十四、「憲問 第十四」
平成29年2月度
原文 | 読み | 現代語訳 | |
1月31日 | 一、 憲問恥、子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也、 |
憲、恥を問う。子曰く、 邦道あれば穀す。邦道無くして穀するは恥なり。 |
原憲が恥について質問をした 先生がお答えになられた。 「国家に道理ある政治があれば、官吏になり俸禄を受け取っても良い。しかし、道徳なき国家であれば官吏になり俸禄を受け取るのは恥である」 |
2月1日 | 二、 克伐怨欲不行焉、可以為仁矣、子曰、可以為難矣、仁則吾不知也、 |
克・伐・怨・欲、行われざる、以て仁と為すべきか。 |
他人に勝ちたがること・他人に自慢すること・恨むこと・欲深いこと、これらがなければ仁と言えるでしょうか。 |
2月2日 | 三、 子曰、士而懐居、不足以為士矣、 |
子曰く、 士にして居を懐う(おもう)は、以て士と為すに足らず。 |
先生が言われた。 「志の高い士なら安楽な住居を思うよな人は、士と呼ぶことはできない」。 |
2月3日 | 四、 子曰、邦有道危言危行、邦無道危行言孫、 |
子曰く、 邦道あるときは言を危がき(みがく)、行いを危がく。邦道無きときは行いをみがく、言は孫う(したがう)。 |
先生が言われた。 「国家に道徳に従った政治が行われている時は、正直に発言して正直に行動する。しかし、国家に道徳が実践されていない時は、正直に行動すべきだが、発言は控え目にすべきである」。 |
2月4日 |
五 |
子曰く、 徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず。 仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。 |
先生が言われた。 「徳のある人は必ず優れた言葉を話す、優れた言葉を話す人が必ずしも徳があるというわけではない。 仁者は必ず勇気があるが、勇者は必ずしも仁徳を備えているとは限らない」。 |
2月5日 | 六、 南宮活、問於孔子曰、ゲイ善射、ゴウ盪舟、倶不得其死然、禹稷躬稼而有天下、夫子不答、南宮カツ出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人、 |
南宮活、孔子に問いて曰く、 ゲイは射を善くし、ゴウは舟を盪かす(うごかす)。倶、その死ぜを得ず。禹(う)と稷(しょく)は躬ら(みずから)稼して天下を有つ。 夫子答えず。 南宮活出ず。 子曰く、 君子なるかな、若き(かくのごとき)人、徳を尚べるかな、若き人。 |
南宮活が孔子に質問をした。ゲイの君は弓術に優れており、ゴウの君は船を動かすほどの怪力でしたが、二人とも不運な死を遂げてしまいました。禹と稷の君は、自分自身で田畑を耕作して天下を統一しました。(なぜ、優れた能力・武力のない君主が天下統一の大事業を果たせたのでしょうか。 |
2月6日 | 七、 子曰、君子而不仁者有矣夫、未有小人而仁者也、 |
子曰く、 |
先生が言われた。 |
2月7日 |
八、 |
子曰く、これを愛して能く労せしむること勿からんや、忠にして能く誨うる(おしうる)こと勿からんや。 |
先生が言われた、 |
2月8日 | 九 子曰、為命卑甚草創之、世叔討論之、行人子羽脩飾之、東里子産潤色之、 |
子曰く、 命を為るに卑甚これを草創し、世叔(せいしゅく)これを討論し、行人の子羽これを脩飾し、東里の子産これを潤色す。 |
先生が言われた、 「鄭の国の外交文書は、卑甚が草稿を書いて、世叔がこれを検討し、外務担当の子羽がこれを添削、東里に住む子産がこの原文を豊かな表現を持つ文章へと潤色した」。 |
2月9日 |
十、 |
或るひと、子産を問う。 子曰く、 恵人なり。子西を問う。 曰く、彼を哉、彼を哉。管仲を問う。 曰く、人なり、伯氏の駢邑(べんゆう)三百を奪い、疏食を飯らい、歯(とし)を没するまで、怨言なし。 |
ある人が、鄭の子産についてお尋ねした。 先生はお答えになられた、 「恵み深い人物です」。楚の子西についてお尋ねした。 先生が答えられた、 「あの人ですか、あの人ですか」。斉の管仲についてお尋ねした。 先生が答えられた、 「かなりの人物です、管仲は、伯氏の駢の邑三百戸の領地を奪った。しかし、伯氏は粗末な飯を食べつつ年をとり、死ぬまで怨み言を言わなかったのだから」。 |
2月10日 |
十一、 |
子曰く、 |
先生が言われた、 |
2月11日 |
十二、 |
子曰く、 |
先生が言われた、 「魯の孟公綽は、趙・魏といった大きな家の家老となれば十分に役務を果たすだろう。しかし、膝・薛のような小国の大臣の役割を果たすことは出来ない」。 |
2月12日 |
十三、 |
子路、成人を問う。 子曰く、 臧武仲(ぞうぶちゅう)の知、公綽(こうしゃく)の不欲、卞莊子(べんそうし)の勇、冉求(ぜんきゅう)の芸の若き(ごとき)、これを文る(かざる)に礼を以てせば、亦以て成人となすべし。 曰く、今の成人は何ぞ必ずしも然らん。利を見て義を思い、危きを見て命を授け、久要、平生せい)の言を忘れざれば、亦以て成人となすべし。 |
子路がひとかどの人物について質問した。 先生は答えられた、 「臧武仲の知性、公綽の不欲、卞莊子の勇敢、冉求の才能、これに礼楽の教養を加えれば、ひとかどの人格に秀でた人物と言って良い」。 先生が更にお話になられた、「現在の人物は、必ずしも私の言ったようなものではない。しかし、世間一般では、利益を捨て義理を尽くし、危難にあって命を投げ出す、ずっと昔の約束を忘れずに守るなどの人物を指して優れた人格者と言っている。これらの要素を持つ人もまた、ひとかどの優れた人物と言って良い」。 |
2月13日 |
十四、 |
子、公叔文子を公明賈に問いて曰く、信(まこと)な 子曰く、 それ然り、豈それ然らん。 |
先生が公叔文子のことを公明賈にお尋ねになった、「あの方が、話もせず、笑いもせず、取りもしないというのは本当か」。公明賈がお答えした。先生にそのことを告げた人の言い方が間違っています。あの方は、話すべき時には発言されます。その為、普段はあの方の発言を気にしなくて良いのです。楽しむべき時には笑われます。その為、普段はあの方の笑いを気にしない。更に、取らなければならない時には取られます。その為、普段はあの方が取るかどうかを気にしないのです。 先生が言われた、 「果たしてその通りだろうか。どうしてそんなことが出来るだろうか」。 |
2月14日 |
十五、 |
子曰く、 臧武仲(ぞうぶちゅう)防を以て後をなすを魯に求む。君を要せずと曰うと雖も、吾は信ぜざるなり。 |
先生が言われた、 『臧武仲が防の城に篭城した時、防の城と引き換えに自分の一族の後継者を魯国に家の再興を要求した。臧武仲は魯公に強要しなかったと言い訳しても信じることが出来ない』。 |
2月15日 | 十六、 子曰、晋文公譎而不正、斉桓公正而不譎、 |
子曰く、 |
先生が言われた、 「晋の文公は筋道を通さなかったが、斉の桓公は原理原則を通して政治を行った」。 |
2月16日 |
十七、 |
子路曰く、桓公、公子糾(きゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)は、これに死し、管仲は死せず。曰く、未だ仁ならざるか。 子曰く、 桓公、諸侯を九合するに、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。その仁に如かんや、その仁に如かんや。 |
子路が言った。斉の桓公がライバルの兄・公子糾を殺した時、側近の召忽は公子糾に殉じて死んだが、同じ側近の管仲は生き残りました。これは、仁の道に外れるのはないでしょうか。 先生がおっしゃった、 「桓公は諸侯を九度集めて会議を開いたが、兵力・軍事を用いて諸侯を強制的に従えたのではない。これは管仲のお陰である。この仁徳に及ぶものがあろうか、この仁徳に及ぶものがあろうか」。 |
2月17日 |
十八、 |
子貢曰く、管仲は仁者に非らざらん。桓公、公子糾を殺せるに。死する能わず、またこれを相けり。 |
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2月18日 |
十九、 |
公叔文子の臣、大夫の撰、文子と同じく公に升る。 子、 これを聞きて曰く、以て文と為すべし。 |
公叔文子の家臣である大夫撰が、文子の推薦で大臣となり昇殿を許された。 |
2月19日 |
二十、 |
子、衛の霊公の無道を言う。康子曰く、それ是くの如くんば、奚ぞ(なんぞ)喪びざる。 孔子曰く、 仲叔圉は賓客を治め、祝鴕(しゅくだ)は宗廟を治め、王孫賈(おうそんか)は軍旅を治む。それ是くの如し、奚ぞ喪なわん。 |
先生が衛の霊公の無道ぶりについて話された。そこで、季康子が質問した。そのような仁徳のない君主であれば、どうして衛は滅びなかったのか。 孔子がお答えした、 「仲叔圉が賓客を的確に接待し、祝鴕が宗廟の祭祀を正しく行い、王孫賈が効果的な軍事を担当していたからです。そのように優秀な家臣に国が守られていれば、どうして国が滅びるでしょうか、滅びることはない」。 |
2月20日 | 二十一、 子曰、其言之不作、則其為之也難、 |
子曰く、 |
先生が言われた、 |
2月21日 |
二十二、 |
陳成子、簡公を弑す。 孔子、沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、 陳恒、その君を弑せり。請う、これを討たんことを。公曰く、夫の三子に告げよ。 孔子曰く、 吾、大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君曰く、夫の三子者に告げよと。三子に之きて告ぐ。可かず(きかず)。 孔子曰く、 吾大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらず。 |
陳成子が、斉の簡公を謀反で殺した。 孔子は沐浴して身を清め、朝廷に参内し、魯の哀公に申し上げた。 「陳恒が自らの主君を弑逆しました。どうぞ、彼を大義に基づいて征伐してください」。哀公が答えた。『孟孫・叔孫・季孫の三人に言ってみてくれ。』。 孔子は退出すると、「私は大夫(上級官吏)の末席に位置するものなので、大義の遂行について申し上げずにはいられなかった。主君があの三人に話してみてくれと言われた」。 孔子は三人を訪ねて陳恒の討伐について申し上げたが、聞き入れられなかった。 孔子は言われた、 「私は大夫の末席に位置するものなので、大義の遂行について申し上げずにはいられなかったのだ」。 |
2月22日 |
二十三、 |
子路、君に事うるを問う。 子曰く、 欺くこと勿かれ。而うしてこれを犯めよ。 |
子路が主君に仕える心得について先生に質問した。 先生は言われた、 「主君を騙してはいけない。そして、主君に逆らってでも道理に適った正しい意見を言わなければならない」。 |
2月23日 |
二十四、 |
子曰く、 君子は上達し、小人は下達す。 |
先生が申された、 「君子は次第に大局観が出きるが、小人は末端しか分からない」。 |
2月24日 |
二十五、 |
子曰く、 昔の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者はの為にす。 |
子曰く、 |
2月25日 |
二十六、 |
遽伯玉(きょはくぎょく)、人を孔子に使わす。孔子これに坐して問う。夫子は何をか為す。対えて曰く、夫子はその過ちをなくせんと欲して未だ能わざるなり。使者出ず。 |
衛の遽伯玉が、孔子に使いを出した。孔子は使いの者を招き入れて座らせ、質問をされた、「あの先生はどうしておられますか」。使者は答えて申し上げた。あの先生は過失を少なくしたいと願っておられますが、まだ過失を少なく出来ていません。使者が退席した。 先生がおっしゃった、 「立派な使者だ、立派な使者だ」。 |
2月26日 |
二十七、 |
子曰く、 その位に在らざれば、其の政を謀らず。 |
先生が言われた、 |
2月27日 |
二十八、 |
曾子曰く、 君子は思うことその位を出でず。 |
曾子が言われた。君子はその職務・官位以外のことは考えないものだ」。 |
2月28日 |
二十九、 |
子曰く、 |
先生が言われた、 「君子は自分の発言が、自分の行為以上のものになることを恥じる」 |
3月1日 |
三十、 |
子貢、人をただす。 子曰く、 賜は賢なるかな。それ我は則ち暇あらず。 |
子貢は、よく人を批判した。先生は言われた、「子貢は賢明だな、私などは他人を批判しているような暇がないというのに」。 |
3月2日 |
三十一、 |
曰く、 人の己を知らざるを患えず、己を知らざるを患うるのみ。 |
先生が言われた、 「他人が自分を認めてくれない事を憂うな、自分がまだ力不足であることを思いなさい」。 |
3月3日 |
三十二、 |
子曰く、 詐を逆えず(むかえず)、不信をはからざるも、抑も(そもそも)亦先た先覚するもの、これ賢か。 |
先生が言われた、 「人から騙されないかと身構えず、嘘を言うのではないかと推測せず、そうでいながら、人よりも先に感じることができる、これが賢者というものではないか」。 |
3月4日 |
三十三、 |
微生畝(びせいほ)、孔子に謂いて曰く、丘、何んぞこの栖栖(せいせい)たる者をなすか、乃ち佞を為すなからんや。 孔子対えて曰く、敢えて佞を為すに非ず、固なるを疾めば(にくめば)なり。 |
微生畝が孔子を評して言った。孔子はどうしてそんなに落ち着きがないのだろうか。もしかして、弁舌の才覚を生かして主君に取り入ろうとしているのではないか。 先生が言われた、 「弁舌で主君に取り入ろうとは思っていません。頑固になることを嫌っているだけです」。 |
3月5日 |
三十四、 |
子曰く、 驥(き)はその力をほめずして、その徳を称むるなり。 |
先生が言われた、 「驥という名馬はその脚力を賞賛されているのではなく、その徳・気品を賞賛されているのです」。 |
3月6日 |
三十五、 |
或るひと曰く、徳を以て怨に報いるは、何如(いかん)。 子曰く、 何を以て徳に報くいん、直を以て怨に報い、徳を以て徳に報いん。 |
ある人が言った。徳でもって、怨恨に返したらどうだろうか。 先生が言われた、 「そうなると、徳に何をもって返すのか。正直・誠実な態度でもって怨恨に返し、徳には徳を持って返すべきです」。 |
3月7日 |
三十六、 |
子曰く、 我を知る莫きか。子貢曰く、何すれぞそれを知る莫し。 子曰く、 天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者それ天か。 |
先生が言われた、 「私を知るものは誰もいない」。子貢がそれを聞いて言った。先生を知るものがいないというのはどうしてですか。先生が言われた、 「天を恨まず、人もとがめない。人間社会について学問し、上は天命について学問をする。この私を正確に知るものは、やはり天か」。 |
3月8日 |
三十七、 |
公伯寮、子路を季孫に愬う。子服景伯以て告ぐ、夫子、固より惑志有り、公伯寮におけるや、吾が力、猶能くこれを市朝にさらさん) 子曰く、 道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯寮、その命を如何せん。 |
公伯寮が季孫に子路を訴えでた。子服景伯が孔子に告げて言った。裁判をする季氏は公伯寮に気持ちを惑わされています。しかし、私には、公伯寮を捕縛して市や朝廷の広場で処刑するくらいの実力があります。私に公伯寮の処分は任せてください。 |
3月9日 |
三十八、 |
子曰く、 賢者は世を避く、その次は地を避け、その次は色を避け、その次は言を避く。子曰く、 なす者七人。 |
先生が言われた、 「優れた賢者は世俗から身を避ける。次に優れた人物は、混乱した地方から遠ざかる。その次の人物は、人の顔色を見て危難があれば避ける。その次の人物は、人の言葉を聞いて危難があれば遠ざかる。先生は更におっしゃった、 「これが出来た人物は七人いる」。 |
3月10日 |
三十九、 |
子路、石門に宿る、晨門曰く、奚れ(いずれ)自りす。子路曰く、孔氏自りす。 曰く、 これその不可を知りて、これを為すものか。 |
子路が石門に宿泊したときに、門番が言った。どちらから来ましたか。子路は答えた。孔氏の家から来た。門番が言った。孔子というのは、理想が不可能であることを知りながらも、そのために行動している人のことですか。 |
3月11日 |
四十 |
子、磬を衛に撃つ。簣を荷って孔氏の門を過ぐる者有り。 曰く、心あるかな磬を撃つや。既にして曰く、鄙なるかな、脛脛乎(こうこうこ)たり。己を知るなければ即ち已むのみ。深ければ則ち氏iれい)し、浅ければ則ち掲ぐ。子曰く、 果なるかな、これ難きことなし。 |
先生が衛で磬(けい)という石の打楽器を鳴らされた。土砂を運ぶモッコを担いで孔子の門前を通りかかった者が言った。心の動きを感じさせるな、この磬の鳴らし方は。暫くして更に言った。これはつまらないね。音が固くなり過ぎている。自分を理解するものがなければ、それで終わりになってしまう。深きときは則ち獅オ(衣服を脱いで水に深く浸かり)、浅きときは則ち掲せよ(裾を上げよ)と詩でも謳っている。 これを聞いた先生が言われた、「果断な意見である。しかし、その鳴らし方自体は難しいものではない」。 |
3月12日 |
四十一、 |
子張曰く、書に云う、高宗、諒陰三年もの言わず、何の謂いぞ。 子曰く、 何の必ずしも高宗のみならず。古の人みな然り。君、薨ずれば、百官、己を総べて以て冢宰(ちょうさい)に聴くこと三年。 |
子張が質問した。殷の高宗は、三年間の喪に服している間、一言も話さなかった。「書経」の記述は如何。 先生がお答えになった、 「高宗に限らぬ。古代の人はそうであった。君主が崩御すると、官吏全員が自分の仕事をやり終えて、宰相の服喪の指示を三年間も聞いた」 |
3月13日 |
四十二、 |
子曰く、 上、礼を好めば、則ち民使い易し。 |
先生が言われた、 |
3月20日 |
四十三、 |
子路、君子を問う。 |
子路が君子の心得を質問した。 先生は答えられた、 「自分の言動を正し、謙虚にすることだ」。子路は更にお聞きした。それだけのことですか。 先生は言われた、 「自分の言動を正しく修めて、他の人たちを安心させることである」。子路は言った。それだけですか。 先生は言われた、 「自分自身の徳性を高め、百姓(一般人民)を安心させる。自分の言動を正しくして百姓を安心させることは、伝説の聖王である尭・舜でも難しいことだったのだ」。 |
3月21日 |
四十四、 |
原壌、夷して俟つ。 子曰く 、幼にして孫弟ならず、長じては述ぶるなし、老いて死せず、是を賊と為す。杖を以てその脛(はぎ)を叩けり。 |
原壌が片足を立てひざにして座って待っていた。 先生が言われた、 「お前は、幼児の時は素直ではなく、大人になってからは他人に賞賛されたことがなく、年老いても死なない。こういう人間を役立たずというのだ」。孔子は杖で原壌の脛を叩いた。 |
3月22日 |
四十五、 |
闕党の童子、命を将う(おこなう)。或るひとこれを問うて曰く、益する者か。 子曰く、 吾その位に居るを見る。その先生と並び行くを見る。益を求むる者に非ず。速やかに成らんと欲する者なり。 |
闕の村の少年が、お客の取次ぎをしていた。ある人が聞いた。あの少年の学問は伸びるでしょうか。 先生が答えられた、 「私はあの少年が(大人と同じく)真ん中の席についているのを見た。あの少年が先輩と肩を並べて歩いているのも見た。少年は学問・人格の成長を求めるのではなく、早く一人前の大人に成りたいという者です」。 |