安岡正篤先 「経世と人間学」 2 

平成21年2月

学道に進む道

2月 1日

南村(みなみむら)(ばい)(けん)

「学に進むに(ぜん)あり。速かに成らんことを欲する(なか)れ。唯循循(ただじゅんじゅん)として()まざれば則ち遂に必ず得ることあり。

既に得ることあれば則ち又已むこと能はず。故に学んで三年・間断(かんだん)なくんば則ち得る所あるなり」。南村(みなみむら)(ばい)(けん)

2月 2日 インスタント

戦国の末期、土佐藩の武士階級に非常な感化影響を与えた哲人的学者・南村梅軒が、学問について「速成ということを考えてはならない。

順序段階を踏まなければならない」と戒めた言葉であります。
速成という言葉は、今日の流行語で申しますと、インスタントであります。これが流行すると、人間は努力をしなくなります。
 
2月 3日 肝腎(かんじん)(かなめ)

料理通の友人から教わった話でありますが、この頃は雉や鰻の速成飼育をやるものですから、昔のような肝料理は食べられません。速成のため特殊な飼料や薬品を与えるので、肝だけは駄目だそうであります。やはり肝は年を重ねて自然に出来たものが一番であります。

大事なことを肝腎(かんじん)(かなめ)と申しますが、人体で最も大切な臓器は肝臓と腎臓と腰であることは学理的にも明瞭であります。この肝の養成には長い年月と修養が必要です。甘く育てられた人間やふらふらした人間には肝がありません。肝臓を悪くかると必ず腎臓を病み、腰がふらふらして据わらなくなります。 
2月 4日 ギリシャやローマの滅亡した原因 この頃街を歩くとよく腰のすわつておらない若者を見かけますが、これは亡国的現象であって、民族の将来を担う若者がこうなっては余程の注意と警戒が必要であります。ギリシャやローマの滅亡した原因もここにあります。 然るに今や総てがインスタントの流行となりまして食物はもとより、知識や教育にいたるまでインスタントになってしまって、人間は努力を忘れてレジャーを楽しみ、これが二十一世紀の輝かしい科学文明の勝利だなどと云っておると、大変な結果を招くことはもう疑問の余地がありません。
2月 5日 (はん)厭う(いとう)」 貝原(かいばら)益軒(えっけん) (はん)(いと)うは()れ人の大病。()人事(じんじ)廃弛(はいち)し、功業(こうぎょう)の成らざる所以(ゆえん)なり。(けだ)事物(じぶつ)の応接煩多(はんた)と雖も、皆是れ吾人(ごじん)(まさ)に為すき所、分内(ぶんない)の事なり。但だ序に(したが)って(ぜん)()せば、則ち心を苦しめ力を労するの(かん)無くして、(ぎょう)を果たし事を成すの功有り。  程子(ていし)曰く、
是れ事・心を(るい)するに非ず。却って是れ心・事に累せらるるなりと。朱子曰く、学者常に細務(さいむ)(みずか)らするを要す。心をして()ならしむるなかれと。此等の言、放惰(ほうだ)にして事を厭う者の(いましめ)と為すべし。今の学者往々(おうおう)煩を厭うの病あり。(つい)に事の()さざる所以なり」。
   貝原益軒・慎思録。
2月 6日 人間の大病

貝原益軒が「煩を厭うは是れ人の大病である」とその随筆集・慎思録に書いております。わずらわしいことを避けて、なるべく簡単にしようとするのは人間の大病であって、その為に人事に関する問題が駄目になり事業が成功しません。

どんなに煩わしい事が多くても、すべて自分のことは自分でやらなければなりません。幾らうるさいことであっても、順序よくやりますと意外に苦労が少なくて成功するものです。
2月 7日 心を緻密に 宋初の哲人である(てい)明道(めいどう)が「問題や事件が、心を累するのではなく、人間が勝手に事に累せられるのであって、主客転倒である」と申しております。 朱子は又「人生を学ぶ者は常に細かいことをやって、心を緻密にしなければならない」とも言っておりますが、これはやりっぱなしの怠け者が、事を厭うのに対する切実な戒めであります。この頃の学者は根気がないものですから、煩を厭いそのために失敗する例が多いものです。
2月 8日 湖南省 蒋介石総統が崇拝している清末の偉人に曽国藩という人があります。この人は湖南省出身の代表的人物でありますが、湖南省からは色々 な人物が出ておりまして今日でも多いことであります。
また毛沢東も湖南省出身でありまして、蒋介石と毛沢東と取り組みはまことに面白いものがあります。
2月 9日 (よん)(たい)

曽国藩という人は長髪賊の大乱を鎮定するのに大功のあった人です。この人の座右の銘に、「四耐(よんたい)」−(たい)(れい)(たい)()耐煩(たいはん)(たい)(かん)、という大変きびしい言葉があります。

先ず「冷」に耐えるということ、人間は世間の冷たいことに耐えなければならない、まち苦しみにも耐えなければならない、煩わしいことにも耐えなければならないのであるが、最後に比較的耐えやすいようで最も難しいのが(ひま)に耐えることであります。
2月10日 「忙」は精神的空虚化 「ひま」になると、心が散漫になって頭が早く呆けます。最近はお互いに非常に忙しいから閑に耐えるというような必要が無いかも知れませんが 実はその忙は精神的空虚化ですから、たまたま病んだり、仕事がなくなると忽ち身体の調子が狂ってきて急にふけます。そこでこの閑に耐える工夫が大切であります。
2月11日 (よん)() さらに曽国藩は「(よん)()不激(ふげき)不躁(ふそう)不競(ふきょう)不随(ふずい)、という四つの戒めを残しております。 大事をなさんとする者は興奮しては駄目である。ばたばたしてはいけない。またつまらぬ人間と競争してもいけない。
然し、人のあとからのろのろとついていくのは最もいけない。
2月12日 活眼を開いた人物 実に味のある戒めでありますが、これを実際に行うことは非常に難しいことですから、自由に出来る人は余程の人物です。こうゆう心境が養われ、行動が出来るようになると人生のいかなる問題に直面しても、騒いだり悩んだりしなくなりましょう。
要するにこういう人物が出てきませんと今日の時局は救われません。
大学騒動の実態を見るにつけても、絆創膏貼りや頓服・注射の処置で片付く問題ではありません。真にこういう活眼を開いた人物によって、不激(ふげき)不躁(ふそう)不競(ふきょう)不随(ふずい)、世と人の正常化をはからなければなりません。
(昭和四十四年六月二十七日講話)
第二講 
小事と人格」
2月13日

「中庸」の意味

例年になく酷暑の続いた夏も漸く終わって初秋を迎えました。これから読書の季節となるわけでありますが、この夏を通じて、思想界・学界の動きを注目しておりますと、随分色々な出来事がありました。その一つの特徴として大学の権威の失墜があげられましょう。

大学騒動が刺激となりまして、従来のジャーナリスチックな思想動向にきびしく批判と内省が加えられ、その影響で、流行の経営学理論まで批判をあび、中には経営学など役に立たん、経営学で有名な社長の会社が倒産して話題になるなど、結局経営者の人物・精神・心構えが改めてとりあげられるようになったのも一つの特徴であります。
2月14日 本当の(ちゅう) いつの時代でも行過ぎては本にもどり、それが沈滞しますと、反体制運動が起こり、そしてまた行過ぎるようになって、なかなか中道を歩むということは難しいことであります。中道の「中」を多くの人は、相対する二点を結んだその真ん中であるという様に、非常にスタチックと申しますか、動的に対する静的な観念のように誤解致しますが、 本当の(ちゅう)とは、もっと動的な、つまりカイオネチックとかダイナミックという言葉で表現されるものであります。事実人間世界には絶えず堂々巡りが繰り返され、あっちへ行ったり、こっちへ来たりする現象が多いものですが、これは両方の矛盾を統一して一段高い所へ進む過程であって、これが本当の(ちゅう)であります。
2月15日 武士道の荘厳な「中」 従って、本当の(ちゅう)というものは非常に難しいものであります。中庸に「()(のたまわ)く、天下国家も(ひと)しうすべきなり。(しゃく)(ろく)も辞すべきなり。白刃(はくじん)も踏むべきなり。中庸は()くすべからざるなり」とありますが、これを今日の言葉で表現いたしますと、一つのイデオロギーで世

界を統一するということは大変難しいことであるが、やって出来ないことではない。
名誉ある地位や富貴を辞退することも決して困難ではない。また白刃の脅威を怖れない人でも、中庸を実践することは大変難しいことだと孔子は申しておるのであります。これは哲学だけの問題ではなく、あらゆる芸道に通ずる問題であります。特に日本の武道にはこの中の思想が荘厳という言葉で表現してよいくらい見事に実現されております。

2月16日 武道の原理「(しゅ)()() 戦国以来発展しました武道には色々な極意(ごくい)というものがありますが、これらに共通している点はこの(ちゅう)の原理であります。一刀流(いっとうりゅう)には一刀流の型、無念流(むねんりゅう)には無念流の法というものがあって、皆それを「守」って鍛錬精進するのでありますが、またこれらの 型や法にとらわれず、新しい型を編み出すことを「()」と申しまして、これは方法を誤ると無規律・放埓(ほうらつ)になりやすいものです。
そこで本当はこれらを解脱しなければなりません。これを「()」と言って、「(しゅ)()()」の三つは武道の原理であり原則であります。
2月17日 大学問題

これを現代に適用しますと、昨今の大学問題が挙げられましょう。大学制度は明治以来「守」の方が固定化して、内容が乏しくなったため、これに対する「破」、反体制運動がおこり、

固定化した大学を改革しようとして行き過ぎたり堕落した結果、どのように転回し収拾するか、つまり「離」にもっていくかということに当局者はもとより、思想家・評論家の間からも活発な意見が出ているのが現状であります。
2月18日 必要な精神性 然し、これは議論や単なる思索ではだめであって、やはり真剣な精神的自覚や努力が本体とならなければ、決して成功するものではありません。モデル大学を作ることが内閣でも問題となっておりますが、これもただ観念や形式では先が見え透いておりまして、失敗した例が外国に沢山あります。この間カナダから来た人の話によりますとバンクーバーの近くの大変 景色のすぐれた山紫水明の理想的な場所を選んで立派な施設で、その上勝れた教授を集めてモデル大学をつくったそうでありますが、理想どおりに運営できず現在ではビートルズやヒッピーのたまり場のような学校になってしまつておるということであります。日本のモデル大学も余程運営管理をしっかりやらなければ、このようなとんでもないモデル大学になる(おそ)れがありますから容易なことではあれません。 
2月19日 生きた精神・魂のこもった教育

処が我が国には過去の歴史を調べてみますと、成功した例が沢山あります。例えば、林述斎(はやしじゅつさい)とか佐藤一斎(さとういっさい)とか広瀬淡(ひろせたん)(そう)の様な、人間としても人の師としても勝れた上、学問にも卓越しておったこれらの先生達が生きた精神・魂のこもった教育を行っております。その組織或は教育施設が成功した例であります。

つまり生きた人物と精神のかよった設備だけでは人間教育はできません。そこで最近ますます人間学というものが力説されるようになってきましたが、かかる意味で過去の文献を玩味いたしますと、限りない実益がございます。文献というものは、ただドキュメント、記録だと思っておりますが、それは単なる「文」であった、「献」は捧げるという文字でありますから、賢者の賢に通ずるもので、文献の本当の意味は賢者、あるいは哲人と記録であります。それではその文献を読むことにいたしましょう。
2月20日

五、
小事と人格

真実の正しさ

「人間の真実」の正しさは、礼節と同様、小事に於ける行に表れる。小事に於ける正しさは道徳の根底から生ずるのである。

之に反して大袈裟な正義は単に習慣的であるか、或は巧智に過ぎぬことがあり、人の性格について未だ判明を与えぬことがある」。スイス・ヒルティ語録
2月21日

ヒルティ

これは名高いスイスのヒルティの言葉であります。この人は非常にすぐれた指導者で、ベルン大学の教授でありました。また模範的な国会議員及び軍事裁判所の判事でもあったので、ハーグの國際軍事裁判所の判事もやりましたが、元来プロテスタントに属する人であります。然し少しも宗教的偏見がありません。その信仰や道徳に豊かな文学的表現を与えたということで、本当に哲人と呼んでもよい人であります。

この人の「幸福論」は世界的に有名であって「眠られぬ夜のために」は実に興味の深いよい書物であります。世間では文豪といえば、ロシアではトルストイをあげ、ドイツではゲーテをあげますが、ヒルティはこの二人に対して、作品は立派だとしておるけれども、人間的には余り重きを置いておりません。寧ろ、イタリアのダンテを推奨しておりまして、ヨーロッパ人としては珍しい見識と信念の持ち主であったと思われます。
2月22日 人間の本当の正しさ 人間の本当の正しさは、ちょっとした日常に挨拶や振る舞いにあらわれ、何でもない行動に、案外人間内容やその背景を知ることが出来るものです。 これに反して、大層偉そうな大袈裟なことを言うものはあてになりません。こんな人ほど、家の中や友達とのつきあいになると、とんでもない愚劣なことを平気でやるものであります。 
2月23日 「一言・事を破る」

「一言・人を誤る」
昔からよくいうように、「一言・事を破る」「一言・人を誤る」で、ついうっかり言った言葉、ちょっとやった行為がその人間を決定します。この頃は、日本でもよく国際会議が開かれ、色々な議論や演説が盛んに行われますが、みな形式に終始して、実は内容の乏しいものが多いものです。 それよりも、会議の途中、あるいは会議の終った後の立ち話や、廊下で行う挨拶で、活きた解決が行われます。日本人はロビー等でうちとけて外人と接触することが下手だと言われておりますが、これは平素本当に内容のある活きた学問修養が出来ておらぬからであります。
2月24日 本当のキリスト教

外交評論家の長老から私は次のような話を聞いたことがあります。――自分は特にヨーロッパの外交史を専攻したので、当然ヨーロッパの思想史を一通り勉強しました。従って、キリスト教についても、その信仰道徳等に一応通じたつもりでおったところが、これが本当のキリスト教だと、と文字通り身を以て知ったのはささやかな出来事であった。ある日、非常に親しく教えを受けた神父とジュネーブの街を歩いておる時、日本の一欠点と申しましょうか、何気なく路上に痰を吐きました。

するとその老神父は、突然私を抱きかかえて
「いけないー大地を恥づかしめてはいけないー」と云って注意をしてくれました。
この時ほど衝撃と羞恥を覚えたことはなかった。それと共に神父に敬服し、これがキリスト教であり、これが信仰であるということを本当に身を以て知ったーということでありますが、これなどは極めて小事であります。然し、この小事が本当に大事を表現しております。これは我々の活きた学問または思想としてよく学ばなければなりません。
 
2月25日

人間の真実

偉大な人物とは真実な人


「人間の真価を直接に表すものは、その人の所有するものではなく、その人の為すことでもなく、唯その人が在る所のものである。

偉大な人物とは、真実な人のことである。自然がその人の中にその志を成し遂げた人のことである。彼等は異常ではない。唯真実の階梯を踏んでいる」。
    アミエルの日記
2月26日 アミエル日記

アミエルはヒルティより少し先輩であります。終始ジュネーブ大学の教授をもって任じ、学問と思想と著述にその生涯を献げましたが、然しその

著述も大して世に問うてはおりません。その中で彼が遺しました一万六千頁にわたる日記は有名でありまして、日本でも多くの人に読まれております。
2月27日 人間の真価 真に人間の真価をあらわすものは、その人が、どういう地位にあるとか、どれ程財産を持っているとか、どんな名誉職にあるとか、或は、またかって国会議員をやったとか、大きな会社の重役であったとか、何か大きな事業をなしたとか、というようなものではなくて、ただその人が、どういう人間であるかということであります。偉大な人物とはまことの人であります。偉人とか、英雄と言われるような異常の人ではなく、ただまことの人であります。自然の権化と申しますか、自然が造った人物のことであって、真実の段階をふんでおります。
これに関連して思い出すのはケインズの言葉です。一時ケインズの経済学が日本を風靡したことがありますので、恐らく皆さんもこの人をご存知であろうと思います。

ケインズの絶筆と申しますか遺書に「我が若き日の信念」という本があります。実に興味深い内容のある書物で、その中に彼は「今日は非常に功利的となって、人間内容も極めて打算的な人が多いが、人間の価値は、その人間が、何を為したかより、その人が、いかにあるべきかの方が重大である。例えば教会に行って説教を聞き、敬虔な祈りをささげることは誰でもやることであるが、これは信仰というものではない。それよりも、如何にキリストの教えに従っているかということが大切である。金を持ち、地位があり、色々な事業をやったなどという人は、世の中に沢山いるが、これは必ずししもその人の真実を表すものではない。何もしなくても、また何ら人の目に立たなくても、立派な人は立派であるのだ。これが人間の価値を極めることであって、この信念はいつの時代も変わらぬ真実である」と書いております。 

2月28日 教育の誤り これはちょうど、アミエルの言葉と符節を合するものであります。本当の人間の考えることは皆このように一致するものであるという感を深くいたします。特に子供の教育にはこれが大切であります。教育ママが教育を誤るのもこの点であって、子供は純真でありますから、つい熱心な母親の強制的な言葉に従います。  だから子供が机に向かってさえおると、マンガを読んでいても、眠っていても、素直に勉強していると教育ママは思い勝ちですが、こんな勉強、こんな教育は何にもなりません。子供の真心によく注意して、強制するのでなく、これを認め励まさねばなりません。形式主義、功利主義というものは厳に戒めなければなりません。