安岡正篤先生「易の根本思想」12

平成21年2月

2月 1日

二十 
ぜいこう

火上(かじょう)雷下(らいか) 火雷噬こう(からいぜいこう)
罪と責」。好事(こうじ)魔多(ま おお)しということがある。

世の中には、何事につけ、邪魔物や妨害があることを免れない。
これを粉砕し消化してゆかねばならぬ。
国家的に言えば、刑罰を明らかにして、法律秩序を整える要がある。
これを明らかにしたものが噬こう(ぜいこう)の卦である。

2月  口は禍の門 (ぜい)は歯で()むこと、?(こう)は上下の歯ががっちり合うことである。後に()の卦で出てくる。これは(さん)(らい)()で、上卦・下卦が上下の(あご)間の四爻が上下の歯と見ることができる。 これは口は禍の門で、飲食言語を慎む理を明らかにしている。
こうはこの(あご)の四爻が陽で、上下の歯間(しかん)に物のはさまっている(しょう)である。
いかなる障礙(しょうげ)も処理して進めば(とお)る。
2月 3日 初九、六二

初九
妨害の始まり、邪魔の微物、非行犯罪の初期である。足かせをはめて動けぬようにせねばならぬ。

六二
口中の象であるから、各爻とも肉類を例にとっている。羊豚類の肌肉のように柔らかく、深く料理せねばならぬ。

2月 4日 六三

九四
六三
全乾(まるぼし)の肉を()むように骨が折れ、時に中毒することもあるのを警戒せねばならぬ。(とが)はない。

九四
前爻より進んで、この場合は乾し(骨付きの肉)()むに等しい。然し、その中に潜んでいる重大な問題を発見することがある。いかにる困難にも変ぜず正義を貫けばよい。

2月 5日 六五

上九

六五
断の主体てせある。問題の実態がはっきりする。貫行すれば、容易でないが、咎はない。

上九この卦は元来正義を行う上の悪を排除して秩序を確立することの困難を明らかにしたものであるが、その窮境は、抵抗を恐れて悪を排除することを好い加減にしておくと、遂には極刑を科せねばならぬことを生じて凶である。或はまた悪を行う者が次第に狎れて罰を畏れぬようになると、終には首枷の極刑に陥ることになることにも解釈することができる。

2月 6日

二十一 

()

山上(さんじょう)() (さん)()()
文化の原則」。秩序を整え、正義を行う為には、断固として妨害を排除し、刑罰を明らかにしてゆかねばならぬが、進んでは生活を向上させ、文化高めて刑罰を用いる必要のなくなるように志さねばならぬ。

この文化的進歩の理を明らかにしたものがこの卦で、()(かざ)るである。賁臨(ひりん)を乞うというのは立派な人の臨席を得て席をかざりたいという意味である。
卦の面から言うと、上卦は草木繁茂し雲煙去来(うんえんきょらい)する美しい山であり、下は日であり、下卦の離火(りか)は日の場合には夕日を表すから、夕日に映ゆる美しい山の光景を現すものということができる。
2月 7日 天文、人文 この彖伝(たんでん)は、二つの重大な意味を明らかにしている。一つは、「天文を観て時変を察し、人文を観て天下を化生(かせい)することであり、その二は、「文明を以て止る」ということである。 文明は進歩と考えて素朴から(はな)れると、容易に文弱となり退廃堕落して破滅する。人間と歴史がそれを実証している。故に()は「かざる」と同時に「やぶる」である。
2月 8日 真の文明 真の文明は自然に合致して、剛健を保たねぱならぬ。論語にも質・文に勝てば則ち()。文・質に勝てば則ち()(軽薄の意)、「文質彬々(ぶんしつひんぴん) 然る(のち)・君子」(論語・雍也)という名言がある。
故に卦辞でも「()(とお)る。(すこ)しく往くところあるに(よろ)し」と云っている。
2月 9日 化成(かせい)

「化成」という名の化学工業会社によく付いている。化学合成という意味ぐらいに解されているが三菱の岩崎久弥氏が、易を学んでこの語を知り、これを採ったものであるという。

()()()彖伝(たんでん)雷風恆(らいふうこう)彖伝(たんでん)にも「化成」という語がある。
2月10日 初九 この卦の六爻は頗る系統だって、文化生活の向上と、これに伴う心得とを説いている。初九に於いては、人々は生活が裕かになると、まづ車にのりたがる。 歩く心がけが大切であるとしている。単に倹約という意味ではない。足を丈夫にせよということである。生理学的にも、政治・社会学的にも、歴史哲学的にも、十分意味のあることである。
2月11日 六二

九三と正比(せいひ)(陰陽相ならぶ)している。上の陽爻に随って興起すればよい。陰の中であるから()を出さず、先輩長者に学んでゆくことである。

初九に「(あし)」を用いているが、ここでは(ひげ)((ひげ))を例に採っている。素朴な着眼である。六二の上の三・四・五・六は山雷(さんらい)省卦(しょうけ)(あご)であるから二を「あごひげ」と見たのである。
2月12日 九三、

六四

九三

この段階で大いに生活・教養・文化すべて発達させるがよい。但し常に永久的・道義的原則の下に於てなさねばならぬ。

六四
後半の初期である。この時に於いて、文飾的か、質実的かを反省して文飾よりも質素を採らねばならぬ。質素は文化を攻撃するのではない。結婚するのである。
文質配合して始めて永久に栄えることができる。

2月13日 六五、

上九

六五
支配的立場に於ては特に質素なのが吉で、喜がある。富裕や栄達や文化はすべて危いことを心得ねばならぬ。

上九
質の究竟(くうきょう)は「白賁(はくひ)」である。赤や青や黄や極彩色(ごくさいしき)ではない。
それなら咎はない。

2月14日

二十二 

(はく)

山上(さんじょう)地下(ちか) 山地剥(さんちはく)

退勢の極致」。富裕・栄達・文化に免れ難いのがこの卦の事象である。陰が上昇して、僅かに上の一陽がふみ止まっている象、剥落(はくらく)()である。

山・地上に立つ象であり、順にして(とど)まるものである。

卜者(ぼくしゃ)が潜行性疾患の重大危機と見、或は腫物と見るのはおもしろい。
転覆崩壊の危を示すものであるから、大象は「下を厚くし、宅を安んず」と説いている、地盤が大切である、依って立つ処を注意せねばならぬ。
 
2月15日 初六、

六二
初六
この卦は象辞に(しょう)(腰掛け、寝台)を例にとっている。竹の象と見ることができるのである。前卦の()の初爻と同理で、まづ足である。足がガタガタになる。長い間の変わらぬ信条・憲法をがたつかすことである。

六二

潜行の上進で、(しょう)の足で言えば「辨」、足の上部である。上に応爻が無いから依然として潜行する。

2月16日 六三、

六四
六三
上体と下足との分解である。然るにこの爻独り上九と正応している。危きを知って、苦忠を尽くし、努力すれば救うことができるのである。

六四

潜行的危険が愈々身に迫った時態であ。凶である。然しここで勇敢に善処すれば火地晉(かちしん)となって一変する。 

2月17日 六五 五陰の主爻(しゅこう)、潜行的勢力の決定的地位である。これを積極化するは九五である。ここは六五である。上九と正比する。ここで従来の情勢を上九の方に一転すれば、これほど()いことはない。風地観となって万民仰ぎ観て敬服する。 徳川幕府崩壊の終局に当って慶喜公が大政奉還にふみきったことなどがこれに当たる。ロマノフ王朝の没落に当っては、この上九・六五が無かった。ニコライ二世は六五でなく、ケレンスキーは上九でも六五でもなかった。政治も経済も治病も同理である。 
2月18日 上九

梢に見事な果物が一つ残っているような象である。幕末に高橋(でい)(しゅう)・山岡(てっ)(しゅう)・勝海舟(かいしゅう)等の居ったようなものである。第二次世界大戦にイギリスが没落の危機に臨んだ時、チャーチルが居ったようなものである。

フランスのドゴール亦然り。
この時、追及してきた五陰に妥協すれば剥落(はくらく)である。
ケレンスキーが好例である。
チェコのベネシュ大統領亦然り。
こういう例は枚挙(まいきょ)(いとま)がない。
2月19日

二十三 
(ふく)

地上(ちじょう)雷下(らいか) 地雷(ちらい)(ふく) 

回復の原則」。
(はく)・一転すれば(ふく)である。一陽来復(いちようらいふく)、これから陽気(ちょう)ずるのである。幕府の引退が、明治の維新、日本の世界的躍進となったような象である。彖伝(たんでん)に曰く、復は其れ天地の心を見るか。

然るに大象は、「先王以て()(じつ)(せき)を閉じ、(しょう)(りょ)行かず、(きみ)(ほう)を省みず」と説いている。()(じつ)は冬至。雷・地中に在り。まだ陽気大いに発するに至らない。陽気が(きざ)したという時である。故に万事慎重を要する。動いて、順に行けば、()(たく)(りん)地天(ちてん)(たい)雷天大壮(らいてんだいそう)となって発達する。

2月20日

初九、

六二

初九、
何事によらず、うかと進んでも、遠からずして気がつき、「我が身を修める」ことにたち返れば(くい)にいたることはない。(おお)いに吉である。

六二

初九の道を継承してゆけば、安らかで、めでたく、大いに発展して、吉。

2月21日 六三、

六五
雷の上爻であるから、とかく軽挙妄動したいところである。その度に「復」の道を忘れねば((ひん)(ふく)(あやう)いが咎はない。

六五

「復」の決定的地位である。(あつ)く自ら考えて行へば成功する。咎はない。

2月22日 (とん)(ふく) 象辞に「(とん)(ふく)」とあり、伝に、中以て自孝也と説いている。孝は「かんがう」であり、「成す」であり、本来「老」であり、父を表す。 人間成長することは思惟(しい)によって物事は成るのである。父がその貴い象徴である。字義の深理である。文字は大切にして、よく学ばねばならない。文字を粗末にする者は「孝」へないものである。「成長」の「父」ではない。
2月23日 上六 「復」の爻を()って上六の辞や伝に至り、首を()れて、深念(しんねん)させられるのである。曰く、復に迷う。災?(さいせい)あり。(もっ)って師を()れば、終に大敗あり。其の国君に(およ)ぶ。凶。十年に至るも征する(あた)はず。
()
迷復の凶は(くん)(どう)に反すればなり。()
在来、易を解説する諸書多くこの「復」を説いて靴を隔てて、痒きを掻く感を免れない。迷復に於て特にその感を深くする。復は初爻に示すとおり「身を修める」ことから常に出発するのである。
2月24日 上六
その二
大学に言う通り(大学は易と相通ずる所が多い)、「天子より以て庶人に至るまで、壱是(いつ)に皆身を修むるを以て本と為す」ものである。これは明白な、また易しいことのようで、さてとなると、なかなか難しいことなのである。あらゆる迷いもここに存するといってよい。まさに「復に迷う」のである。 これ「凶」であり、ここからせいを招く。災は自然の禍、?は人自ら作るところの困厄である。この復道を誤って軍隊など動かせば、終に大敗があり、その国君にまで及ぼさねばならぬことになり、もちろん凶である。十年かかっても昔のような実力を回復することはできない。復に迷うは特に君たる者の道に反する。−熟読玩味、実に痛切にして無限の貴い教訓である。 
2月25日

二十四
无妄(むばう)

天上(てんじょう)雷下(らいか) (てん)(らい)无妄(むばう)

自然の運行」。()は、みだり・うそ・いつわりである。世の男共のそういうことは、多く女に関連するというわけで女を示し、亡を音符とすると言われるが、単なる音符ではなく、(まこと)(うしな)う意を暗に示している。

自然は(もう)でない、即ち无妄(むばう)である。卦の面から言っても雷は動であるから、天に従って動く象である。

(おお)
いに(とお)る。(てい)(よろ)し。

これに反して正義でなければ、(わざわい)がある。妄に進んではいけない。自然真実に反して何処に往けようか。
天命が(たす)けない。行けるわけのものではない。

2月26日 大象に曰く

物事は真理・誠・无妄(むばう)で成立している。偉大な祖先の哲人はこれで以て大いに(てん)()に対応して、万物を化育(かいく)したのであるーと。故にこの卦は小人・悪人・偽善者・陰謀家には凶である。天の下に雷があるから落雷の象でもある。不慮の災難を意味する。

大儒(だいじゅ)佐藤一斉の詩に、赴所(きせざるところに)不期天(おもむいててん)一定(いちにさだまる)動於无妄物(むもうにうごくもの)(みな)(しかり)―期せざる所に赴いて天・一に定まる。无妄に動く物皆然りとあるが、全く人間のむしのいい期待など一向にあてにならない。物事は、むしろ人間の思いもかけない所に往ってしまって、おのづからぴたりと定まる。天の所為(しょい)である。人間の恣意(しい)によらず、天の无妄・自然の真理によって動く。何ごとによらずそうである。 

2月27日 初九、

六二

初九
誠でゆけば吉。「之を以て身を修めれば身は正しく、之を以て事を治めれば、事その理を得、之を以て人に臨めば人感じて化する。往く所として其の志を得ぬはない」と程伝にも説いている。

六二

事を先にして得を後にする(論語・顔淵)ことである。収穫の如何に拘らずして耕し、新田の開墾をひたすら努力するようにすればよろし。

2月28日 六三、
九四、
九五、
上九
六三
思わぬ災難がある。或る人が牛を路傍につないでおいたところ、たまたま病にかかるようなことがあって薬はいらない。

九四、誠を堅持してゆけば咎はない。

九五、自然の真理に従う生活をしていれば、たまたま病気にかかるようなことがあっても薬はいらない。(確かに健康は医者に助けられたり、薬によって得られるもまではなく、。

変化してやまない環境から、どんな思いがけない挑戦を受けても堂々とみずから対応できる状態である
。奇警に社会学者G・K・チェスタートンが喝破した通り、健康人は向う見ずでなければならぬ。健康人の根本的機能は、おっかなビックリやってゆくようなものではない。)

上九

要するに至誠真実である。そこに偽妄があれば、災厄がある。よいことて゜はない。