人間学事典「十八史略」D

平成17年6月

 1日

願わくば後身世世、また天王の家に生まるるなからんことを。

中国は、政権交代の節目には悲劇が繰り返された、南北朝の順帝は「せめて命だけを」と懇願したが、「あなたのご先祖―劉裕―も東晋を滅ぼした時も同じことをなさったのです」と言われた時の言葉。

 2日

願わくば臣をして良臣たらしめよ。臣をして忠臣たらしむることなかれ。

良臣と忠臣の違いは、君臣が力を併せて天下を治め、共に栄えた、これを歴史の上で良臣と言われている。君主の過ちを諌めたために誅殺され国も滅んだ、その臣は忠臣と言われている。唐の太宗と名臣との会話。

 3日

創業と守成といずれか難き。

唐の二代目太宗の言葉、創業期には武器で政敵を倒し、ただの二代目ではない。守成の人でもある。臣下に質問した、一人は創業と言い、一人は守成と言う。太宗は、両人とも正しいが創業は終わったのだから協力して取り組もうと結んだのである。

 4日

人主はただ一心にして、これを攻める者衆―おおーし。

名君と言われた太宗の嘆きである。名君でも、人格高潔でおっとりしていいというわけでもない。油断すればつけこまれる。臣下を信頼し且つ疑う。そのジレンマの言葉である。

 5日

君主の心を得ようとして、勇気を誇示する者、弁舌でくる者、へつらう者、騙そうとする者、君主の好みを利用しようとする者、こうした連中が四方八方から売り込みをしてくる。君主がうっかりして少しでもつけ込む隙を与えたら、それでお終いなのだ。難しいのはこの点である。

昨日の太宗の言葉の続きである。トップたる道は容易ではない。

 6日

人生は白駒―はっくーの隙―げきーを過ぐるがごとし。

人生は、駿馬が走るのを板戸の隙間から見ているように、あっと言う間に過ぎてしまうものだ。楽しく暮らすのが一番ではないか。これは元同僚将軍に対する宋の太祖の警戒であり、肩叩きの殺し文句でもあった。

 7日

われ、一網にて打ち尽くせり。(一網打尽)

一網打尽とは悪人を一挙に捕えてしまうこと。

 8日

豺狼−さいろうー、道に当たる。いずくんぞ狐狸を問わん。

山犬やオオカミどもが中央の要路でのさばっているのを見過ごして、地方のキツネやタヌキを調べたところで、どうなるというのだ。巨悪に手をつけず、小者ばかり捕えて何になるのか、いつに変わらぬ庶民感情である。

 9日 男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし。

男子たる者、後世まで誉め讃えられるようなことが出来ないのなら、いっそのこと、末代までも悪名が残るようなことをしてやろう。

10日 財物、あに常に守るべけんや。 財産は、必ずしも、いつも守るべきものとは限らない。家産を守ることに汲々としていた北斉王朝の始祖、高歓という人物の述懐である。
11日 飢えたる者は食をなしやすく、渇せる者は飲をなしやすし。

腹が減ったら何でもうまい、喉が渇けば何を飲んでもうまい。乱世の後のほうが政治は治めやすいの意がある。

12日 銅をもって鏡となさば、衣冠を正すべし。古をもって鏡となさば、興替を見るべし。人をもつて鏡となさば、得失を知るべし。 銅鏡はそれにより衣服の乱れをなおすことが出来る。歴史を鏡とすれば、興亡の原因を知ることができる。人を鏡とすれば、自分の行動の当否を知ることができる。
13日 人は言う、六郎、蓮花に似たり。吾は謂−おもーえらく、蓮花、六郎に似たるのみ。

世間は六郎様は蓮の花に似ているというが、私に言わせればむ、蓮の花が六郎様に似ているのでございます。護摩すりの見本の言葉、唐の則天武后、寵愛した二人の美少年の一方を誉めた言葉。

14日 われ痩せたりといえども、天下肥えたり。 唐の玄宗皇帝は、楊貴妃との乱れた生活で後半挫折したが、前半は賢臣・韓休の意見を痩せる程聞き入れたがその時の言葉である
15日 刑賞は天下の刑賞なり。いずくんぞ私の喜怒をもってこれを専らにせん。 賞罰は公的なものである、君主の感情で左右するようなことがあってはならぬ。
16日

将来必ず利をもって進む者あらん。すなわちすでに重しとなす。

将来、必ず出世のために税収の増大を図る者が出てくるであろう。税金とはそうしたものだ、だから、之でも決して軽くはないのだ。
17日 死せる諸葛(孔明)、生ける仲達を走らす。 孔明と仲達とのかけひき蜀軍は孔明の病床にあるを伏せ、撤退を始めたが魏軍の追撃を逆襲した。撤退完了後に孔明の死を公表した。
18日 われまさに力を中原にいたさんとす。故に労を習うのみ。 東晋の名将、陶侃―とうかんー、一時左遷されていた時、毎朝瓦百枚を屋外に出しては屋内に運ぶ。「大禹は聖人なれども寸陰を惜しめり。衆人は分陰を惜しむべし」の名言を残した。
19日 人、尭、舜にあらず、なんぞ毎事善を尽くすを得ん 王導は東晋の宰相、部下で反骨の王述が同僚のお追従に我慢ならず水をさした言葉。王述の苦言に感謝した王導であった。
20日 感安、兄の子玄をもって詔に応ず。と超、嘆じて曰く、「安の明、よく衆に違いて親を挙ぐ」 自分の縁者は重用しないのが私情を捨てた人事。だが、敢えて活用推薦し秦軍を撃退し大任を果たした。
21日 われ命を天に受け、力をつくして万民を労−ねぎらーう。生は寄なり、死は帰なり。

夏王朝の禹は黄河の治水で大きい功績がある。全土を巡幸し揚子江を渡る時、突然黄色の竜が現れ背で船を押し上げた。その時のの言葉。「私は天命を受けて、天下万民の為に全力を尽くした、悔いは無い、どのみち、生きているのは旅の仮住まいであり、死は天なる郷里に帰ることなのだ」

22日 一沐に三たび髪を握り、一飯に三たび哺を吐き、起ちてもって士を待つも、なお天下の賢人を失わんことを恐る。 指導者は決して人を会うのを避けてはならぬの意。「人が訪ねてくれば、髪を洗っていれば何度でも髪を握って絞り,食事中なら何度でも口中のものを吐きだして、その都度直ちに会っている。それでも人材を失っていないかと心配でならない。
23日 久しく尊名を受くるは不祥なり。 越王勾践が宿敵呉を滅ぼしたのは、重臣范蠡のお蔭。勾践が覇者となった、「越王は苦労は人に分けるが、楽しみは人に分けない」と将軍を辞任した。「栄達が長く続くのは禍のもと」として産業に従事財産を築いても分与した。
24日 晩にして易を喜−このーみ、彖・象・繋辞・説卦・文言を序す。易を読んで、韋編三たび絶つ 本がぼろぼろになるまで繰り返し読むことの「韋編三たび絶つ」または「韋編三絶」の出所。孔子の言葉である。
25日 君子は人を阨に困しめず。

かけないでいい情けを相手にかけ、酷い目にあうことを「宋襄の仁」という。宋の襄王、楚との戦いの時、軍監が「敵ガ渡りきらない間に攻撃を勧めた」襄王は「君子は人の困難につけこまない」として動かず参敗した。

26日 われを生む者は父母、われを知る者は鮑子なり。 心から理解しあっている交友を「管鮑(かんぽう)の交わり」という。管仲は中国古代史の立役者、斉の桓公を諸侯の盟主にした人物。管鮑の幼友達が鮑叔牙である。同じく桓公に仕えたが、管仲は若い時も桓公と争い処刑されかかった。鮑叔牙が桓公を説いて助命したことがあった。「衣食足りて礼節を知る」は管仲の言葉。
27日 ()これを聞き、肉袒(にくたん)して(けい)を負い、門に(いたり)て罪を謝し、ついに刎頚(ふんけい)の交わりをなす。

「刎頚の交わり」、生死を共にし、頸を刎ねられても変わることのない交友関係。廉頬将軍は蘭相如が使者として秦に出向き秦王と渡り合い談合を成立し帰国後、上位になると顔を合わせなかった。強大な秦に対抗するのに我々二人が争ったらどおなるかと、蘭は自らを罪人として、肌脱ぎ姿で棘の鞭を背負い、廉頬将軍の家を訪ね謝罪した」

28日 蘭相如、壁を奉じて往かんと願う。「城入らずんば臣請う、壁を完うして帰らん」 完全無欠の「完璧」の出所。重臣の食客の蘭が志願して使者となり壁を奉じて秦の都に行く。「壁」とは古代中国で珍重された宝玉石、これを持参して秦王に出したが交換領土の件は知らぬまま黙っている。蘭は壁に傷があると言い取り返し威嚇して談合成立
29日 客によく狗盗(くとう)をなす者あり。秦の蔵中に入り、(きゅう)を取りてもって姫に献ず。姫ために言いて(ゆる)さるるを得たり。・・客によく鶏鳴をなす者あり。鶏ことごとく鳴く。ついに伝を発す。

「鶏鳴狗盗」とは、鶏の鳴きまねしかできない者や、犬のようにして盗みを働く者のこと」こんな連中でも役に立つことがあるという話。鶏鳴で関所の門番が扉を開け無事に国境を越えた。

30日 伍挙曰く、「鳥あり、(おか)に在り。三年とばず鳴かず。これ何の鳥ぞや。」王曰く「三年飛ばずとも、飛べば天を衝かんとす。三年鳴かずとも、鳴けば人を驚かさんとす。」

「鳴かず飛ばす」の出所。楚王の荘は、即位後も日夜酒宴ばかり、諌める者は死刑にすると宣言。三年後、伍挙が王に言った言葉である。王は依然として酒宴の日々。今度は、蘇従が死刑覚悟で諌めた。王は翌日から、伍挙と蘇従を重用して刷新に乗りだし天下の覇者となる。