人物と教養E 平成25年2月  安岡正篤先生講話 

    第三講 人間の根本義 仏教について()

平成25年2月

1日 肝腎(かんじん)(かなめ) だから肝腎(かんじん)(かなめ)は、肝()、腎()、腰が本当の意味であります。この三つは健康にとって最も大切な要素であります。中でも、腰は上体と下体を結ぶ文字通り要であって、腰が悪いと上下が疎隔し断絶して諸々の不健康の原因になります。また肝臓はあらゆる意味で最も大切な器官でありまして、ここから心臓に血液を送り、それが循環系統を通って、最後に腎臓にはいって浄化され、廃液を便や小水にして出す。正に腎臓は公害除去の大切な浄化装置です。そういう意味で「肝腎要」という語は、医学的にも道理にかなった真理を掴んだ面白い話であります。
2日 身業口業 これは身業の方でありますが、口業の方を考えてみましても、中々これを正すと言う事は難しいものです。食一つにしても、人間というものは意外に悪食をやるものであります。殊に若い時は、なーに、病気になれば医者もおる、薬もある、などと考えて安心して暴飲暴食をやったりするものでありますが、本当は医者ほど頼りにならぬものはないのであります。
3日 保険医療

病気はわかったが、患者は死んだ、というのでは何にもなりません。保険医療にしても本来の立法の目的を失って、医者は薬屋と結託してむやみやたらに患者に薬をあてがう、昔は医者から薬を貰うと言っても、小さなビンにはいった水薬と粉薬ぐいなものでしたが、この頃は風呂敷でも持って行かなければ持ちきれない程くれる。くれるのではなくても不良・不正商売をしておるのです。だから心ある医者達はヘドロヘドロと騒ぐ田子の浦り、患者の身体の方が薬のヘドロで大変だと苦笑いしております。

4日 一般民衆は恐ろしいほど無知

医学的・生理学的に言う本当の栄養と言うものから考えると、一般民衆は恐ろしいほど無知であり間違っております。つい先日も或る財界人を病院に見舞いに参りましたところが思ったよりも大変元気で,目下体力をつける為にビフテキや鰻、卵、チーズの類を懸命に食べていると言うのです。それで私は、あなたの考え方は前世紀の考え方で、最も非医学的である。大体、卵などで力がつくと思うのは無知蒙昧も甚だしいもので、人間の身体は弱アルカリ性に保っておかなくければならぬのに、卵の黄身ぐらい酸性の強いものはない。これでは進んで悪くしておるようなものただ、と言うと、それでは栄養が摂れぬ、と申します。まあ、ああ言えばこう言うて説得するのに骨が折れましたが、そういう間違った考え方が多いのであります。

5日 医王

その点から言うと、釈迦や孔子はなかなか大変な衛生家であり、生理・病理に通じた人であります。仏のことを、医王、医者の王様と言いますが、正に仏・釈迦は医王であります。自分で深遠な哲学を修めながら、民衆には易しく教化され、民衆を救う為に正しい心の持ち方・生活の仕方を諄々と説かれておられる誠に頭の下がるところであります。とにかく、身体にしても口にしても、正しくすると言うことは難しいもので、況や、意思となると自由や我がままが利くだけに尚大変であります。その身・口・意の三業を正しくする、これが正業であります。

6日 (しょう)(みょう)

第五が「(しょう)(みょう)。平たく言うと、正しい運命感を持つということです。うろうろしないで絶対的な決定(けつじょう)を持つことでもあります。人間というものは絶えず、俺は何でこんな貧乏な家に生まれたのだろうか、とか、俺はどうしてこんなに頭が悪いのだろうか、とかつまらぬ事を考えるものですが、これは正しい運命感を持っておらぬからでありまして、そういうのを妄念、妄想と言います。人間は貧乏であることがどんなに幸福であるか知れないのです。病身であることがどんなに意義を持つか知れないのです。

7日

先程の真向法の長井さんにしてもそうであります。脳溢血で半身不随になった為に、あのような健康体操を発明され、更にご自分も健康と長寿を得られたのです。思いがけぬ交通事故が原因で亡くなられましたけけれども、それでも70幾才でした。もし脳溢血がなければ、恐らく平凡にして極めて俗な実業人で一生を終わったでありましょう。脳溢血のお蔭で自分の生まれたお寺の宗旨に帰って、自らの身体を救い、さらに苦悩している人々を救うようになったのであります。やっぱり、人間は正命、正しい運命感を持たなければいけません。

8日 運命観は
宿命と立命の二つ

運命観には宿命と立命の二つあります。宿命は自由の利かない他律的な運命感でありますから、これは正命とは言えません。と言うのは、運と言う字は、所謂「うん」ではなくてはこぶ(、、、)という意味であり、命は無限の創造、限り無きクリエーションでありますから、その本義に基づいて、出来るだけ自分が自分を開拓して行こうとする立命観が(しょう)(みょう)です。

9日 正精進(せいしょうじん)

その正しい運命感を確立すると、今度は正しい進歩・向上の努力する、これが「正精進」であります。 正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進によって、次第に現象的な生活から実体、真実の世界へ入って参ります。

10日 正念(しょうねん)

身の持ち方・心の持ち方・行為の仕方・観察・思惟の仕方、全てが現実の空虚なものとして、即ち相を捨てて実に入るわけです。我々の意識は変化してやみませんが、それは表面的な意識で、その底の意識しない深い層には無意識の世界がある。この無意識の世界に根ざすことによって、直観の世界、深い思索の世界が生まれてくる。これを「正念」と申します。

11日 正定(しょうてい)

そうして、とりとめのない軽佻浮薄な意識を深めて行くと、何ものにも動じない安定した確立の境地に到達する。これが「正定」であります。ここまで来ると、もう何事があっても動揺することがありません。
以上が「八正道」でありまして、仏教を学ぶものは先ず八正道を学び行じなければなりません。

12日 三学

第一は 戒

次に、この「八正道」に対して「三学」というものがあります。第一は「戒」。八正道を行じてゆく上に於て、どうしても守らなければならぬいましめ(、、、)であります。悪食をしないとか、妄想をしないとか、いろいろ戒がありますが、とにかく戒がなければ正道は立たないのであります。

13日 規律と犠牲の精神の回復を

戒は国家で言えば法です。法は国民の戒であって、国民がこれを守らなければ国は立ちません。先程、申しましたアンドルー・ハッカー氏は「アメリカ時代の終り」の中で、「今日の頽廃・堕落を救うためには、もう一度アメリカ人は厳しい規律と犠牲の精神を回復しなければならない。然し今日の、特に戦後のアメリカ人は、その繁栄の故に享楽と贅沢のみを知って、もう昔のワシントンやジェファーソン、リンカーンと言った先祖達が独立とその発展のために努力した苦心・苦労というものを知らないから、今更厳しいことを言うてもダメであろう。従ってアメリカが昔のように復興できるかどうか、大きな疑問である」と言うております。

14日 日本の課題

ジェームス・パーナムもハッカーと同様悲観的で、その著「自由主義の終焉」の中で「今日の我々の思想や文化というものは、丁度白鳥が死に際に奏でるメロディのようなものだ」とまで極論しております。とにかく人間でも国でも、戒を失ったら、別の語で法や規律を失ったら、もう終りであります。日本も今や本当に無法になって、余ほど哲人的な志と行を持たなければ救えないと思うのですが・・。果して、こういう政治や教育をやって将来日本はどうなってゆくか、これは我々にとって大きな課題であります。

15日

三学

第二は定

第三は慧

第二に「(じょう)」、いわゆる腰を据えるということです。戒を守り、定を守り、そこから初めて智慧が生まれる。これが第三の「()」であります。慧は智でもよいわけですが、仏教では現象世界に関する我々の観察・思索を智と言い、実体に関するそれを慧と言うています。つまり有為に対する無為の世界、意識の深層の世界で思索・知能を()いうわけです。
16日 五力

以上、戒・定・慧の三つに関する学問、これが三学であります。然し、これを行ずるのは生易しいことではありません。非常な努力が要ります。その努力が「五力」であります。

17日 信・勤・念・定・慧

第一は「信」。先ず信じなければなりません。第二は「(ごん)」。努力、務めることです。第三は「念」。我々がいろいろ意思する、そこから正念が生まれる。念とは、瞬時も忘れることなくという意味であります。そうして、ふらふらしない。これが「定」。定-決定によって初めて本当の智慧、即ち最後の「慧力」が生じる。これを五力と申します。

18日 思う念力岩をも通す

昔から「思う念力岩をも通す」と言う言葉がありますが、これは本当でありまして、始終念じていると、そういう不思議な力が生じてきます。例えば、熱心に何かを研究したり、調べたりしておって、その参考書を本屋に探しに行く。あの何千冊、何万冊とある本の中から直ぐ自分の欲しい本を見つけ出すことができる。本当に不思議なくらいです。これは単なる偶然ではありません。自分は意識しなくとも実は念力が働いているわけです。

19日 片倉鶴陵の夢 徳川時代に片倉鶴陵という漢方の名医がおりまして、「(しょう)寒論(かんろん)」という東洋医学の教典を熱心に研究しておった。傷寒論は東洋医学の論語か法華経と言われるものでありますが、何分文字が抜けたり、混入したり、或は誤りがあったりして、それこそ心血を注いで勉強したが、どうしても分らぬ所が沢山ある。
20日

或る時、百計尽きてうとうとしておった所が、夢となく(うつつ)となく、この本の著者である張仲景(漢代の人)とおぼしき人物が現れて、お前の篤志に感じて疑問の点を教えてやろう、そう言って分らぬ箇所を詳細に教えてくれた。

21日 余りのことに鶴陵も感激して、ふっと気がついてみると、もうその姿はどこにも見えなかった。この話は鶴陵自身が告白しておるのでありますが、やっぱり彼の苦心研究がそういう念力を作り出したのであります。
22日

念力の作用

こういう事は、普通の人間でもよくあることです。例えば、何か疑問な点があって一所懸命考えるがわからない。処がその一所懸命考えている時にわからなかったことが、ふとしたきっかけでいとも簡単に解決することがある。意識しておる時にわからなかったものが、無意識になってわかる。
23日 如何にも奇跡に見えますが然しこれは決して神秘でもなければ奇跡でもないのです。無意識の世界というものは色々な智慧が沈滞していて、それが念力によって表へ出てくるわけであります。そうして、その念力は又「(じょう)」から来ておるのであります。
24日 六度=救われる
六つの原則

更に実践的に「六度」ということが教えられています。
第一は「布施」。人間は慈悲、感謝の気持ちから善い事のためには出来るだけ布施をしなければなりません。欲に固まって取り込むばかりではダメでありまして、自分のものを人に分かつということが大切です。
第二は「持戒(じかい)」。戒を持つことです。

25日 忍辱  

精進
第三は「忍辱(にんにく)」。はずかしめを忍ぶ、恥を忍ぶ。たとえ気に入らぬ事があっても、屈辱を感じても直ぐ昂奮したり報復したりしない。ぐっと耐えて内省する。全ては自分の鍛錬・修行の縁であると知って忍ぶ。そして「精進」すると共に常に心を無我の状態に安定する。
26日 禅定

これが「禅定(ぜんじょう)」であります。そこから本当の「智慧」が生まれる。単なるノレッジ(knowledge)ではなくてウィズダム(wisdom)が生まれてくるわけです。極めて皮相な大脳皮質の働きがノレッジで、意識の深層から発する智慧がウィズダムであります。以上の布施(ふせ)持戒(じかい)忍辱(にんにく)精進(しょうじん)禅定(ぜんじょう)智慧(ちえ)、これが人間を済度(さいど)する。また救われる六つの原則であります。

第五講 仏教について()
27日 事務と時勉 曾ってこの講座の中で、ジムということには、ビジネスの「事務」と、時の務めの「時務」の二つがあって、大切なのは時務の方であると申しました。事務の方は基礎さえあれば、多分に機械的に済むことでありますが、時務の方は、時という文字が示す通り、その時・その場・その問題に対して、その人間が如何に為すべきかという活きた問題ですから、どうしてもその根本にその人の教養、信念、識見、器量というものが大切になって参ります。教養や識見が無ければ真実は見ぬけません。それにはやっぱり最初に申しあげた「思考の三原則」とか、歴史の教訓、文化遺産に学ぶことが必要になって参ります。
28日 化外(けがい)の地

例えば、今喧しく言われている台湾問題にしてもそうであります。台湾がどういう歴史の国であるかというようなことは、今日の講義に必要ありませんが、とにかく中国人自身、台湾を「化外(けがい)の地」と称して未だ曾って正式な意味での自国の領土であるなどとは思ったことはなかったのであります。歴史的に中国人の国境意識、領土意識というものはヨーロッパ諸国などとは非常に違っております。ご承知のようにヨーロッパはアジア大陸の西北に突き出た半島で、その狭い半島の中に数十もの国がひしめいておって、絶えず治乱興亡を繰り返してきておるのです。だから山一重、川一筋で、甚だしきに至っては街道一本で国境を接しておるような国ばかりですから、国境意識とうものは非常にはっきりしています。