「平成に甦る安岡正篤・警世の箴言」4

平成20年2月

 1日 呉子(ごし)と道・義・謀・要の説 「道とは(もと)(かえ)(はじめ)(かえ)所以(ゆえん)なり。義とは事を行ひ功を立つる所以なり。謀とは害を()り、利を(つく)す所以なり。要とは業を保ち(せい)を守る所以なり」

呉子(ごし)は言うまでも無く孫子と並び称せられた人で、日本にも大変影響を与えております。戦争、及び政治戦争、つまり戦略・攻略の大家でありまして、事実彼は名将軍であり、また春秋時代を通じて代表的な思想家・行政家でもありました。
 2日 呉子と孫子 確かに(そん)()と言われるだけに、勝れた実力のあった人物であります。そして孫子の方はよくわかりませんが呉子は可なり分かっております。何をやらせても俊敏にして極めて有能な人であったようですが、ただ徳という点になると、やや憾みなきにあらずという 所がありました。魏の国で非常に重用されておりました時に、たまたま宰相―総理大臣の任命問題が起こりまして、呉子は、名は起でありますが、自分に決定されるものと思っておりましたところ、ライバルに田文という人があって、この田文が呉起の期待に反して任命されました。 
 3日 呉起と田文の問答 そこで甚だ面白くないので呉起は直接、田文にあって詰問しました。その記録は大変面白くて参考になります。

呉起「君と俺と、一体どちらがよく出来るか、比べてみようじゃないか。今まで随分戦争をやってきたが、君と俺とはどちらが戦略・戦術に長けておるか」
田文「それは君の方が長けておる」

 4日 呉起「では、行政にかけてはどうか。外交にかけてはどうか」
田文「それは君の方が長けておる」。
呉起「それじゃ俺の方が君よりずっと有能じゃないか。然るに君が宰相の重職を受けるとは何事か。どうして俺を推薦しないのだ」
 5日 田文「今や我が国は先君が亡くなられて、若い後継が即位されたので、どうなることかと役人も民衆も心配しておる。その上他国もこれを虎視眈々として注目している。 こういう国をあげて内外ともに不安動揺の中にある時、宰相として俺が適任か、君が適任か」
呉起は、しばらく考えこんで、呉起「うーん、そうか、わかった。それは君の方が適任だ」。
 6日 才能と徳とは こういう好い問答が列伝の中にありますが、これは呉起と田文だけの問題ではなくて、日本の国政、産業界にも勿論あることであります。頭が良いとか才能があるとかということと、人が信頼し安心する という徳の問題とは、自ら別であります。
こういう意味におきまして呉子という人はとかくの批評はあるけれども、中々の人物であります。またこの呉子という書物は我々に参考になる書物であります。
 7日 政道 「道とは(もと)(かえ)(はじめ)(かえ)所以(ゆえん)なり」。
花や果実の例でもわかりますように、木が本当に茂るということは、常に根を培養して、枝葉末節をうまく始末しなければなりません。これが道であります。この道に基づいて事を行い、功を立てるのを義といいます。義は宣と同じでありまして、本によって枝葉末節の処理ができ、これをうまくやると功を立てることができる。
 
然しそれには、それだけの思慮・分別がなければならない。そうすると害がなくてよい結果が得られましょう。その結果、最も大切なことは、でき上がったものを保持してゆくことである。
事業というものは、中々虚業が多いために保持・維持することは難しい。特に出来上がったものを維持することは一層難しいものです。まことに簡にして要を得た説明であります。これを政治に活用しますと政道とは常に本に反り、始に復らなければなりません。賢明な政策、或は政りごとは、そのようにして着々と功を収めることができましょう。
 8日 外交の原則 左伝(さでん)」の名論、

「信以て義を行ひ、義以て命を成す。小国の望んで(なつ)く所なり。信知るべからず。義立つ所無し。四方の諸侯誰か解體(かいたい)せざらん」

外国と、いかに交わってゆくか、という対外政策について、左伝にこのような名論があります。国家間にも信というものがなければならない。その信から、我ら如何になすべきかという手段、政策等の問題即ち義が生じ、これを遂行することによって出来上がるのが命というものである。

 9日 小国 こういうふうに、命は存在であり、活動でありますが、これが信義によって行われますならば、何を考えておるのか、何をするのか分からぬのではなくて、そこにはっきりと変わらぬ信念というものがあり、道義というものがあるので、信頼でき安心してつきあうことが出来るのです。 これは不安な小国の望んでなつく所以である。反対に、どう変わるか分からぬ、利の為には何をするか分からぬということになると、四方の諸大名は友好同盟を結んでおると等と言っても、そんなものは直ぐ破棄して当てにしない。こういうことを左伝の成公八年のところに論じておりますが、今日もその通りであります。
10日 多元的国家論 最後に「多元的国家論と階級国家論」というものをあげておきましたが、これもお話を致しますと、それだけで何時間も必要とする大きな問題ですが、簡単に申しますと、国家とは何ぞや、ということに関しては、従来から一般の知識人は疑惑のない一つの国家観を持っておりました。これは一元的国家論というものでありまして、その国の成立、

歴史、文化、民族というものに基づき、国家というものは民族がつくる、つまり自然発生的に生成発展したものであるという考え方であります。これに対して、国家というものは、ちょうど我々が家庭をつくったり社会をつくったりするのと同様に、必要のもとに人間がつくった組織の中で最も代表的に発達したものであるというように、他の契約や、組織の団体と同質のものであるとみる、これが多元的国家論です。 

11日

癖のある
階級国家論

その最も深刻な癖のある考え方が階級国家論であります。人間には階級があって、例えばプロレタリア、ブルジョア等に別けますが、その中で色々の特権を持った支配階級が自分達に都合の好いように作り上げた権力支配機関を国家だという考え方、これが階級国家論であります。

現在でも、国家とか、政府というものに対して階級感情、階級意識をもってこれを否定しておるのが共産党であります。従って、彼らは君主はもとより、天皇まで国民と対立する存在であるとして、これを打倒し、これを廃止しなければ国家の進歩、人民の勝利はないと考えておる。そして大衆に着眼して、それは結局大衆の世論、動向であるとして、戦後、一時大衆社会ということが喧しく言われ、選挙も大衆の投票,社会も大衆の組織という論が非常に普及致しました。 

12日 人類の運命を決する問題 これに対してスペインのオルテガは次のように述べております。「大衆というものは心理学、社会学の上から言っても、見識だの、信念だの、道義だの、というものが無い雑然たる多数であるから、どうしても堕落する。そこで、大衆を放任すると欲望が先に立って生活が煩瑣になり混乱して文明も廃頽・堕落する。 この文明と社会生活。人間生活の混乱、即ち枝葉末節の混乱をいかに剪定して、これらを簡素化し、根元に復帰させるか、ということが文明と人類の運命を決する問題である。」。−これは私達が東洋の易の哲学を通じてよく解説致します通りの原理に基づいて、近代社会の誤れる僻論というものを正しておるわけであります。
13日 人間としての本に反る必要 いずれにしても、このまま推移いたしますと、どうしても大衆が放縦、混乱、闘争に走り、人間社会は野蛮へ後退してしまって、遂には忌むべき破壊革命が始まります。
そこで結論を申しますと、呉子にあるように人間として

の本に反り、始に復って事を行い、功を立てるには矢張り義というものを正さなければ、この世界は救われないということであります。その意味に於いて呉子の論は、真理に古今も東西も無いということを立派に証明むする議論であると言うことが出来ます。 (昭和48612)
第四講
危局と活学(佐藤一斎(言志後録)

病気は治っても死んでは何にもならない

14日 警世の論の必要 全講より、又暫く時がたちましたが、その間に時局は依然憂慮すべき方向へ進んでおりまして、安心できません。この講座でも久しい以前から、色々教材を取り上げて、こういうようになってはならないということを論じて参りました。 また、これは私見でなく、古今東西の識者、碩学によって論じられておるというお話もしたわけでありますが、残念ながら時局はその警告の通りになっておると申してよいと思います。それだけに益々こういう学問、こういう警世の論の大切なことを思い知るのでありまして、真に複雑微妙な感がいたします。
15日 いまさら何事か

今、東京でローマ・クラブの会合が開かれており、各国の公害専門家が集まって意見の交換をしておりますが、時々その議論が新聞等に発表されております。これを一読致しますと、「いまさら何事か、五年も十年も前からかくなってはならぬと、各国共に警世の論が沢山あったのに、

それがみすみす、このようになってしまった、否、してしまった」という議論が圧倒的であります。確かにその通りで、ローマ・クラブの先見の明には頭が下がります。然し、ただ頭を下げたり、感嘆しておるのでは何もなりません。これを何とかしませんと、日本は大変なことになります。
16日 結局人間が問題 そこで識者が集って、どうすればよいか、どうしなければならぬか、としきりに情報を集めて議論をしておるのでありますが、このままでは議論倒れに終わってしまう危険が多分にあります。 もう今日のようになって来ると、勿論議論も必要ですが、もっと大事なことは、どう実行するかということであります。然し実行する面から考えますと、やはり人間がやることですから、結局人間が問題であります。同じことであっても、それを行う人によって結果は非常に違ってまいります。
17日 病気の治療 例えば、病気の治療について考えてみますと、病状の診断はいくら出来ても、問題は治療の方法でありまして、これは医者によって大いに違うのであります。又あまり病状の調査ばかりしておると、肝腎の治療が間に合わぬという場合も起こって参ります。 就中(なかんづく)、組織的な大病院になるほど、そのきらいが多いのであります。患者が病院へ参りますと、先ず血圧であるとか、血液検査であるとか、やれ何の調査だ、何の試験だと夫々の専門へ廻されて、いろいろデーターをとられ、そのデーターが主任医師の手元に集まって、それを見て主任医師が最後の決断を下します。 
18日 病気と政治 その間に患者の病状、病勢はどんどん進行するので治療の方が間に合わない。それで病気は分かった然し患者は死んだ、とう例がよくあるのであります。今、政治や議会を病院と考え、国民を患者としますと、患者である国民の色々の病状は、夫々専門の機関で 観察、診断致します。やがて、それが主治医に当たる政府、或は議会に廻り、ここで決断を下して対策を立て、実行に着手するわけです。処が、もうその頃には、国民の病状は手遅れになっておる。これが今日の実情でありまして、又最も深刻な問題であります。  
19日

新しい世界的戦国時代

この間も、香港、台湾等東南アジアから専門の東洋学者、中国学者が集りまして、色々話しあったのでありますが、その人々の間に期せずして結論的に出された言葉が孟子にあります。「賢を尊び、能を使い、俊傑位に在り」でありました。孟子はご承知のように戦国動乱時代に生きた理想主義の碩学であり能弁家で

ありますが、今日の時世も考え方によれば、新しい世界的戦国時代といえましょう。そこでこの語が期せずして集まった人達の結論になったわけですが、孟子の当時も今日も真理になると矢張り変わりません。処が、これが行うべくして中々実現しません。実現するとしても、時を失っては役に立ちません。こういうところに現代の深刻な問題があると思われるのであります。 

佐藤(いっ)(さい)先生―(げん)志後録(しこうろく)

20日

佐藤一斎先生 1

そこで今回は佐藤一斎先生の「言志四録(げんししろく)」の中の(げん)志後録(しこうろく)から、これはと思うものを幾つか摘出してご紹介致したいと思います。後録は彼の六十代の文章で、十分世の中の事に通じた年頃の筆ですが、これを読みますと、ことごとく現代にも切実な指針を示してくれます。  一斎先生につきましては、今まで度々ふれましたのでよくご承知と存じますが、当時の碩学、大教育者であると同時に政治に対しても立派な見識家でありました。徳川幕府三百年を前期・中期・後記と分けますし、その後記に幕府の教権を握って、幕府及び諸藩の指導階級に大きな影響を与えた人であります。
21日

佐藤一斎先生 2

人物、学問、教養、見識はさすがに大家でありまして、かってこの人の重役心得個条というものをご紹介したこともあったと記憶します。一斎先生は美濃・岩村藩の家老の家柄の出身でありましたので、岩村藩は彼に藩政の憲法とも言うべきものの起草を頼みました。 そこで起草したのが十七条の重役心得個条であります。これが幕末維新の動乱で殆ど世に忘れられておったのでありますが、近世になって発見され、識者の間に非常な感銘を与えました。いま読んでみましても本当に活きた好い参考になるもので、一斎先生の実際家としての識見がよく出でおります。 
22日 佐久間象山と山田方谷 また、教育方面を見ましても、なかなか多くの人材がその門より出ておりまして、先生の教育が実に活き活きとしております。確かにこの講座でいったことと思いますが、塾生の中に名高い佐久間象山と山田(ほう)(こく)がおりまして、この二人がしはしば激論して深夜になっても終わらない。

そのため他の塾生は眠れないので師の一斎先生のところへ訴えでて「先生から一つご訓戒願います」と申した処、一斎先生は暫く考えて「佐久間と山田なら、まあやらせておけ」と言われた。それで訴えでた塾生はがっかりして引き退ったという面白い逸話があります。これは他の塾生達は少々眠れなくとも、英邁な二人が激論をするのだから、その方がよほど値打ちがあるというわけで一斎先生の面目躍如たるものがあります。 

23日 ぞうざんかしょうざんか 佐久間象山は信州松代藩士でありますが非常に利かん気の峻烈な性格の人でありました。象山はしようざんではなく松代に「ぞうざん」という山があってその麓で成長したか ら、ぞうざんと言わなければならぬという説もありますが、象山の長老が、やはり、しょうざんと言っておったそうですから、しょうざんで好いということになっております。
24日

山田(ほう)(こく)

一方の山田方谷については、かってその著「理財論」をこの講座でご紹介したことがあります。これはなかなかの卓見であり名論であります。方谷という人は大政治家でもありまして僅か五万石位の備中・高梁(元、松山)板倉藩の家老として当時貧乏板倉とい
われて、どうにも手のつけようがない程悪くなっていた藩政を見事に建て直したという実績を持った人であります。旅行者が一歩板倉領内に足を踏み入れたら「ああ、もう板倉だな」ということがすぐわかったというぐらいに面目を一新したと言われております。
25日 道もとより活物、学亦活物。

さて、一斎先生の「言志録」は実に立派な書物でありますが、その後録の中にこういうことを言われております。
一、道もとより活物、学亦活物。
我々が実践すべき道というものは、人間はそれによらなければ目的地へ到着することができませんから、これは活きものである。同じように学問も、死んだもの、機械的なものは駄目であって、活きものでなければならないと言うのです。何でもない簡単な言葉のようでありますが極めて

大事なことです。道だの学だのというと、ともすれば議論倒れになり、論理的知識、功利的知識になって、現実処理にむかぬことが往々です。それでは活きた人間を養うことが出来ません。僅か数字に過ぎませんが、無限の内容を含んだ見識のある言葉であります。翻って我々はどれだけ活学してきたか、活道に従ってきたか、ということになりますと、甚だお恥づかしい次第でありまして、こういう世相でありますだけに、一層この言葉が味読(みどく)されるのであります。 

26日 一物の是非を見て・・・ 「二、一物(いちぶつ)の是非を見て而て大体の是非を問わず。一時の利害に拘はりて而して久遠(くおん)の利害を察せず。(まつりごと)を為す此の如くんば国危し」。 かってものをみるのに「三つの原則」があるという事をお話したことがあります。一つには、出来るだけ目先に囚われないで、長い目でみる。二つには、出来るだけ一面に囚われないで、多面的に、出来得れば全面的にみる。三つには、枝葉末節に渡らないで根本的にみる。この三つであります。
27日 金大中事件 昨今、新聞紙上を賑わしております金大中事件を例にとります。この事件は論理的に追及してゆきますと、主権の侵犯というような大変な結論も出るのですが、一斎先生のこの教に従って申しますと、極めて慎重に考えなければならない、容易ならぬ問題であります。
凡そ国家と国家との問題とい

うものは重大なものでありますが、とりわけ日本と韓国の間は、複雑微妙な問題がありまして、日本国内には六十万の、おそらく実数はもっと多いと思われますが、韓国人―南北の朝鮮人が来ておるわけであります。そうして大体十二万人位は、日本婦人と結婚し、五十パーセント以上が北朝系でありまして、夫々南の方は民団、北の方は朝鮮総連というものを作りお互いに対立しております。 

28日 一時の利害を超えた政治を 明治以来、朝鮮の歴史を考えて見ますと第一は袁世凱(えんせいがい)の手が京城政府に延びたというので結局日清戦争になりました。またロシアの手が鴨緑江に及んだというので、日本の国運を賭した日露戦争になったのであります。つまり朝鮮の為に日本は二度にわたる大戦争をしたわけであります。歴史的に見て日本と韓国とは、全

く運命共同体でありまして、これを多面的、全面的、或は根本的に見ますと、現在起こっておる韓国との問題は、余程慎重に処理しなければなりません。一時の利害にかかわって、先々の利害を考えないような政治ではなくて、もっとどっしりと腰を据えた、目の利く、力のある政治をしなければなりません。これは国家の政治ばかりでなく事業の成否も、我々の私生活も、みな同じことであります。 

29日 一物を多くすれば・・ 一物(いちぶつ)を多くすれば(ここ)一事(いちじ)を多くす。一事を多くすれば斯に(いち)(るい)を多くす」。(参考)「一利を(おこ)すは一害を除くに()かず。一事を()やすは一事を減らすに若かず」(耶律楚材(やりつそざい)) 古今の大宰相であります元の耶律楚材は、参考に出しておりますように、「一利を(おこ)すは一害を除くに()かず。一事を()やすは一事を減らすに若かず」と誡めております。