14女王卑弥呼の素顔に迫る
                  卑弥呼は邪馬台国の王ではない
平成25年2月

1日 卑弥呼は邪馬台国の王ではない

「魏志倭人伝」の解釈において、まず基本的に抑えておかなければならないことは、卑弥呼は邪馬台国の王ではないということです。一般には「邪馬台国の女王卑弥呼」とよく言いますが、
2日 首長国の王たちの上 実際には邪馬台国の王が卑弥呼ではないのであって、邪馬台国には別に男子の王があるわけです。その邪馬台国の男子の王をも含めて29ヶ国の首長国の王たちの上に立って全体を統合したのが卑弥呼という女王なのですから、「卑弥呼は邪馬台国の王ではない」という事をはっきり知っておかなければなりません。卑弥呼がたまたま邪馬台国出身でそこに居住して、他の首長国をも統合していた為、とかく女王国と邪馬台国が一体と考えられがちです。
3日 注 

邪馬台国
「三国志」の「魏志」東夷列伝倭人の条に記載された倭の女王国の名。「魏志」は三世紀頃の日本の形勢を記していると思われるので、日本の古代史を形成する上で、この国の位置・性格は重大問題だが、その実体は掴めていない。
九州・大和説の論点
4日 「魏志倭人伝「の邪馬台国への行程記事 まず論争の火種の一つとなっている「魏志倭人伝」の“邪馬台国への行程記事”を実際に見ておきましょう。
5日 「郡(帯方(たいほう)郡・現ソウル付近)より倭に至るには、海岸(した)いて水行(すいこう)し、韓国を()て、(たちま)ち南し(たちま)ち東し、其の北岸()()韓国(かんこく)に到ること七千余里。始めて一海を(わた)ること千余里、対馬国に至る。 ・・・又、南一海を渡る千余里、名づけて(かん)(かい)(対馬海峡)という。
一支国
に至る。
・・・・又一海を渡る千余里、末盧国に至
る。・・・・東南陸行五百里にして伊都国に到る。
・・・ 
世々王あるも皆女王国に統属す。郡使(帯方郡からの使者)の往来つねに駐まる所なり。・・・南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。・・・その南に狗奴国あり。
・・・郡より女王国に至る万二
千余里」(・・・の所はその直前に出てきた国の様子を記した部分)
6日 行程図式化

1

()()韓国(かんこく)

2

対馬(つしま)(こく)

3

()支国(きこく)

4

末盧(まつら)(こく)

5

伊都(いと)(こく)

6

()(こく)

7

不弥(ふみ)(こく)

8

(とう)()(こく)

9

()()(たい)(こく)

10

()()(こく)

11

巳百支(じはき)(こく)

12

()()(こく)

13

都支(とき)(こく)

14

()()(こく)

15

好古都(こかた)(こく)

16

不呼(ふこ)(こく)

17

()()(こく)

18

対蘇(つさ)(こく)

19

()()(こく)

20

呼邑(こお)(こく)

21

華奴蘇(かなさ)()(こく)

22

()(こく)

23

()()(こく)

24

()()(こく)

25

()()(こく)

26

()()(こく)

27

()()(こく)

28

()()(こく)

29

()()(こく)

30

()(こく)

7日 「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程記事 『帯方郡』
    700余里
     
   
狗邪韓国
    |
南 1000余里対馬国
    |
南 1000余里
         
 支国
    |
南 1000余里末盧(まつら)(こく)\ 
  東南陸行
500
   伊都国
東南100
    
奴国110里東---不弥国| 
|南水行 20
 |南 水行10
    陸行 1
 |邪馬台国  
8日 行程記事に対する両説の解釈 さて、 この行程記事に対して両説はどのような解釈をするのか。夫々の説で解釈の仕方を見ておきましょう。
9日 大和説 大和説は、末盧(まつら)(こく)から先の方角を無視して里数、日数だけを概ね正しい数値とみなし、その里数、日数を大和方向へ向けて計算し、邪馬台国の位置を大和近辺に比定するわけです。この場合、方角について南と東を混同していると見たり、或は南は東の方角を意味するというような読み方をします。また、投馬国から邪馬台国へ至る行程を「水行10日と陸行1月」というように連続した行程とみるなどして、距離的に九州圏内ではあり得ない考えをするわけです。
10日 例えば、総ての行程を連続した記述とみれば、一支()から最も近い九州沿岸の末盧国を起点に行程日数里数を積算していくと、不弥国から水行20日では九州圏内にはおさまらず、ましてその先に水行10日と陸行1月して邪馬台国に着くというのだから、絶対に九州ではありえない、ということを主張するわけです。 こうした大和説に立てば、投馬国を周防や備後あたりの瀬戸内海沿岸に比定し、さらにそこから「南」へではなく「東」へ進んで水行10日と陸行1月で行けるというのだから、日数は若干誇張があるにしても邪馬台国はやはり大和周辺に求められる、というように主張するわけです。
11日 九州説



注 備後

旧国名、吉備国を大化改新後に前・中・後に分けたその一。広島県の東部。
これに対して九州説では、例えば伊都国から先の記述の仕方が「500里にして伊都国に至る」というものから、「奴国に至る100里」というように変っているため、この後の部分の行程日数は伊都国からの距離として考えたりするわけです。即ち、伊都国から「水行10日或は陸行1月」行った所ら邪馬台国があるとしたりするのです。また、そもそも、伊都国あたりまでの里数や日数は実際に中国の使者が来ているから信頼性があるとしても、それから先は伝聞によるものであろうから信頼性が薄い、誇張がある、そう解釈することで、九州圏内におさめるわけです。
12日 無理ある大和説

大和説の矛盾
大和説には到底首肯しがたい矛盾があります。行程記事を見れば、帯方郡からずっと南へ南へと下がって、奴国まで来て、さらに奴国から南に邪馬台国があると書かれています。そうしますと奴国が今の博多のあたりですから、それから更に南に邪馬台国の都(女王国の首都)があるとすると、それは九州の中ほどになります。処が大和説の論者は、これは著者の陳寿がよく知らなかったため「南」と「東」を誤って、東へ行って大和の国に行くというのを「南」と書いてしまったのだと勝手な解釈をします。
13日 その前の記述に「南」とあるのを総て正しいとみなしながら、奴国まで来ると、奴国から後は「南」でなくてそれは「東」の誤りだと「魏志倭人伝」の記述を訂正してしまうのです。そうしないと大和説へもっていけないわけです。
14日 然し、決して陳寿が「南」と「東」を間違って書いたわけではないし、また当時の魏の人が「南」と「東」を誤って認識することは有り得ないことです。船に乗って来るわけですから、南か東か間違えて行ったらとんでもないことになるわけで、当然、魏の人びとは正確に南と東を区別しているはずなのです。 実際、南北線上に沿って狗奴国まで書いた後に、改めて陳寿は「東」海を渡ってきた倭人の国がある」と記しており、
「東」ということを認識しているのです。
大和説の人はその後から出てくる「東」に対しては何も言いませんが、そこに一つの大きな矛盾があります。 
15日 行程記事以外に於ける論点 さらに、大和説ら立つ論者は、邪馬台国の官職名と日本古典の人名や官職名に同じものがあることから、邪馬台国と大和朝廷の密接な関係を指摘します。然し、そうした言葉の類似性は、九州でも大和でも、同じ日本民族として日本語を使用していた以上は当然のことで、それを以て邪馬台国と大和国を同一のものと決定するのは余りに根拠が不十分であると考えています。
16日 九州の山門郡が妥当 また、邪馬台国という言葉と大和の発音の類似性を以て、邪馬台国=大和説を唱える論者もいますが、そうしたことが根拠になるのならば、九州の山門郡=邪馬台も同様に根拠があると言えます。むしろ、私には、こちらの方が妥当と思うのです。
17日 大和説の疑問点 さらに、大和説では、「魏志倭人伝」に卑弥呼の墓のために径百余歩の“塚”が造られたという記述をとらえ、高塚(古墳)は大和地方に出現したもので、この当時、九州にはまだ高塚は存在していないから邪馬台国は大和にあったと主張しますが、卑弥呼の墓は高塚と決まっているわけではなく、北九州に分布する()(せき)()などであったと考えることもできます。
18日 私のみるところ、大和説とは、邪馬台国の邪馬台という音が大和と似通っていることから、その場所は近畿大和であると直観し、それに考古学的な事物、古墳の発祥地である大和、日本の歴史の中で一番古く開けたのは大和だという観念が結びついて、文献上に現れた最初の国家らしい邪馬台国をどうしても大和であめと言っているのです。
19日 九州説が正しい 私は九州説が正しいと思います。特定の地を断定することは出来ませんが、九州説の立場に立って考えて、邪馬台国は筑後川下流域の地にあっさたのではないかと思うのです。即ち、筑後国山門郡説に賛成です。 
20日 注 市石墓 大型扁平の石を数個の市石で支え、下部に甕棺や石室、土壌などの施設を持つものがある。
21日 邪馬台国と原大和国家当時の“大和”は? 女王国や狗奴国が九州にあったとすると、それでは日本の歴史に言う「大和の地」は一体どうなっているかという問題になります。
22日 九州説の人は「九州だ、九州だ」ちと盛んに主張されますが、九州であるとすると、その同じ時代、西暦第二世紀とか第三世紀という時代に大和の地法はどうなっていたのか。日本の文献が言うように大和の朝廷、大和国家が大和に存在するのならば、なぜ「魏志倭人伝」の中にそのことが出てこないのか。
23日 そうしたことを、どのように解釈するかということを九州説の人は、これ又誰も明確に説明しません。それが九州説の一つの難点でもありました。それをどう解釈したらいいのか。
24日 11講でも述べましたが、弥生の文化を見ますと古くから銅剣・銅鉾の文化圏と、銅鐸の文化圏と、同じ弥生の文化でも二つの文化圏の対立がみられます。 最近では、銅鐸も九州から出るとか、色々な新しい発見があり、銅剣・銅鐸の文化圏と銅鐸の文化圏の区別が明確でないような説も出ています。
25日 しかし、全体として見ると、銅剣・銅鐸が沢山出るのは九州を中心とした西日本の地域であり、銅鐸などが沢山発見されるのは矢張り、大和を中心とした東日本です。 従って、同じ弥生文化の中にも、そういう方面から見ると、何か質の異なるものが存在するということが指摘できるのです。
26日 そうした遺跡、遺物の分布の状況から見ますと、卑弥呼の統合した邪馬台国をも含めて29ヶ国連合からなる女王国の位置が、大和説に拠らなくても九州説で十分納得の出来る状況にあることが分ります。 即ち、女王国は北九州を中心とした地域にあり、大和にはそれと同じような国家が別箇に存在したと考えればよいのです。無理に大和に決めつけて、邪馬台国が日本を統一した国家であるかのように考えなくてもいいはずです。
九州説と大和説の比較
27日
28日

学説

 

提唱者

要旨

文献

九州説

南九州説

本居宣長

邪馬台国は熊襲国なり。卑弥呼は熊襲の女酋なり。

馭戊概言

 

 

菅 政友

邪馬台国は大隈薩摩地方。

漢籍倭人考

 

 

那珂通世

邪馬台国は姫城なり。

那珂通世遺書

 

北九州説

藤井甚太郎

邪馬台国は肥後国内にして、投馬国は肥後。

邪馬台国の所在について

 

 

榎 一雄

邪馬台国は山門にして、筑後平野矢部川流域なり。

邪馬台国

 

 

水野 佑

邪馬台国は山門にして、筑後平野山門郡地域に推定する。

日本古代国家

学説

 

提唱者

要旨

文献

大和説

 

三宅米吉

邪馬台国は大和国。投馬国は備後国鞆なり。

邪馬台国について

 

 

内藤寅次郎

邪馬台国は大和国。投馬国は周防国佐婆郡玉祖郷なり。

卑弥呼考

 

 

山田孝雄

邪馬台国は大和国。投馬国は但馬国である。

狗奴国考

 

 

笠井新也

邪馬台国は大和国。投馬国は出雲国なり。

卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並びに政治的関係