徳永圀典の書き下し「日本国体論」その八  「国体論索引表」

平成21年2月

日本の皇室

2月 1日

日本の皇室

津田左右(そう)(きち)博士

敗戦後、「皇室は人民の敵である」なとど悪意に満ちた宣伝が共産主義者と進歩的文化人によりもてはやされた。
それも津田左右吉博士の史学を担いで津田史学の流れを汲む歴史学者のよう
な顔をしながら、実は全く異なる政治的意図による恣意的な文章が、科学的いう名の下に氾濫した。津田博士はかかる風潮に黙し難くなったとみえ、昭和27年「中央公論」八月号の「日本の皇室」に於いて次のように述べられた。
2月 2日 津田左右吉博士の「日本の皇室」

「六・七年以来、特殊の主張を持っている一部の人たちらよって、日本の歴史に関するいろいろの言論が数多く発表せられている。昔から書かれて来た日本の歴史は、多く虚偽な造作によって真実が蔽われているから、その仮面を剥ぎ去って真実を暴露するのだ、というのである。
然し、私に言わせると、そういう人たちが真実として示そうとしたことのうちには、実は、偏僻な主張に基づいて恣に構成せられたもの、虚偽とし

て非難せられたことよりも、それとは違った考え方、または違った方面のことながら、更に甚だしき虚偽を含むもの、学術的研究の名を借りては居るが、実は全く非学術的なもの、などかせ少なくない。
何よりも自国の歴史を嘲笑的態度で取り扱い、また日本人の過去の生活を醜悪に満ちたもの、無価値なものであるかの如く説き下すことに、誇りを感じているように思えるもののあることは、日本人の一人として私には深き心の痛みを覚えさせる」
2月 3日 「日本の皇室」2 津田左右吉 「近頃のジャーナリズムの上に現れる我が国の皇室または天皇についての言論を見ると、昔から天皇は国民に対する政治的権力者であられたように、いいかえると天皇は権力を以て国民に臨まれたように考え、 そうしてそこに天皇の地位の本質があり、天皇も国民とは政治的権力において対立の関係にあったものの如く思っているらしく、解せられめものが少なくない。しかし、これは私に言わせると、根本的に誤った見解である」
2月 4日 津田博士の強調される「日本の皇室」の特色は大体次の諸点である。 1.天皇が権力をもって国民に臨まれたことは昔から無かった。実際に政治の局に当られたことも一、二の例外を除けば、全く無かった。
2月 5日 2.国民は皇室と権力関係における対立の地位にあったことはない。従って、国民は皇室に対して畏怖、反抗の念を抱いたことは、ただの一度もなかった。皇室と争おうとしたことも全くない。

3.皇室の本質と機能とはも何よりも日本の国家が統一された独立国家として、永久の存在であることの具体的象徴である点にあった。 

2月 6日

4.皇室のはたらきの主要なものは、年中行事として種々の儀礼、官位の叙任。

5.一系の皇室が国家永久性の象徴となり、戦国割拠の時代にも、皇室の存在を思うことで、日本が一つの国であることの信念を深めた。江戸時代には、天皇を己らの心の中の存在であるかの如く思って極めて自然に天皇に対し無上の尊敬を捧げた。
2月 7日 6.天皇は、国家の長久と国家の安泰を願われ、それを御祖先と御子孫とに対する天皇の道徳的責任と自覚される。その御心情(大御心(おおみごころ))が重要で、その純粋な御心情が国民の胸裡に何らかのはたらきをした。

7.皇室は文化の中心であり、指導者であらせられた。政治的手腕を振るい軍事的功業をたてられた天皇はいないが、学者・文人・芸術家として第一流の御方は多い。 

2月 8日 津田博士の「皇室」所見 8.明治以降、ヨーロッパ風の考え方に毒されて、日本固有の皇室と、国民との関係が歪められた。明治憲法に於ける統治権とか、天皇大権とかいう権力的考え方も、日本固有の政治思想になかったものである。

9.特に、天皇と天皇の権を執行するものとしての政府との関係が曖昧である。国務大臣の輔弼ということも不明確で、責任の所在もあいまいである。
(ここに無責任の体系が入りこむ)
 

2月 9日 10.政府のすることは全て天皇の御意思であるという感じを国民に与え、名を天皇にかりて国民を圧迫しようとしたのは大きな誤りであった

11.憲法上、天皇は議会の議決した法案に不裁可権をもたれるにもかかわらず、それを用いられたことは一度もなかった。これは天皇が議会と国民を重んぜられた証拠である。 

2月10日

12.立憲政体そのものがヨーロッパの制度の模倣で、日本人自らの生活の要求から自身で創生したものでないから、それを正しく運用することが出来なかった。

13.明治時代の民選議院設立要求も、実は一部の政治家と知識人の主張に過ぎず、一般国民のあずかり知らぬところであった。
2月11日

14敗戦に至る日本の運命も、実は政治の運用は人にあるのに、その人を得ず、一般国民は参政の権と義務とを忠実に行なう覚悟をもたなかったからである。

15.終戦の際の聖断は、憲法上の大権の発動などでなく、国民の安泰を念とせられる昔からの皇室の伝統的な御心情の発露と解すべきものである。
2月12日

16.明治憲法の規定は、君主の権と人民の権とを対立させたヨーロッパの思想に基づき君主の権を優越の地位に置いたが、これは日本固有の天皇の地位と性質とは別のものである。

17.新憲法は逆に人民の権を優越させ、君主の権を抑えて主権が国民にあるとしたが、これも昔からの日本ではない。
2月13日

18.明治初期の民選院設立の建白書とても、天皇の権に対抗する意味で民権を主張したりしたわけではなかった。

19.ただ憲法で天皇が日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるとし、国政に関与せられず、ただ国事に関する一定の行為をせられることにしたのは、日本の昔からの天皇の地位とその性質によく適合しており、これはいみじくも表現せられたといえよう。
2月14日

20.世間では、昔から天皇が神権をもっていられたとか、古代の政治は神権政治であったとか、日本は家族国家で天皇は族長であられたとかいうが、それはみな歴史的事実にんい事ばかりである。

21.天皇制という語は意義があいまいで、恣意的な独断説を付会しやすく、使わぬ方がよい
2月15日 津田博士の
「まとめ」

22.明治の天皇制が資本主義の経済機構と離るべからざる関係があるとか、その支柱となったとかいう説も根拠のない主張である。

23.あらゆることがらが、経済機構によって支配せられるとするのは偏見である。

以上が津田博士の、日本の皇室における要点であるが、これは西洋文化の俘虜と化した進歩主義文化人や軽薄調子の後進模倣性を脱し得ない才子や、又は敵前上陸しきたった敵国人の意識をもって日本を呪詛(じゅそ)し破壊せんとする者は、凡そ本質を異にするもので、これが本当の歴史学者の客観的公正な実証的意見であると思う。 
2月16日 統一性と連続性 天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)とか万世一系(ばんせいいっけい)などの言葉が示す永遠不滅の原理とは、常なる新陳代謝、常なる循環還元、常なる流転流動してやまない自然法則の作用のことである。 これの反対は、断絶、四散、滅裂であろう。凡そ永遠性あるものとは、統一性と連続性の二つの作用に裏打ちされている。統一性は「陰の作用」、連続性は「陽の作用」である。
2月17日 西洋と中国の原理 宇宙には、生存法則、造化作用があり、万物を生成化育、進化生長せしめている。この宇宙の根源的原理を人間生存の原理として捉え実践してきた中で、古今東西、日本固有の道を凌駕するものは世界の中にはあるまい。 西洋の理念・原理は、終始一貫して陰陽に始まり、陰陽に終わり中心がない。
中国は、太極陰陽を発し、陰極って陽となり陽極まって陰となるが中心を喪失している。
2月18日 日本の原理 我が国だけは、「陰陽中心より発して分し、分して中心にむすぶ」というという原理を打ち立ててきた。
神道の原理がそれであり、天皇が即ちその理念の顕現となっている」。
「万世一系といい天壌無窮といい、すべてこの原理を表現したものである。
統一性と連続性に於いて百二十五代、連綿として一系を貫いているのである」。
 
2月19日 ロバー・N・ベラー氏の見解その一 日本に於いて見られるような文化、社会、個人の融合タイプは、原始的、古式な文化に見られるごく普通の特徴である。それは紀元前一千年頃までは文明世界に存していた青銅期君主国においてごく一般的にみられたものである。 然しながら、その当時は、一連の社会的、文化的革命が古風な共同体を分解して新しいタイプの社会へと移行したのである。この新しいタイプの社会の主な特徴の一つは、普遍的な宗教や哲学の出現であった。そしてその宗教や哲学は以前からあった社会集団を横断し個人的人格の主張に新らたな根拠を与えたのである。
2月20日 ロバー・N・ベラー氏の見解2 紀元前五世紀の日本が、古典的タイプの青銅期君主国であったことは明らかである。しかしながら、日本では、君主国とそれに伴う祭儀宗教体系(神道)とが生き残って大きな制度的、文化的変化に適応することができた。 

この制度的、文化的変化は、中国の刺激のもとに行われたのであったが、当時の中国はそれ以前からの重要な遺産を多く持っていたにもかかわらず、既に歴史的タイプの社会であった。 

2月21日 ロバー・N・ベラー氏の見解3

日本も歴史的タイプの社会の特徴を多くの点で取り入れていったけれども、それは徐々に大きな衝撃なしに行われたのであった。血縁や擬血縁を重く見る有機的タイプの集団構造がてまだに存在していること、

以前と変わらず無窮に続いてきた古代国家が、未だに存在していることからも、それは示されよう。文化・社会・個人の間のほとんど古式タイプの共同体の存続も社会的動乱や歴史的タイプの宗教、哲学の輸入のために揺すぶられた。
2月22日 ロバー・N・ベラー氏の見解4 鎌倉時代は大きな社会不安の時代であるが偉大な仏教思想家である親鸞や道元を生んだ。彼らは、原理的には共同体を解体したのである。だが、日本の個別主義は、仏教の普遍主義よりも強く、後の真宗や禅宗の 歴史に明らかなようように、仏教そのものを徐々に吸収してしまったのである。
徳川時代のいく人かの活発な思想家に代表される儒教も同じように古式の思想構造に挑戦したのだが、しかし不成功に終ったのだった。
2月23日 勝部真長氏の見解

古代日本の統一国家としての成立が、時期的に紀元五世紀頃であろうことは、今日、古墳及びその出土器の考察からも一般に認められるところである。

後期古墳の早い頃を代表する応神稜、仁徳稜がそのスケールにおいてピラミッドをしのぐ記念碑的大建造物であり、そこには当時既に絶大な権力を誇った大和朝廷の厳然たる存在と、日本にあける統一国家の基礎の確立が伺われる。
2月24日 勝部真長氏の見解2

そういう天皇中心の小さな君主国は、古代世界には珍しいものではなく、どこでも沢山あった。然し、それらは大帝国の出現で、大抵併呑され吸収されて地球上から姿を消してしまった。

我が国も、幾たびかそういう大帝国のローラーにかけられる危険に直面したことがあった。最初は663年、白村江の戦いで唐、高麗連合軍と戦って大敗した時である。
2月25日 勝部真長氏の見解3 もしあの時、大唐国の支配圏に日本が入ってしまえば、日本社会の原型は脆くも崩され今日とは全く異なる社会構造のものとなっていたであろう。 また文永、1274年、弘安1281年の役も大きな危機であった。いわゆる神風という台風が吹いて、元軍の船が沈没、わが軍また大いに勇戦奮闘奇襲によって敵艦を焼き敵将を捕らえ残敵を一掃したのであった。
2月26日 勝部真長氏の見解4

日本列島がアジア大陸から相当の距離を保っていたという地理的条件が幸いして大陸を吹き荒れた大帝国のブルトーザーのような破壊力も届きかねて日本は古代社会の原型をほぼそのまま温存することができ、その後の時代の変化にも他からの

干渉なしに、自然に無理なく対応することができたのである。実に日本の珍しさは紀元五世紀頃の青銅期君主国の原型も崩さずにほとんどそのまま生き永らえてきた。しかも20世紀の現代の、最先端の科学技術文明に適応しているという不思議な事実にあるのである。 
2月27日 勝部真長氏の見解5

古代エジプトや、メキシコやペルーやスチュアート期以前のイギリスにあったものが、この日本に温存されていたということは日本社会が被征服による連続性の中断と統一性の破綻とを未だ経験しなかったことの証拠である。

メキシコやペルーはスペインの侵略の前に亡びた。
我が国の場合、そういう古い原始の理論を温存しながら同時に新しい科学技術社会にも適応できるところに、メキシコやペルーやエチオピアとは異なる柔軟な、積極的な活力が見られる。
2月28日 勝部真長氏の見解6

日本は常に新しがりやで好奇心の固まりでありつつ、しかも古式で原始的である。だから日本は世界で一番最後まで残った「秘境」であり、チベットなどよりももっと理解しにくい奥底の深い社会構造をもつているとみなされる。

一民族で、一言語で、一国家を成しているという点に、我が国の統一性と連続性が著しいが、特に「民族」と「国民」とがピッタリ重複しているのは、多民族、多言語の複合国家の多い現代世界の中で実に驚くべきことであると言ってよい」