優れた祖先を、知るべし、学ぶべし その2 

国民を守ってくれているのが国家である。これを否定できる人は存在しない筈である。否定する人は、愚かというより欺瞞人であり無知であり、世間知らずの田舎者である。「日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれる」と加藤登紀子が言った。 曾野綾子さんが「そんなに日本が嫌いなら日本人でいることはない。他国人になれば(産経新聞「昭和正論座」)と勧めていた。加藤登紀子は日本は嫌いだと若い時に発言したが、まだ日本で暮らしている。日本という国家が嫌なら日本国の世話になるな、外国に出ていけばよいのである。加藤登紀子はそれが出来ない、日本が良い国家だと示しているようなものである。だが加藤登紀子のような人間が存在するのも事実だ。それは、歴史を知らぬからである。世界史も国史も中国史も韓国史もロシア史も知らぬからである。戦後の偏見に満ちた教育の所産なのである。日本の父祖が営々と築いた日本をもっと現代日本人は知らなくてはならぬ。世界史的に見ても素晴らしい日本人の先祖がこの素晴らしい国を造ってくれたのである。私は色々な日本人、そして父祖の言葉を拾い出してみたいと思う。平成22年元旦  徳永圀典   

平成22年2月

 1日

白瀬(のぶ)

「日東(日本)男児たるわたし達がはじめて登ったのである。背はひくいが、鼻はたかい」
白瀬矗『私の南極探検記』)
明治45(1912)年1月28日正午丁度であった。。

一面氷雪の南極を進んでいた白瀬矗を隊長とする「突進隊」は、現地点の緯度を計測した。南緯80度5分。氷に突き立った竹ざおに日の丸が翻った。白瀬はここを「大和雪原」と名付けた。

 2日 南極点はすでにノルウェーのアムンゼン隊や英国のスコット隊に踏破されていた。しかし、資金や装備で彼らにはるかに劣る条件であったことを考えれば 日本人として誇るに足る快挙だった。冒頭はその10日ほど前、「未踏の絶壁」を征服したときの感想である。
 3日 「わたしは剛直の気質で、人に負けるのが嫌いな男である」。白瀬は秋田県の漁村、金浦のお寺の長男坊だった。 少年時代から腕白で鳴らし、宗教学校を飛び出して軍人となった。だから「白瀬中尉」の方が通りがよい。
 4日 魅力と野趣にあふれた「個」ではあったが、必ずしも「理想の隊長」ではなかった、と綱淵謙錠の労作『極』は伝えている。50歳で「英雄」として凱旋したが、探検費用の返済に追われるなど34年に及ぶ余生は恵まれたとはいえなかった。 それでも心は生涯、南極にあった。後年、彼は詠んでいる。
我れ無くも必らず捜がせ南極の地中の宝世に出だす迄
 5日 重野安繹(やすつぐ) 大英帝国に果敢に渡り合った重野英相手に堂々外交談判
歴史の神クリオは時にいたずらをする。
地味な人物を一度だけ表舞台に登場させ、一大事を処理させる。そして、その役者は二度と華やかな場面には戻らないのだ。
 6日 関が原の合戦前夜、尾張に滞陣した福島正則らを督戦するため、徳川家康が口下手な村越茂助を送らなければ、合戦の様相は変わっていたかもしれない。 茂助は命じられた通り「家康は諸将の戦闘意欲を確認後に出陣する」と愚直に語り、合戦を開始させる。彼の役割はこれで終わった。
 7日 意表つく連続駆け引き 幕末にいちばん厳しい外交の修羅場を経験した男、薩摩の重野厚之丞(しげのあつのじょう)こと安繹(やすつぐ)も一度だけスター級の役割を果たした。36歳の若さで七つの海に冠たる大英帝国を向こうに回し、日本の進路を左右する外交談判を堂々と繰り広げた人物である。 島津久光の行列先を乱した英国人らを斬殺した生麦事件、その結果生じた薩英戦争という厄介な国際事案の処理を任され、現代の職業外交官顔負けの活躍をした人物なのだ。
 8日 主導権把握の方法 1863(文久3)年の薩英交渉において、重野らは進んで講和を求めるのを潔しとせず、会談劈頭から英国の非ばかりを一方的に責め立てた。 重野らの談判は英国の意表をつく駆け引きの連続であった。当初は薩摩藩が大英帝国の外交官を相手に交渉の主導権を握った感さえある。
 9日 重野は英国代表のニールに対して、薩英戦争の原因を英国艦隊による薩摩の商船拿捕に求め、生麦事件も「不作法な英国人らが大名行列の供先(ともさき) を妨げたので臨機に処置しただけだ」と強弁した。国内法の論理を正面から展開してひるまなかったのだ。
10日 16歳で藩校造士館のスタッフに抜擢され、22歳で江戸の昌平黌(しょうへいこう)に留学した秀才とはいえ、相手が大英帝国である。それでも、少しも臆せず、卑屈にならない様子が文句なく凄い。しかし英国側が国際法や日英条約もからめた議論を始めると、雲行きが怪しくなり、重野らは交渉の引き延ばしにかかる。 ロンドンまで直接使節が赴き、女王陛下に直接談判すると、人を食った要求で反撃をはぐらかしたのだ。重野らとしても、藩内の主戦派をなだめ、怒りを鎮めるには一方的に屈服してはならず、いきおいニールを煙にまいたのだろう。
11日 政治家にもなれた学者 重野らは妥協の光が見えると一転、ニールの意表をついて「両国懇親」「両国和親」のために「主君へ申訳も相立つ筋」として、交戦相手国に軍艦購入の 周旋を求めた。戦った敵国から、艦船の購入や教官の斡旋を請われたニールはさぞかし仰天したことだろう。
12日 しかし軍艦の購入こそ二心ない証しではないかという薩摩藩の姿勢は率直であり江戸幕府を含めたスエズ以東のアジアの為政者にない清新さをもっていた。 この毅然とした態度にニールも矛を収め、急転直下、両者は和平に向かい、むしろ薩英は接近することになったのだ。
13日 これはまことに爽やかな日本外交史の物語である。面白いのは重野のその後だ。薩英提携の功労者は外交官や政治家の道を選 ばず、藩の造士館助教を経て、明治になると、東京大学教授として地味な歴史家の道を歩んだ。
14日 幕末の日本人は、国への義務感と個人の能力を生かす上で政治家と学者という職業に現在の日 本人ほどの違いを感じなかったのだろう。一般に多分野で業績を残した人が多い。
15日 現在、選挙の地盤や資金に苦労せず世襲の政治家となる人たちに、重野のようなタイプはいるだろうか。テレビで多弁を弄するより、ここぞという場合以外には寡黙でも存在感を発揮できることもある。 静かに思索にふければ、「浄玻璃(じょうはり)の鏡」に浮かぶ人の痛みや苦しさをもっと切実に理解できるのではないか。
16日

野村吉三郎

「日米間は戦争になるべからず、またならぬと信じている」
(野村吉三郎)
「米国の方から戦争を起こさぬかぎり、日本からは起こさぬ」とも断言している。
17日 昭和16(1941)年、着任したばかりの野村吉三郎駐米大使はワシントンの日本大使館で日米双方の報道陣を前に初会見を行った。「新大使は柔和かつ真摯に通を介して受け答えをした」と現地紙は報じている。会見は「日米関係の打開策は?」

との質問に「ワシントンと東京の新聞が物事を大げさに書くことをやめることだよ」とユーモアをまじえた答えでしめくくられた。

18日 野村は海軍出身だが、国際経験が豊富で外相の経験もある。ルーズベルト米大統領とは、大統領が海軍次官(補)のころ、つまり25年来の旧知。 それでも、当初は大使就任を固辞し続けた。任務の困難さを承知していたからだろう。
19日 記者会見の発言にうそはない。だが、米国内はすでに「日本は言葉よりも行動で示せ」という不満の声にみちていた。開戦へとひた走る日米両国のはざまに立った野村の献身は悲劇的である。 10カ月の間に野村と50度は会談したというハル国務長官は「私は野村が心から日米間の戦争を避けようと努力していたことを確信する」と回想している。日米外交史に輝く勲章であろう。
20日

鈴木貫太郎

「死ということは、最も容易な方法でなんでもないことだ」(鈴木貫太郎)明治維新の前年である慶応3(1867)年、鈴木貫太郎は生まれた。77歳という高齢で首相に任命され、 先の大戦終結の原動力となった。終戦直後、「あなたはなぜ自刃しないのか」と詰め寄られたときの答えが、冒頭のことばである。
21日 鈴木は「余はすでに一度は死んでいる」ともいっている。昭和11(1936)年に起きた陸軍将校による反乱「二・二六事件」。 このとき、侍従長だった鈴木は自宅で襲われ、4発の弾丸を浴びたが、奇跡的に命をとりとめた。
22日 侍従長就任まで海軍一筋。自らを「武骨」と称したが、寛容の人だった。一命をとりとめたあと、襲撃を指揮した青年将校 (鈴木と旧知だった)について「間違った思想の犠牲になったのは気の毒千万に思う」と述懐している。
23日 彼は生き抜く理由をこう記している。「(ポツダム宣言の受諾によって)陛下(昭和天皇)の、国家の不名誉を招来した責任は誠に重い。
だがその結果、民族が残り、
国家が再生するのだから、心から復活を願い、余生を傾けて真に国家が健全な肉体になるまで見守ってゆくのが自己の責任と痛感している」
24日

藤原岩市 

インドは世界有数の親日国である。その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、機関長の藤原岩市陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。

これがインド独立の礎となるのである。機関長の藤原岩市陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。これがインド独立の礎となるのである。

25日 藤原は最初の投降兵との親睦を図るため、インド料理による機関員とインド人将校との会食を催した。藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛い料理をインド人にならい手づかみで食べた。 英軍内ではインド人将校は英人将校と同席の会食は許されず、インド料理すら認められなかったから彼らは藤原の誠意ある態度に深く感激した。
26日 将校の代表は「藤原少佐の敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは一昨日来、我々 に示されつつある友愛の実践とともに日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証」と述べた。
27日 藤原と肝胆相照らしたのが後にインド独立第一の英雄と仰がれるチャンドラ・ボースである。自由インド仮政府首相となったボースの率いるインド国民軍は昭和19年、日本軍とともにインドのインパールに進撃して敗れた。 しかしこの祖国解放の戦いを敢行したことが結局インドの独立を導いた。
藤原機関は「インド独立の母」とたたえられた。
(2月分終わり)