苦悩。 |
14日 |
見惑を更に分類して、「身見」「辺見」「邪見」「見取見」「戒禁取見」とある。身見は自分の身体についての誤った見解。辺見とは、片寄った |
見解、邪見とは、因果の理を弁えないこと。見取見は、自分の見解にあくまで固執して離れないこと。自分の持つ戒律・規律のみ正しいとする了見。 |
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15日 |
修惑 |
修枠も分類すると五つとなる。「貪」「瞋」「痴」「慢」「疑」である。「貪」は、むさ | ぼり。「瞋」は怒ること。「痴」は愚痴。「慢」は、うぬぼれ。「疑」は、信じられないこと。 |
16日 | 釈尊 |
「過去を追うことなかれ。未来を追うことなかれ。過去は過ぎ去りにけり、未来はいまだ来らざればなり。ただ現在 | の法を見よ」と言われた釈尊。ただ現在をよく見定めなさい。現在に実着である人には、その延長として偉大なる未来が開けている。 |
17日 | 如実を見る |
瞬間の充実、これを「如実を見る」と言う。現在のありのままの姿を見ること。 |
ただ人間が、素直で無心である時にのみ、如実の生活が出来る。 |
18日 | 業とはなにか |
因・縁・果、この関係を現実に働かせているものは「業」であり「業力」だとも言う。 | 「業」は体によって作られる「身業」、言葉により作られる「語業」、心により作られる「意業」の三つに分けられる。 |
19日 | 不即不離 |
「即かず、離れず」、密着しすぎず、別れすぎず、という関係。これは知恵の光に澄み清められたものが得られる。 | 人間関係の理想が「不即不離」すなわち、「つかずはなれず」である。 |
20日 | 五眼 |
人間は五つの目玉を持たねばならぬという。 第一は「肉眼」、常識的認識力。 第二は「天眼」科学的認識力 |
第三は「慧眼」、哲学的認識力。 第四は、「法眼」、道義的・芸術的認識力。 第五は、「仏眼」、宗教的認識力。 |
21日 | 八風 |
「利(利欲)」の風「衰(衰亡・損失)の風、「毀(毀損・悪口)の風。「誉(栄誉・賛嘆)の風、「称(礼賛・称揚)の風 | 「苦(苦しみ・悩み)の風、「楽(愉快)の風。世の中にはこの風がいつも吹いている。どんな暴風雨でも泰然自若とできるように。 |
22日 | 仏教の「生活要綱」 |
第一は「布施」、誠心誠意からのサービス、惜しまない欲を育てる。 第二は「愛語」、愛情に満ちた言葉をかけなければいけない。 |
第三は、「利行」、得とか損とか、上手とか下手とか区別することの反省を促す。 第四は「同事」、行いを共にすること。 |
23日 | 涅槃ねはん寂静じゃくじょう |
諸行は無常だと見定める。それから諸法は無我であると悟りを開く。日々、無常を観ずべしである。 |
そして涅槃寂静ということを体験する。これが「仏教の三法因」言われる三つの旗印である。 |
24日 | 無常を観ずる |
その時、第一に「吾我の心」が生じない。我見・我慢・我利・我欲・我執のこと。この吾我の心で人生は真っ暗となり闘争、殺戮の巷と化す。 |
第二に、「名利の念」が起こらぬ。評判気にしたり、儲けずくで動かなくなる。第三は、「時光の甚だ速やかなることを恐怖す」。 第四は、「生命の短さ」を知る。 |
25日 | 諸法無我 |
釈尊、無我の立場におれば、自我などは人間の幻想によるものだと分かる。すべての存在は様々な条件の調和により成立したものと分かる。常に同一で自由自在の自我など有り得ない。無いものを有ると思うのは錯覚で、ここからあらゆる我執が生れると断言された。 |
自我を、常一主宰者として考えるから、生甲斐を感じ楽しいし利潤追求・名誉争奪もするるが、これがいかに世の中を住み難くしているか。 |
26日 | 放下 |
釈尊は、常一主宰の見解を捨てよ、それに対する執着を放下せよ、「無我」になれと言われた。 |
「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうというは自己を忘るなり」。 |
27日 | 本来無一物 |
「自我を放下し、自己を忘却することが、真の自由人を成りたたせる」、道元禅師の言葉である。 |
禅の悟りの基本は「本来無一物」、諸行無常、諸法無我の真義が「本来無一物」である。 |
28日 | 遊戯三昧 |
禅の究極の極意である。 |
生活にまつわる様々な屈託や拘泥を離れて、いかに自由な天地を楽しむかということ。遊戯三昧になる為には仕事三昧をしなくてはなるまい。 |
29日 | 人間生活の究極 |
破顔一笑、粘華瞬目、これは釈尊のお顔、うるわしい、眸が優しい、なごやかである。美しい花を献上されて、釈尊の眸がまばたいた様子。 |
偉大なる親和、愉悦、平安、清寂、極みなき感動と感謝を覚え、双の頬が和ごむ。それが、粘華瞬目であろうか。 |
30日 | 放下着 |
「投げ出してしまう」ことである。禅の極意と言われる。人間がその真義に徹して生きる要諦である。 |
虎に遇う、人間にでも、仕事にでも、或いは老衰、病気とか、死に当面した時でも、当面したものの前に身を投げ出してしまう。自己を凡てそこに放下してしまう。摩訶不思議の力により、まさに在るべき道が自ずから開けて万事が決着する。全身全霊を投げ出してしまう、いいも悪いもない。 |
31日 | 極楽浄土 |
正真正銘の極楽浄土は、私たちのこの世の生活の外にあるのではなく、自分の日々の生活の中にある。要するに、それを悟り得るか、得ないかにかかっている。 |
心が清くなると、身も清くなる、態度も清くなる、環境も清くなる。尽中方世界が清くなる。結局は自分自身の問題ということになる。 |