徳永の「古事記」その二
謹賀新年、正月であり、今年の4月には満80歳となるので、日本人としての原始に戻りたい、触れてみたいと、60代に無心に勉強した古代史、わけても古事記を改めて読み直すこととした。
平成23年元旦 徳永圀典
平成23年2月
2月 1日 | 「古事記序」 徳永の口語訳
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臣下、安万侶が申しあげる。 そもそも、混沌とした大元は既に凝り固まりながら、生命の兆しはいまだ顕れていない。名もなく、目に見える動きもないままでは、誰が、その形を認識することが出来たであろうか。然しながら遂に、天と地とが初めて分かれ、三柱の神が万物創生の先駆けとして姿を見せたのてであります。 |
2月 2日 |
ついで女と男とが分かれて、伊耶那美命と伊耶那義命の二柱の神が、あらゆる生きる物たちの祖となった。そして伊耶那義命は黄泉の国に行きこの世に戻り来て、日神と月神とを、己が目を洗う時に生み成し、海の水に浮き沈みしながら己が身をすすぐ時に、天つ神や国つ神を生み成した。 |
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2月 3日 |
まことに、始原の時は杳として明らかではないが、古くから伝えられた教えにより、国土を孕み、島を生み成した時のありさまを知り、根源の時は遥かに極めがたいが、今は亡き聖たちの教えに頼り、神を生み人を立てた世のさまを知ることが出来たのである。 |
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2月 4日 | 高天原の安の河 |
ありありと知りえたのは、鏡を榊の枝に懸け、口に入れた珠を吐き出して子を成し、その子孫が百代にもわたって相継いで地上を治め、剣を口の中てで噛み砕き、恐ろしい蛇を切り散らし、万の神々が集まり、高天の原を流れる安の河で議論して天の下を平らげ、出雲の国の小浜で敵と渡り合って国土を清めた、ということであった。 |
2月 5日 | 神武天皇 |
こうして、番仁岐命が初めて高千穂の嶺に降り立ち、神倭(神武)天皇は秋津の島を経巡って行った。熊に変化した悪神が熊野川に顕れ出たときは、天の剣を高倉の中に見つけて危難を逃れ、尾の生えた野蛮な者どもが行く手を遮った時は、天より遣わされた大きな烏が吉野の地に神倭天皇を導いた。その吉野の地では、舞いを舞わせて刃向かう賊どもを攘い退け、兵士たちの合図の歌を聞いて敵を討ち伏せたのである。 |
2月 6日 | 崇神天皇 |
また、御真木(崇神)天皇は、夢の中に神の教えを聞くや、天つ神と国つ神とを敬い祀った。そのために人々は皆、世にも賢き大君と敬っている。 |
2月 7日 | 仁徳天皇 成務天皇 允恭天皇 |
大雀(仁徳)天皇は、民の炊煙のさまを視察して人々を撫育したゆえに、今も聖の帝と称えられている。 |
2月 8日 | いずれの天皇も |
歩みには緩やかさや速さの違いがあり、内実の華やかさや質朴さも同じではないが、いずれの天皇も、古を顧みながら古来の教えが既に崩れかかっているのを正しく整え、その教えによって今の世を照らし導き、教えの道が絶えようとするのを補正しないというようなことは一度たりともなかったのである。 |
2月 9日 |
飛鳥の清原の大宮において大八州を支配された大海人(天武)天皇の御世に到り、水底深く姿を隠していた竜が己を知って立ち顕れるように、しきりに轟きわたる雷のように、時機に応えて動きがあった。 |
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2月10日 |
然しながら、天命の時はいまだ到来しないというので、南にある吉野の山に、蝉が殻を脱ぐ如くに抜け出て潜み、人事が整ったと見るや、東の国に虎のごとくに勢いよく歩み出た。 |
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2月11日 |
吉野を出立して天皇の輿は、たちまちのうちに山を越え川を渡り進んだ。天皇の率いる六つの軍隊は雷のごとくに大地を震わせ、その御子、高市皇子が率いる三つの部隊も雷のごとく前進した。兵士たちは手にした矛を杖にして勢いを奮い立たせ、勇猛な戦士たちは立ち込める烟りのように湧き起こった。 |
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2月12日 |
大君の軍隊が持つ紅の旗は、兵士たちが手にした武器を輝かせて敵を威嚇し、凶徒どもはまるで瓦が落ち砕けるように散り散りになったのである。ほんの僅かな時も過ぎないうちに、災いは自ずからに鎮まった。 |
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2月13日 |
すぐさま天皇は、戦いの荷を負わせていた牛の手綱をゆるめ、敵を追うために疲れた馬を憩わせて、ゆったりと都に凱旋したのである。戦いのしるしの旗を巻き収め、矛を鞘に収めて、勝利の美酒に舞い歌いつつ戦士たちをねぎらって都に留まることとなった。そして、木星が真西に宿る酉の年、月は二月に当たる時に、天皇は清原の大宮において、天つ位に昇り即いたのである。完 |