神聖性の継承
平成26年2月
1日 | 神聖性の継承 踐祚大嘗祭 |
神聖性をどうして継承するかというと、これは天照大神、即ち皇祖神と一心同体となるという儀礼を行うことが大切で、これが踐祚大嘗祭と言われる儀式です。 天照大神の神勅の中に「自分のこの鏡をわれと思いて同床共殿して斎きまつれ」という神勅があります。同床共殿ということが神霊を継承する一つの基本儀式なのです。 |
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2日 | 共食の観念 |
それとともに、同じ食物をともに食するという、共食の観念も大事です。これがとりもなおさず「おおなめのまつり」です。つまり、天照大神=皇祖神と天皇が同じ食事を嘗め合うのです。 |
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3日 | イヤツギツギニツガノキノ |
そうすることで、いわゆる天照大神がもたれている大八州のシラス権が完全に新天皇によって継承されたということになるわけです。 |
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4日 | 註 |
踐祚 大嘗祭 |
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5日 | 後ろ向きの万世一系 | 日本の天皇の場合には、血のつながりよりも、むしろ天照大神のシラス権が授与されたか、されていないか、ということが問題になるのです。 |
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6日 | 秦の始皇帝のこと |
中国の秦の始皇帝は、自分を「始皇帝」と称して最初の皇帝であると告げました。即ち、これから後、二世皇帝、三世皇帝と伝えて、万世皇帝に至るのだと豪語したのですが、三代にして滅びてしまいました。 |
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7日 | 大八州のシラス権 |
これは始皇帝が前、即ち後世のことを眺めた場合はも子々孫々自分の血統がつながっていって皇帝として永遠に続くのだと言う事を表明したわけですが、日本の天皇の場合の「万世一系」とは、自分が天皇になったのは、踐祚大嘗祭を行ったことによって皇祖神と同体となり得て、皇祖神の持たれた大八州のシラス権を身に帯することが出来たのだという認識をもたれることを意味します。 |
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8日 |
日本の場合、子々孫々まで同じ血統が繋がって行く事を念願したのではなく、祖先を眺めた時に、先祖から自分までが祖霊を代々受け継いできているから、万世一系といえるのだという観念が成り立っているのです。 |
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9日 | 水野氏の万世一系 |
言い換えれば、中国の万世一系は前向きの万世一系であるけれども、日本の天皇の場合の万世一系は、寧ろ後を振り返って皇祖神と同体となれたということを確認することによって、初めて神聖な皇統、天照大神のもたれている神霊を継承したという形になるのです。それが日本に於ける万世一系という観念の基本だと私は考えるわけです。そして私は、その事を指して「後ろ向きの万世一系」と名づけるのです。 |
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万世一系と三王朝交替の古代史 |
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10日 | 継体天皇以降の「万世一系の神聖皇統」 |
必ずしも血統ではなく神聖性に中心をおく「後向きの万世一系」、そして、その上に、同一血統であることも重視した、今日に見られるような[万世一系の神聖皇統観]は、「記紀」に伝承が形成された第7世紀に作られた思想であると、私は考えます。 |
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11日 |
なぜ私がそう考えるのか、それは史実としての国家形成の過程は、いままで述べてきたように三王朝交替の歴史として把握すべきもので、必ずしも「万世一系の神聖皇統」は初代神武天皇から始まっているのではないからです。「記紀」の伝承は伝説史としての事実ではあっても、史実ではなく、「万世一系の神聖皇統」が継承されているという史実は、継体天皇から後に云えると考えるのです。 |
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12日 | 三王朝交替と皇統譜 |
ます「記紀」が記すところの皇統譜に就いてですが、そこにし初代神武天皇から推古天皇まで33代の歴代天皇が示されています。然し、私はその内、実在したと見てよい天皇は凡そ18代の天皇であると考えます。 神武天皇から開化天皇にいたる9代の天皇、その後の垂仁・景行・安康・清寧・顕宗・仁賢・武烈・宣化の計17天皇は、後の国史編纂時に、歴代構成や紀年の決定など、編纂時の都合や事情に応じてつくられ、配列された伝説上の架空の天皇だと判断します。また、神功皇后も架空の人物とみます。 |
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13日 |
そのかわり、飯豊女帝を一代加え、安康天皇の代わりに木梨軽皇子を皇太子のまま認めて、崇神天皇を初代として、成務・仲哀・応神・仁徳・履中・反正・允尭・木梨軽皇子・雄略・飯豊・継体・安閑・欽明・敏達・用明・崇峻・推古という順番に18代の天皇を歴代構成として考えます。そして、この18代の天皇が、互いに血統を異にする三つの王朝に分かれると見るのです。 |
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14日 | 呪教王朝 |
最初の古王朝は原大和国家を形成した崇神・成務・仲哀の三代で、この崇神王朝は、呪教的権威によって大和を中心とする本州西半分を支配した「呪教王朝」でした。 |
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15日 | 征服王朝 |
次ぎの中王朝は、応神・仁徳・履中・反正・允尭・木梨軽皇子・雄略・飯豊の8代からなり、仁徳王朝と称すべき王朝で、崇神王朝を滅ぼして九州から大和へ入ってきたことから、「征服王朝」としての性格を持っていました。 |
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16日 | 継体天皇 |
そして、仁徳王朝の血統が絶えて出現したのが、継体天皇から今上天皇に至る王朝です。 |
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17日 |
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18日 |
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三王朝交替説の骨子 |
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19日 | 三王朝の歴史 | 崇神王朝は、中国史書に記されている倭奴国や女王国・狗奴国などの九州の国家に対して、南大和に興った首長国から成長した国です。この国は、中国や朝鮮との直接の交渉はなく、それらの国と交渉のあった九州の銅剣・銅鐸文化圏を形成していました。 |
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20日 | 原大和国家 |
また、この国は、狩猟と農耕を基盤とした部族を、呪教的統制力のもとに、同族的、伴造的組織として構成していましたが、勢力を拡大して本州島西部へと統一運動を起こし吉備や出雲の地方勢力を統合した時、「原大和国家」とみなすべき体制を整えました。 |
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21日 | 崇神王朝は滅亡 |
そして、その勢いをさらに九州へと向け、第四世紀半ばに九州の国家と交戦しましたが遠征軍を率いた仲哀天皇が戦死され、大和軍の崩壊とともに、崇神王朝は滅亡へと追い込まれたのでした。 |
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22日 | 狗奴国 |
崇神王朝に代わって九州の国家がそれまでの原大和国家の領域まで統一支配するようになるのですが、これが中王朝としての仁徳王朝です。 |
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23日 | 狗奴国王は応神天皇 |
原大和国家を倒した狗奴国の王は応神天皇ですが、その子・仁徳天皇の時も朝鮮情勢に起因する東方開拓の必要から、本拠地・日向から難波への遷都を敢行し、さらなる日本列島の統一へと動きます。 |
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24日 |
この仁徳王朝は、列島の武力統一を強化するとともに、朝鮮国植民地化政策を進め、強大な大和政権として君臨するようになりました。こうした仁徳王朝の征服王朝としての性格とその強大さは高句麗好太王碑文や中国史書にみられる倭の五王、さらには巨大な古墳群によって裏づけられます。 |
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25日 |
また仁徳王朝は天皇氏による専制的な統一権威と、家父長制的、軍事的部族組織と、天皇氏の支配組織としての宮司的支配機構としての氏姓制度とが国家構造の基盤となっていました。 |
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26日 |
然し、長子・兄弟相続という不安定な相続法を採用していたことにより、支配者層内部に皇位をめぐる熾烈な内訌発生の危険を構造的に持っていたのでした。 |
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27日 | 仁徳王朝の自滅 |
そして、氏姓社会における部の組織として再編、新編成された諸豪族同士の利権争い、或は新興氏族と旧豪族の諸勢力の抗争が、皇位をめぐる争いと絡み合って、やがて内部崩壊へと向います。その結果が、第五世紀末、仁徳王朝は後継者が絶えるという呆気ない幕切れを迎えたのでした。 |
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28日 | 継体王朝で古代国家の基礎確立 |
仁徳王朝の自滅後、大伴氏の権勢によって越前から継体天皇が大和に迎えられ、新しい王朝が成立しました。この継体王朝こそ、今上天皇まで1400年以上も続いている「万世一系の皇統」の王朝です。 |