安岡正篤先生「易と人生哲学」その2

平成19101日例会 

四柱推命 @

いろいろ運命観がありますが、その一つに四柱推命学というものがあります。これは民間の易に基づく人間学の中でも最も確かと申しますか、内容のある学問です。本当の名を「命理」と謂い、専門家は四柱推命学を「命理学」と言っております。運命に関する真理の学問であります。

なぜ四柱というかと申しますと、人間は、何年何月何日何時に生まれる、大きく分けるとこの四つであります。これを四柱と言い、時間まで分かりますと薄気味悪いほど当たります。これも絶対的なものではありません。というのは第一に人の生年月日というものは案外当てにならぬものが多い。 

四柱推命 A

神経質な親になると、夜生まれた子供は運が悪い、縁起が悪いというので、夜遅く生まれると翌朝に届ける。あるいは、悪い日に生まれると縁起が悪いと、翌日生まれた子供を前日の届ける。

例えば天長節に生まれたとか、元旦に生まれたと届け出ます。大晦日に生まれた子供を届ける親は滅多にありません。 

四柱推命 B

この四つの柱、即ち、生年、生月、生日、生時の真干支を並べ、生日の干支が一番本人の運命を現しておりますから、これを中心に、生月の干支は父母兄弟つまり家族をあらわし、年は先祖あるいは祖父母、そして時間は子孫をあらわすというように決められております。

―また夫婦で申しますと干は夫、支は配偶者を現します。そこでたまたま組み合わせがよくないと、例外は別として、一般的に結婚がうまくいかなかったり破れたりすることが多い。それでは、これをどうすれば脱却できるか、或いは逆に改正できるかということ等、この命理学には親切に書いてあります。   

四柱推命 C

この本人を現す日の問題をいつの間にか、年に変えてしまつたことが民間の大きな錯誤であり、非常な弊害であります。例えば、日の干支は60日に一度還ってきますから一年に六乃至七日です。ところが年の干支は365日分でありますから、丙午の年に生まれた人は大変な数に上ります。当然丙午の日の生まれはごく少数になるわけで、その上干支の干は夫であり、支が妻でありますから、丙午の生まれなんていうのは縁談に何の支障もありません。

これなど正しく教えてやりますと、夫婦、或いは結婚に幸福をもたらす為、大変功徳があります。これは易学に基づく応用の方法で、そのほかの九星とか何とかいうものは沢山ありますが、真の学問的価値は乏しい。強いて言うなら、若干統計的研究、その材料が豊富であり、或いは久しきにわたっておればおる程意義がありますが、民間に残っておるのは殆ど採るに足りません。 

易の真の意義と価値

そこで易を学べば学ぶほど、自分で自分の存在、自分の生活をつくつていく一番ダイナミックな原理、法則、力になるというところに易学の意義と価値があるので、この点をしっかりと理解し、会得しておくということが易を学ぶ者の先ず第一の肝腎な問題であります。肝腎という言葉は好い言葉で、肝臓と腎臓であります。肝臓は動力機関であり、また大切な生産機関でもあります。 

易の真の意義と価値2

腎臓はまた浄化機関であります。そこで易を学ぶ肝腎の問題は、限りなき創造、変化の学問であるという理解が必要であります。先にお話を致しましたが、動物等は自然の法則に従うのでありますが、人間は意識、精神というものが与えられておりますから、この造化の原理、原則に従って、自分の存在、自分の生活、自分の仕事というものを自覚創造していく、これが一番大切な真義であります。 

化成

だから易というものは、宿命を探求するものでなく、自分で自分の運命を文字通り創開していく、化成していくーこれも易の言葉であります。三菱化成という会社がありますが、この会社をつくった初代が三菱―岩崎家の方で、非常な易の愛好者であったそうです。

この人が易経の中にある「化して成す」という言葉を愛しまして、自分の会社に三菱化成という社名を選んだということであります。これが一般に「化学合成」と解釈しておるようですが、誤りであります。これは易経の「()」の()の中にある言葉でありまして、そこからとったそうであります。 

易学の真義

私達の生活、事業、思想、学問等を固定させずに限りなく化成していくというのが易学であります。そこで、これを学べば学ぶほど、自分で自分を維新、日新の生活、活動を創造していくのだということを十分に理解しておく必要があります。

これを忘れて、前進しますと、果てしのない迷路に入りこんで、或いは動きのとれない結果に到達してしまう。このことをよく皆さまの頭にしっかり入れておいて頂きたいと思います。そうしますと、易学の興味というものは実に限りないものであります。おそらく、あらゆる学問の中でこれ位興味の深い、趣味の広い学問はほかにありません。 

孔子と易

孔子も論語に「五十易を学べば、もって大過(たいか)なかるべし」と書いておりますが、この言葉はよく引用されます。孔子のような人でも、五十になって、五十才に

なると誰でも人生というものを考えます。よほど横着者か、馬鹿でない限り、何か考える。

俺はこれでいいんだろうか、こんなことで俺の人生というものは一体どういう意義があり、価値があるのか等考えない者はない。あの孔子のように偉大な哲人、聖人が「五十易を学べば、もって大過なかるべし」と言っておることは非常に教えられるところであります。 

孔子と易2

論語は昔から大いに研究されつくしてきた書物でありますが、今日でも尚その研究は続けられております。先般も中国人の学者から「論語の研究」という書物を送られ微にいり細をうがった研究の成果を感心して読みました。

その中にもこの「五十易を学べば、もって大過なかるべきか」という言葉がありました。この学者によりますと、易は、亦―エキ、モマタが本来であり、「五十もって学べば、亦もって大過なかるべし」と解説しておりました。 

孔子と易3

これは私たちに対する警告であります。人間は五十ぐらいになるともう勉強しなくなる、俗物になる。五十になっても、寧ろなったらそれだけ本当の勉強ができるので、益々勉強をする。

そうすると初めて大した過ちのない人生が送れるのではないか。大変これはいいことであります。 

立命の学問

要するに易というものは、無限の創造的進化であります。そこには厳粛な理法というものがあり、その理法、法則に基づいて、造化と同じように限りなく自分自身をつくりあげていく、創造、変化、いわゆる化成していく道、その原理を説いたものが易経であり、立命の学問であります。

世俗にいうただ宿命の学問ではありません。これから易のお話をなるべく学究的にでなく、皆さんの日常生活に適切な参考になる学問としてお話をすすめたいと思います。(昭和52513日講)