人心の正否

群夷競ひ来る。国家の大事とはいへども、深憂とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり。苟も人心だに正しければ、百死以て国を守る。 

其の間勝敗利鈍ありといへども、未だ遽かに国家を失ふに至らず。苟も人心先ず不正ならば、一戦を待たずして国を挙げて夷に従ふに至るべし。然れば今日最も憂ふべきものは、人心の不正なるに非ずや。(講孟余話・吉田松陰) 

総じて策士俗人の目のつきやすい処は形の上のことである。然し真の志士先覚者はその精神如何を見る。機械兵制は末であり、人心が本である。本立たずして、どうして末の全きものがあろうか。根本たる人心が不正のままにいたならば、如何に法を厳にし制度を整え、為政者が声を涸らして叱呼するも、効果の見るべきものはなかろう。おそるべき憂ふべきは外敵ではない。

ただ我等人々の心の正しからざるこそ深き憂であるのだ。されば松蔭も「獄舎問答」中に「今の務むべきものは、民生を厚うし、民心を正しうし、民をして生を養ひ死に喪して憾みなく、上を親しみ長に死して背くことなからしめんより先なるはないし。是れを務めずして砲と言ひ艦と言ふ。砲艦未だ成らずして、疲弊之に隋ひ、民心是に背く。策是れより失なるはなし」という所以である。 
            安岡正篤先生の言葉