佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その九 岫雲斎補注  

平成24年2月1日から2月9日                                                    

 1日 238.         
経書を読む心得四則
その四

先儒(せんじゅ)(けい)(かい)謬誤(びゅうご)、訂正せざるを得ず。但だ須らく已むを得ざるに()ずべし。異を好むの念有る()からず。 

岫雲斎
先輩の儒者たちの経書解釈の誤謬は訂正しないわけには参らぬ。
だがこれは已む得ざる場合のことである。殊更に異説を唱える心があってはならぬ。

 2日 239.         
読書の法

読書の法は、当に孟子の三言(さんげん)を師とすべし。曰く、意を以て志を(むか)う。曰く、(ことごと)くは書を信ぜず。曰く、人を知り世を論ずと。 

岫雲斎
読書の法は、孟子の三言が宜しい。
その一「心を以て作者の精神を汲み取れ」。
その二「書物は全面的には信じないこと」。
その三「著者の人柄や経歴を知り当時の社会的背景も斟酌しなくてはならぬ」。

 3日 240.     

講経の法

経を講ずるの法は、簡明なるを要して煩悉(はんしつ)なるを要せず。平易なるを要して(かん)(おう)なるを要せず。只だ須らく聴者をして大意の(ぶん)(ぎょう)するを得しむれば可なり。深意の処に至りては、則ち畢竟口舌の能く尽くす所に非ず。但だ或は子弟の病を受くる処を察識して、(たまたま)余意に及び、聖賢の口語に(かわ)りて、一二箴貶(しんへん)し其れをして省悟(せいご)する所有らしむるも亦(まま)(よろ)し。()口舌を簸弄(はろう)し縦横に弁博し聴者をして(おとがい)を解き疲を忘れしむるが(ごと)きは則ち経を講ずる本意に非ず。 

岫雲斎

経書の講義は簡単明瞭がよい。
また分かり易いのがよく、難しくしてはならぬ。
聞く人が大体の意味を理解させればそれでよい。
深い意味のある点は、口先だけでは真意を尽くし難い。ただ、弟子が煩悶する個所を察知して経書以外の引用をしたり、一、二点の戒めの言葉を加え、弟子らを大いに反省せしめればそれで好い。
徒らに口先でまくし立て、誤魔化し、大笑いさせ疲れを忘れさせたりするやり方は経書の講義をする者の為すことではない。

 4日 241.

万物は不定にして定まる

不定にして定まる、之を无妄(むぼう)と謂う。

宇宙間唯だ此の活道理有りて(じゅう)(そく)し、万物此れを得て以て其の性を成す。

謂わゆる物ごとに无妄を与うるなり。
 

岫雲斎
宇宙の全てのものは、時、場所、地位により千変万化するが、妄動はしない、不変の原理が貫通している。それが天理であり、至誠であり、易で言う无妄である。万物には、この活きた原理が満ち満ちている。この活動原理により万物各々が本性を成就している。このことを、物には无妄が与えられている言う。

 5日 242.  

全て活き物

()と活なり。事も亦活なり。生固と活なり。死も亦活なり。 

岫雲斎
万物には无妄の活原理が存在しこれを本性としているのだから万物は活き物である。これにより生ずる万般も全て活は物なのである。

 6日 243.   

人事と天命

三則その一

天定の数は、移動する能わず。故に人生往々其の期望(きぼう)する所に(そむ)いて、其の期望せざる所に(おもむ)く。吾人(ごじん)(こころみ)に過去の履歴を反顧(はんこ)して知るべし。 

岫雲斎
天の定めた運命は動かすことは出来ない。
だから、人生は往々にして期待した事と反対に当てにしないとこへ行くことがある。
試しに自分の過去の歴史を回顧して見れば分るであろう。

 7日 244.  
人事と天命 

三則その二

世に君子有り小人有り。其の(たが)いに相消長(しょうちょう)する者は数なり。数の然らざるを得ざる所以の者は即ち理なり。理には測る可きの理有り。測る可からざるの理有り。之を要するに皆一理なり。人は当に測る可からざるの理に於て()つべし。
是れ人道なり。
即ち天命なり。
 

岫雲斎
社会には立派な君子と言われる人間もおれば、小人というレベルの人間も存在する。それらが繁栄したり衰亡したりしているが、みな運命である。そうなるには理がある。その理は、予測し得る理と、予測し難い理とある。それらは、一つの理であることには間違いない。だから、我々は予測できる理に安心し、予測不能な理の到来は待つしかない。これが人間と云う存在であり、天命である

8日 245.         

人事と天命

三則その三

凡そ事を()すには、当に人を尽くして天に(まか)すべし。人有り、平生放懶(へいぜいほうらい)怠惰なり。(すなわ)ち人力もて徒らに労すとも益無からむ。数は天来にゆだぬと謂わば則ち事必ず()らじ。蓋し是の人、天之れが(たましい)を奪いて然らしむ。畢竟(ひっきょう)亦数なり。人有り、平生(けい)(しん)勉力なり。乃ち人理は尽くさざる可からず数は(てん)(てい)()つ。と謂わば則ち事必ず成る蓋し是の人、天之が(ちゅう)(みちび)きて然らしむ。畢竟亦数なり。又人を尽くして而も事成らざるもの有り。是れ理成る可くして数未だ至らざる者なり。数至れば則ち成る。人を尽くさずして而も事(たまたま)成るあり。是れ理成る可からずして数(すで)に至る者なり。(つい)には亦必ず敗るるを致さむ。之を要するに皆数なり。成敗(せいばい)の其の身に於てせずして其の子孫に於てする者有り亦数なり。

岫雲斎
凡そ、何事も人事を尽くして天に任すがよい。人あり横着の怠け者である。「幾ら働いても無駄、運命は天に拠る」と云っているのてば何事も成功すまい。天がこの人から魂を奪いそうしているのだ、これも運命と言える。また或人は平生慎み深く勤勉、「人間の務むべき道理は飽くまでも尽くさねばならぬが運命は天の定めを待つ」と云う。この人の仕事は必ず成功する。このような人間に対しては天が心を誘いそうさせているのだこれ亦運命である。
処が人事を尽くしても成功せぬ人がある。
これは道理上では成功する筈であるが天運が至っていないのである。
だから、天運が来ると直ちに成功する。
反対に人事を尽くさないで偶然に成功する人もいる。これは道理上では成功しない筈であるが運命が来たのであり、終には失敗することになろう。
要するにみな運命である。成功とか失敗がその人に現れないで子孫に現われることもある。これは「積善の家に余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり」と云うことであり天運の然らしむものである。
9日 246 

数理の秘

数は一に始まって十に成り、十(また)た一に帰る。大にして百千万億、小にして分厘毫(ぶんりんごう)()、皆一と十との分合(ぶんごう)して、以て無窮に至るなり。易は(たい)(きょく)よりして起り、()(しょう)に至りて数()(そなわ)る。其の一二三四の(せき)始めて十を成すを以てなり。十(ちゅう)に就きて、老陽(ろうよう)()の一を除けば、則ち九を余す。故に九を老陽の数と為す。十中に就きて小陰(しょういん)()の二を除けば、則ち八を余す。故に八を小陰の数と為す。十中に就きて小陽位の三を除けば、則ち七を余す。故に七を小陽の数と為す。十中に就きて老陰位の四を除けば則ち六を余す。故に六を老陰と為す。又、一より十に至るの積は則ち五十五を成す。之を天地の数と謂う。今(ためし)に五指を屈伸して之を数えんに、先ず大指より屈して一と為し、食指を二と為し、中指(ちゅうし)を三と為し、無名指(むめいし)を四と為し、小指(しようし)を五と為し、再び小指より伸ばして六と為す。六と五とは則ち十一。無名指を七と為す。七と四は即ち十一。中指を八と為す。八と三は即ち十一。食指を九と為す。九と二とは即ち十一。大指を十と為す。十と一とは即ち十一。一指毎に皆十一なり。五指を合して五十五を成せば、天地の数は蓋し既に掌中に具れり。又天地の数に就き、其の五十を以て(めどぎ)の数に充て、五を余し、之を虚しゆうして以て()()に擬す。

卦位は(ろく)(きょ)なり。五にては則ち一足らず。蓍は四十九を用う。五十にては一余り有り、並に未定なり。(ぜい)する時に(あた)り、蓍は其の一を虚にす。蓋し其の余り有るを去りて、之を足らざるに帰す。是れ感応の機なり。(すなわ)ち蓍の数退きて四十九を成し、卦位進みて六虚を具え、以て六十四を待つ。数是に於て定る。(めどぎ)の徳は円にして而して(しん)なり。故に其の七を七にす。卦の徳は方にして以て智なり。故に其の八を八にす。七を用い八を求め、九と六とを得て、以て吉凶悔吝(きっきょうかいりん)の趨く所を推す。凡そ是れ数理の秘なり。独り易を然りと為すのみならず、万物の数も亦是れに越えず。

岫雲斎
これは易の理を解説し、その原理を掌中の指にて示したものである。易の理による万物化変の過程を「数理の秘」により解明した。これは、修養とか処世に関係は無いものであるが、人間の根底はこの理により動かされていると言う意味で一斎先生は記述されたものであろう。 
(平成2377日午前10時岫雲斎803ヶ月) 
佐藤一斎「言志後録(こうろく)
その一
岫雲斎
補注 
佐藤一斎「言志後録(こうろく)
その一 岫雲斎
補注 
佐藤一斎「言志後録(こうろく)
その一 岫雲斎
補注 
10日 1. 

学は一生の負担

此の学は吾人(ごじん)一生の負担なり。当に(たお)れて後()むべし。道は()と窮り無く、堯舜の上、善尽くること無し。孔子は志学より七十に至るまで、十年毎に自ら其の進む所有るを覚え、孜々(しし)として自ら(つと)め、老の(まさ)に至らんとするを知らざりき。()し其れをして(ぼう)()え期に至らしめば則ち其の神明不測なること、想うに当に何如(いか)なるべきぞ。凡そ孔子を学ぶ者は、宜しく孔子の志を以て志と為すべし。 

岫雲斎
儒学は一生のテーマである、斃れるまで努力してゆくべき道である。道は無窮であり、堯や舜の行った事以上になすべき善がある。孔子は学に志してより70才になるまで、10年毎に学の進境を自覚し、懸命に学び年を取るのを忘れていた。孔子が死すことなく(ぼう)90歳(90歳)を超えて長生していたら神の如き明智は光り輝いていたであろう。孔子を学ぶ者はこの志を以て自分のものとすべきである。 

11日 2.       
自彊不息(じきょうしてやまず)二則 その一

自ら(つと)めて()まざるは天の道なり。君子の()す所なり。虞舜(ぐしゅん)孳孳(じじ)として善を為し大禹(たいう)の日に孜々(しし)せんことを思い、(せい)(とう)(まこと)に日に(あらた)にする文王の(いと)()あらざる周公の坐して以て旦を待てる孔子の憤を発して(じき)を忘るるが如き、皆是れなり。彼の(いたず)らに静養瞑坐(めいざ)を事とするのみなるは、則ち此の学脈と背馳(はいち)す。 

岫雲斎
天行は健かなり、君子、以て自ら(つと)めて()まず、と易の冒頭にある卦。同様に、努めてやまざるは人間にとっても天の道である。()大禹(たいう)の「懸命に日々道を尽くそうとされた事」、殷の湯王が「日々に徳を新たに」と云われた事、周の文王が「朝から晩まで食を取る暇もない程勉学されたこと、周公が善政を行うべく苦心し夜の明けるや善政を施されたこと、孔子は、道の為に発憤して食事を忘れた事、これらは皆、自ら彊めて息まない実例である。儒教はこのように実社会と密接な関係に在る。ただ徒らに瞑坐するのみで足れりとする流派の者とは全く違うのである。

12日 3.        
自彊不息(じきょうしてやまず)二則その二

自彊(じきょう)不息(ふそく)の時候、心地光光(しんちこううこ)明明(めいめい)なり。何の妄念遊思(ゆうし)有らん。何の嬰累かい想(えいるいかいそう)有らん。 

岫雲斎

自ら懸命になり励んでいる時、心は光に満ちて明るく、何らの妄念も沸かない。また心に思い煩いも起きない。

13日 4

儒教の本領
孔子の学は、己を修めて以て敬することにより、百姓(ひゃくせい)を安んずることに至るまで、只だ是れ実事(じつじ)実学(じつがく)なり。「四を以て教う、(ぶん)(こう)忠信(ちゅうしん)」、「(つね)に言う所は、詩書執(ししょしつ)(れい)」にて、必ずしも?(もつぱら)誦読(しょうどく)を事とするのみならざるなり。故に当時の学者は、敏鈍の異なる有りと雖も、各々其の器を成せり。人は皆学ぶ可し。能と不能と無きなり。後世は則ち此の学()ちて芸の一途(いっと)に在り。博物にして多識、一過にして(しょう)を成す。芸なり。()(そう)縦横に、千言立どころに下る。尤も芸なり。其の芸に墜つるを以てや、故に能と不能と有り。而して学問始めて行儀と離る。人の言に曰く「某の人は学問余り有りて行儀足らず。某の人は行儀余り有りて学問足らず」と。(いず)れか学問余り有りて行儀足らざる者有らんや。(びゅう)(げん)と謂いつ可し。 

岫雲斎
孔子の学問は、己の修養に先ず努め人や事に接しては、敬や慎みを忘れないことから天下万民を安んずる事に至るまで、専ら実際のことを処する実学である。「書物を学ぶこと、学んで実行すること、真心を尽くすこと、偽り無き事」の四つを人々に教えた。そして、常に言うことは「詩経、書経の精神であり礼記の通りに礼を守る」ことであり、決して詩を誦し書の講読専一ではない。だから当時の学問をした者は敏い者、鈍な者はいたが各自がその器を大成させ得たのである。このように人は皆、道を学び得るものであり人により能、不能があるのではない。後世になるとこの孔子の学問も堕落し芸一途になった。何事も良く知っていたり一度目を通すと即座に暗記するなどは芸である。詩文の才能があり自在に千言のものを立ち所に書き下すなどは優れた芸である。学問は人格を作るという根本を逸脱してこのように芸に堕落したので、出来る、出来ないの差異が生じた。こうなると学問は躬行(きゅうこう)実践より離れてしまった。世間は「誰それは学問はあるが行いが欠けているとか誰は行いは十分だが学問が足りない」とか言うようになった。一体、孔子の学を修めた者で、学問が有り余り、行いが欠けている者があろうか、ある筈はなく世間の言は誤りと云うべきである。

14日 5.  
内外の工夫

凡そ教は外よりして入り工夫は内よりして出づ。内よりして出づるは必ず()れを外に(ため)し外よりして入るは、当に()れを(うち)(たづ)ぬべし。 

岫雲斎
教えは全て外から入ったものだが工夫は自分が考えだすものだ。自ら考えたものは、これを外で験し証明しなくてはならぬ。
外からの知識は自分で正否を検討しなくてはならぬ。

15日 6.

自重(じちょう)を知るべし

吾人は須らく自ら重んずることを知るべし。我が性は天爵(てんしゃく)なり。最も当に貴重すべし。我が身は父母の遺体なり。重んぜざる可からず。威儀は人の観望する所、言語は人の信を取る所なり。亦自重せざるを得んや。 

岫雲斎
我々は自分の身を尊重しなくてはならぬ。なぜなら各人の本性は天から与えられたものだからである。身体は父母が遺したものだからこれ又、大切にしなくてはならぬ。自分の動作は人の観るものであり、言葉は人の信用を得るものであり、どちらも自重しなくてはならぬ。

16日 7.

聖人の態度
聖人は、清明()に在りて()()神の如し。故に人の其の前に到るや(しょう)(ぜん)として敬を起し、敢て褻慢(せつまん)せず、敢て諂諛(てんゆ)せず。信じて之に親み(ことごと)く其の情を(いた)すこと鬼神の前に到りて祈請(きせい)するが如きと一般なり。人をして情を(いた)さしめること是の如くならば、天下は治むるに足らじ。 

岫雲斎
聖人の心は清らかで明るく、気も志も神様のようである。だから聖人の前に出ると、人々は恐懼し尊敬の念を起す。狎れたり侮ることもしないし媚びたり諂うこともしない。心から信頼し親愛の情を抱き真心を捧げる。丁度、鬼神の前でお祈りするようである。
このように人をして真情を捧げるようになれば、天下を治めることは誠に容易になるのである。

17日 8.

過去を想起せよ
人は当に往時に経歴せし事迹(じせき)(つい)()すべし。「某の年為しし所、(いず)れか是れ当否(とうひ)なる、敦れか是れ生熟(せいじゅく)なる。某の年謀りし所、敦れか是れ穏妥(おんだ)なる、敦れか是れ()()なる」と。此れを以て将来の(かん)(かい)と為さば可なり。然らずして徒爾(とじ)汲々(きゅうきゅう)営々(えいえい)として、前途を算え、来日(らいじつ)を計るとも、亦何の益か之れ有らむ。又尤も当に幼稚の時の事を憶い起すべし。父母鞠育乳哺(きくいくにゅうほ)の恩、()(ふく)懐抱(かいほう)の労、撫摩憫恤(ぶまびんじゅつ)の厚き、訓戒督(くんかいとく)(せき)の切なる、凡そ其の艱苦して我を長養する所以の者、(ことごと)く以て之を追思せざる無くんば、則ち今の自ら吾が身を愛し、()えて自ら軽んぜる所以の者も、亦宜しく至らざる所無かるべし。

岫雲斎

人間は過去に経験した事柄を想起すべきである。
「ある年に自分がした事はどちらが正しかったか。
どちらが出来栄えが良かったのか。
計画はどうであったか」こうして未来の教訓を得るが良い。
そうでなく徒らに、こせこせあくせく先々の思案をしても益はない。
誰でも人間は、幼少時を思いだして見るべきだ。
父母が養育して乳を飲ませてくれた恩、いたわって懐に入れて抱いたり、撫でたりさすったり、憐れんでくれた温情、訓戒したり責め詰ったりしてくれた親切心等など、凡そ父母が艱難辛苦して育ててくれた事など全てを追憶したならば、自分が我が身を愛し、軽々しくしてはならぬと、行き届いたものとなるであろう。

18日 9      

心の霊光

人の世に処するには、多少の応酬、塵労(じんろう)閙攘(とうじょう)有り。膠々(こうこう)擾々(じょうじょう)として起滅(きめつ)すること(たん)()し。(よつ)()た此の計較(けいこう)揣摩(しま)きん羨(きんせん)慳吝(けんりん)など、無量の客感妄想を生じぬ。(すべ)て是れ習気之れを為すなり。之を魑魅(ちみ)(ひゃく)(かい)(こん)()に横行するもの、太陽の一たび出ずるに及べば、則ち遁走して(あと)を潜むるに(たと)う。心の霊光は、太陽と(あかり)を並ぶ。能く其の霊光に達すれば、即ち習気消滅して、之れが(えい)(るい)を為すこと能わず。聖人之を一掃して曰く、「何をか思い何をか(おもんばか)らん」と。而して其の思は(よこしま)無きに帰す。邪無きは即ち霊光の本体なり。 

岫雲斎
生きている以上、多かれ少なかれ、交際あり、迷い事あり、煩瑣あり、それらが発生したり消滅したりの連続である。だから、色々と比較したり、推測したり羨望したり、ケチってみたり、外界の変動に応じて感情や邪念が生まれる。みな全て、世間の習慣のもたらすものだ。この様々な妖怪変化は、暗闇で跋扈しているだけで、一たび太陽が出れば、直ちに霧散して跡形もなくなる如く、心の霊光は、太陽と明を並べられる存在である。心がそのような霊光に到れば、後天的な悪習慣は霧散消滅し、様々な煩いは消え去ってしまう。聖人は、これらを払いのけて言う「何を思い煩うのか何を考えているのか」と。結局、我々の邪な思いが無くなれば良いと言うことに結論づけられるのである。

19日 10

言葉を慎め

天地(かん)の霊妙なるもの、人の言語に()く者()し。禽獣の如きは(ただ)に声音有りて、僅に()(こう)を通ずるのみ。唯だ人は則ち言語有りて、分明に情意を宣達(せんたつ)し、又()べて以て文辞と為さば、則ち以て之を遠方に伝え、後世に()ぐ可し。一に何ぞ霊なるや。惟だ是くの如く之れ霊なり。故に其の()(かい)を構え、釁端(きんたん)()すも亦言語に在り。譬えば猶お利剣の善く身を護る者は、(すなわ)ち復た自ら傷つくるがごとし。慎まざる可けんや。

岫雲斎
大自然で不思議なものは人の言語であろう。禽獣はただ音声を発するのみで相互間の意思疎通をするのみである。人間にのみ言葉があり、自己の意思を明快に述べたり伝えたりする。文章にすれば遠方に伝えられるし後世の人々に告げることも可能である。不思議なことである。このような不思議なものであるから、禍の始めとなったり争いの発端を造ったりするのも言葉である。例えば、よく切れる刀剣は護身のものであるが容易に我が身を傷つけるようなものである。だから言葉は慎まなくてはならぬ。

20日 11.

人に背く勿れ
「寧ろ人の我に(そむ)くとも、我は人に負く(なか)らん」とは、(まこと)に確言となす。余も亦謂う「人の我に負く時、我れは当に吾れの負くを致す所以を思いて以て自ら(かえ)りみ、且つ以て切磋(せっさ)砥礪(しれい)の地と為すべし」と。我に於て多少益有り。()んぞ之を(きゅう)()すべけんや。 

岫雲斎

「人が自分を背いても、自分は人に背かない」と云うことは至言である。自分も言う、「人が背いた時は、自分が背かれるに至った原因を反省して徳を磨く土台にすべきである」と。こうすれば自分にとり大きく得るものがある。だから仇敵視しないことだ。

21日 12.

教えにも術あり
誘掖(ゆうえき)して之を導くは、教の常なり。警戒して之を(さと)すは、教の時なり。躬行(きゅうこう)して以て之を率いるは、教の(もと)なり。言わずして之を化するは、教の(しん)なり。抑えて之を揚げ、激して之を進むるは、教の権にして変なるなり。教も亦術多し。 

岫雲斎
子弟の側にいて援け導くのは教育の常道、邪道に入るのを戒め諭すのはタイミング良し。自ら率先して道を示すのが教育の根本。黙って教化するのは教育の最高の方法である。抑え付けて、褒めて、激励して進ませるのは方便であり臨機応変の手法である。教育の方法は幾多もある。

22日 13.

上役の心得
小吏有り。(いやしく)も能く心を職掌に尽くさば、長官たる者、宜しく勧奨して之を誘掖(ゆうえき)すべし。時に不当の見ありと雖も、而れども亦宜しく(しばら)く之を容れて、徐々に諭説(ゆせつ)すべし。決して之を抑遏(よくあつ)す可からず。抑遏せば則ち意(はば)み気(たゆ)みて、後来(こうらい)遂に其の心を尽さじ。 

岫雲斎
部下が懸命に自己の職務に尽くしておれば、上役は、励ましたり褒めたりするがよい。時に不当な見解があっても先ず暫くはこれを受け容れて機会を見て少しづつ諭すのがよい。頭ごなしに抑圧的にやらないことだ。抑圧的にやれば、意欲が喪失して弛むし、真剣にやらなくなるだけだ。

23日 14.       

 
公務にある者の心得
官に居るに好字面(こうじめん)四有り。公の字、正の字、清の字、敬の字なり。能く此れを守らば、以て過無かるべし。不好(ふこう)の字面も亦四有り。私の字、邪の字、濁の字、傲の字なり。(いやし)くも之を犯さば、皆禍を取るの道なり。 

岫雲斎
官僚に好ましいことは四つある。
公・正・清・敬である。
これを守れば過失は起きない。
反対に良くないことは、私・邪・濁・傲である。

これは官僚にとり禍への道である。

24日 15.  

急事を急がぬ錯慮(さくりょ)

凡そ人の宜しく急に()すべき所の者は、急に做すことを(がえん)ぜず、必ずしも急に做さざる可き者は、(かえ)って急に做さんことを(もと)む。皆錯慮なり。()の学の如きは、即ち当下(とうか)の事、即ち急務実用の事なり。「謂うこと勿れ、今日学ばずとも来日有り」と。(えん)を張り客を会し、山に登り湖に(うか)び、凡そ適意游(てきいゆう)(かん)する事の如きは、則ち宜しく今日為さずとも猶お来日(らいじつ)有りと謂う可くして可なり。

岫雲斎
人間というものは、急いでしなくてはならぬものを急いでやらないで、急がないことに早く手をつけている。間違いである。斯の学問即ち聖人の学問は、即刻為すべき事や実際の役に立つ事を教えている。今日学ばなくても明日がある、などと怠けてはならぬ。宴会で客を集めたり、登山したり、舟遊びをするような、心のままに遊び楽しむ事などは今日でなくても明日があるではないか。

25日 16     

人は自ら累す
人或は謂う、「外物累を為す」と。愚は則ち謂う、「万物は皆我と同体にして必ずしも累を為さず。蓋し我れ自ら累するなり」と。 

岫雲斎
人は外物の為に煩わされるというかもしれない。だが、自分は「万物はすべて皆自分と一体であるから煩わされない。思うに煩わされると言うのは自分自身のことであろう。

26日 17.

過は不敬に生ず

()は不敬に生ず。能く敬すれば則ち過(おのずか)(すくな)し、()し或は(あやま)たば則ち宜しく(すみやか)に之を改むべし。速に之を改むるも亦敬なり。顔子(がんし)()(ふたた)びせざる、()()の過を聞くを喜ぶが如きは、敬に非ざる()きなり。 

岫雲斎
過ちは、敬、即ち慎みの欠けた結果である。よく敬を以て慎み言動すれば過ちは少ないものである。もし、過ちが起きたら直ちに改めるのがよい、過ちを改めるのは敬であり慎むことなのだ。孔子の弟子顔回が同じ過ちを二度しなかったこと、子路が自分の過ちを注意してもらうのを喜んだのも全て敬、則ち慎むことなのだ。

27日 18.

一志を立てよ
閑想客感(かんそうきゃくかん)は、志の立たざるに()る。一志既に立ちなば、百邪退聴せん。之を清泉(せいせん)湧出(ゆうしゅつ)すれば、(ぼう)(すい)渾入(こんにゅう)するを得ざるに(たと)う。 

岫雲斎
つまらぬ事を考え出したり、外のものに動かされるのは、自分の志が確立していないからだ。一つの志が強固なものであれば、邪念は退散してしまう。それは、恰も清泉が滾々(こんこん)と湧きでると傍らの汚れた水が混入しないようなものだ。

28日

19.

公欲と私欲

心を霊と為す。其の条理の情識に動く。之を欲という。欲に公私有り。情識の条理に通ずるを公と為し、条理の情識に滞るを私と為す。自ら其の通滞(つうたい)を弁ずる者は、即便(すなわ)ち心の霊なり。 

岫雲斎
心というものは霊妙なものである。その心の中にある理性が感情により支配されるのが欲である。この欲には公欲と私欲がある。理性により支配された意識が公欲である。感情により理性が停滞した場合が私欲となる。この二つをどう弁ずるかは心の霊妙な働きによるのだ。

29日 20.

宇宙はわが心
()は是れ対待(たいたい)の易にして、(ちゅう)は是れ流行の易なり。宇宙は我が心に外ならず。 

岫雲斎
宇宙は我が心の悟りの根源だ。なぜなら、宇は無限の空間、易では、宇宙万物は相對により変化して空間的に、時間的に、各々その宜しきを得て調和している、これは我が心のようなものである。