国、 (ぼう)し給うことなかれ その2     江藤 淳
平成23年2月

2月 1日

従って、前文と第一条を見る限り、いわゆる「主権在民」を規定した日本は本質的に共和体制の国であり、天皇とはその上に乗っている帽子の羽飾りのような余計なものという印象を与えられざるを得ない。ところが、同じ現行憲法は、第二条においては一転して「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定している。

2月 2日

この条項で「世襲」を定めているからには、皇位は皇統の維持によっておのずから継承されたもので、別段国民投票などによる承認を必要とするものではないと読むことができる。
つまり、第二条の規定は、はじめから共和政体には全く馴染まない。明らかに立憲君主制にふさわしい条項と解釈できるのである。

2月 3日

換言すれば、現行憲法第一条はいはば、共和制プラス・ワンであり、第二条は立憲君主制の規定であって、このあいだには、分裂と自己矛盾しか認められない。強いて言えば、第二条で規定されているのは、共和制プラスワンのうちのプラスワンに相当する部分、つまり羽飾りの継承だけと考えられなくもないが、その場合と雖も「国民の総意」と「世襲」との間の矛盾は少しも解決されない。たかだか「国民の総意」と看破されるものによって「世襲」とするという程度の説明しか、どう考えても思いつきようがないからである。

2月 4日

従って、「象徴天皇制」たるものは、放置しておけば、当然限りなく共和制に近づく契機を内包しているということになる。しかも、それでいながら、憲法典を改正でみしないかぎり、どうしてもあのプラスワンがついてまわり、然も「世襲」されることになっている為である。

2月 5日

このように奇妙きてつれな構造が生じたのは、もとより現行憲法の第一条と第二条とのあいだに論理的整合性が全く欠如しているからにほかならない。

2月6日

それでは、そこに一体何があったのかと言えば、恐らく便宜的な必要性以外のものは何一つなかった。何故なら「象徴天皇制」なるものを作り出したのは「日本国民の総意」でもなんでもなかったからである。

2月 7日

それは明らかに外国製であり、しかもGHQ民生局所属の25人の米国陸海軍軍人が昭和2124日から10日に到るまでに、六日六晩の突貫作業で作り上げたものにほかならなかったのである。

2月 8日

これについては拙著「落葉の掃き寄せ・1946年憲法―その拘束」に詳述しているので、くだくだしくは繰り返さないが、この突貫作業に当時の対日占領政策が内包していた連合国側の意思の分裂と自己矛盾がそのまま反映していたのは余りに当然であった。即ち、現行憲法第一条には、例えば天皇と日本政府を「利用はするが支持せず、将来の政体は日本国民の意思に委ねる」とした「初期対日方針が投影していることが明らかである。占領軍にとって理論上望ましいのは勿論共和政体であるが、当面拙速を避け、占領の成功する見通しが立つまでは天皇と日本政府を「利用」することにしようというのである。

2月 9日

これに対して、皇統の「世襲」を規定した第二条には「現皇統下における立憲君主制を排除するものではない。という、ポツダム宣言第十二項原案が二重写しになっているものと考えられる。 この原案は、元駐日大使の知日派、ジョセフ・グルー国務次官によって起案されたものだつたが新任の国務長官ジェイムズ・バーンズがポツダム出発直前に元国務長官コーデル・ハルの意見を求め、その結果原案は不採用となり、問題の文言は削除されてしまった。

2月10日

もし皇統の持続を保障するこの原案が生かされていれば、軍部をも含めて日本側の終戦の意思決定は昭和207月下旬まで繰り上げられ、広島・長崎への原爆投下以前に停戦を実現することも不可能ではなかったかも知れない。原稿憲法草案起草の段階で、GHQ民生局がこの原案の趣旨を第二条として復活させ第一条と併記することにしたのは、このときまでに既に占領軍当局が、天皇と皇室の「利用」価値を、あらためて十二分に再認識していたからに違いない。因みに、起草に当ってマッカーサーが民生局長ホイットニーに手交した所謂「マッカーサー・ノート」には「皇位は世襲される」と明記されている。

2月11日

このように、歴史的に一次史料によって検討してみれば、現行憲法の条項に対日占領政策がいわば凍結させられたままになっていることは、殆ど一目瞭然と言わなければならない。いや、占領政策は、単に凍結させられているのみならず、何らかのきっかけさえ与えられれば、43年を経過した現在でも、そののちになっててからでさえも、いつでも作動して当時の占領者の意思を実現できるような仕掛けになっている。そして、この仕掛けは、この間に日米関係にどのような変動があっても、憲法典に変化が無い限り基本的に不変なのである。
従って、「象徴天皇制」なるものは、当時と同じように決して安定した構造に立脚しているものではなく、いつでも共和制と立憲君主制に分裂し得る契機を現にその中に含んでいる。

2月12日

「遠つおやのしろしめしたる大和路の・・・・」と詠まれた大行天皇の場合には、現行憲法の便宜的な相互矛盾的条項が設けられるずっと以前から天皇であったがために、身を以てこの契機を超えて来られたというに過ぎない。そして「戦後民主主義」とは既に述べた通り、このような法理上の契機とそれをもたらした歴史的な背景とを、ともに隠蔽しようとする黙契の別名にほかにななかった。そのような「戦後民主主義」と「象徴天皇制」の宣伝に没頭していた18日のマスコミが、あたかも40年前の占領時代そっくりそのままの様相を呈していたのを、これらの事情を振り返ってみれば余りにも当然というべきかも知れない。

2月13日

しかし、国民は、そのように人為的な仕掛けと仕組みを、軽々と超越しておられた大行天皇のお姿を既に見てしまっている。そして崩御され、御遺体が殯宮に安置されている今日、一層ありありと見つづけていると言ってもよいのである。国民はまた、天皇が生者のみの為の天皇であるばかりでなく、同時に悠久の死者たちのための天皇でもあったことを深く実感している。 「昭和」という時代の時空間は生きている「国民の総意」だけによって形成されて来たものではない。それは生者と死者とが、共に手を携えて作り上げて来た時空間であった。そのことを大行天皇は片時も忘れてはおられなかったのである。

2月14日

皇室の「尊厳神聖」
ところで改元があって元号が「平成」とあらためられた昨今、一部マスコミは依然として「開かれた皇室」、「皇室の民主化」あるいは「皇室外交」というようなことを唱え続け、それが恰も「象徴天皇制」の要件であるかのような言辞を弄している。だが、果してそうだろうか。聞くところらよれば、東宮参与としてお仕えした故小泉信三博士は、福沢諭吉の「帝室論」と「尊皇論」を御進講したことがあったという。福沢のこれらの著述はまた、吉田茂元首相の熟読したところでもあり、吉田元首相に新時代の皇室の在り方を示唆したものだともいう。それなら、福沢は、これら二つの著述でいったい何を説いているのだろうか。

2月15日

ここで注目すべきことは、この二つの論文が明治1410月に国会開設が発布されたあと、第一回帝国議会開会前に、いずれも書かれているという事実である。即ち、「帝室論」は明治15年の4月から5月にかけて発表され、「尊王論」は明治21年の9月から10月にかけて書かれた。発表の舞台はいずれも「時事新報」であった。
例えば、福沢は「帝室論」でこう言っている。国会を開設して「人民一般に参政の権を附与し多数を以て公明正大の政を行ふ」といえば、いかにも人聞きがいいようであるけれども、実際に国会が開かれて政党の代議政治が始まり「(ずい)て両三政党の相対するあらば、其間の軋轢(あつれき)は甚だ苦々しきこと」になるに違いない。反対党を攻撃して相手を傷つけるなどということは朝飯前、傷つけられた方も報復の念に燃えて必ずやまた傷つけ返すに決まっている。 

2月16日

或は人の隠し事を摘発し、或はその(わたくし)醜行(しゅうこう)を公布し以て争闘と、(つぶて)を投じ瓦を(こわ)つ等の暴動なきを期す可からず。西洋諸国大抵然り。我国も遂に然ることならん。・・・

要するに、福沢は、民主的な代議政体などというものは「言語道断」であって実にいやなものだ、と云っているのである。とはいうものの、それが「世界中の気運」であれば日本かせその方向に向うのもまた致し方ない。然し、そう達観してはみても、「一国の政治は甚だ殺風景なるもの」であることに聊かの変りはない。 何故なら、政治とは「唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、その約束に従ふ者は之を赦し、従はざる者は之を罰するのみ」という世界だからである。

2月17日

これら「尊王論」の言葉を補うなら、政治の世界とは「人情に冷ややかにして漸く法理に熱」する世界にほかならない。畢竟、政治とは「理」に落ちるものであり、「形体の秩序を整理するの具」であって、「人の精神を制」し、「人情」を汲み取るものではない。これに対して、「我が帝室は日本人民の精神を収攬(しゅうらん)するの中心」である。それは、帝室が常に「政治社外」にあり、いやらしくも醜い党派の闘争に超然としているからである。

2月18日

だからこそ、「国会の政府は二様の政党相争ふて、火の如く水の如く、盛夏の如く、厳冬の如くならんと雖も、帝室は独り万年春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催す可し」ということになる。このような政府は、なるほど、「国民の名代たる国会議員の政府」には違いない。しかし、この政府は「道理の府なるが故に情を尽すを得」ない。

2月19日

「理を伸さんとすれば、情を尽す可らず、情を尽さんとすれば理を伸す可らず」であって、「二者両立する可からざるものと知るべし」というのが人の世の習いだからである。この時に当って「日本国中、誰かよくこの人情の世界を支配して徳義の風俗を維持すべきや。唯帝室あるのみ」ということにならざるを得ないのである。

2月20日

既に明らかな通り、福沢諭吉は、皇室は「民主化」すべきだなどということを一言も言っていない。単に皇室は、「政治社外」にあくまでも超然として、「人情」と「徳義」の源泉となることにより、争闘つねなき近代政治社会の「緩和力」となって頂きたいと願っているのである。

2月21日 法律の「白文」は同国人の制定したものと雖も既に人情に(ひややか)」である。いわんや外国軍人の起草した法令にいたっては「人情」に背馳するのはいうに及ばず、必然のいきおいおのずから氷のように「(ひややか)」なものとならざるを得ず、ことのほか「殺風景」なものとならざるを得ない。
2月22日

その「(ひややか)」にして、「殺風景」な条項を楯に取って、皇室に共和政体への顧慮を求めるかのような議論は、もとより慮外の沙汰というほかなく、そもそも「形体の秩序を整理する」役に立ちはしない。前述の通り、現行憲法の第一条と第二条とのあいだの連関は「人情」に即していないばかりではなく「理」にもまた叶っていないからである。全く同様に「尊王論」における福沢諭吉は「開かれた皇室」などではなく皇室の「尊厳神聖」をほ求め、それが侵されることを憂慮している。

2月23日

彼は言っている。・・・・元来帝室は、天下万衆に降臨し恩徳の湧源(ようげん)たるのみにして、如何なる場合にも人民怨嗟の府と為る可からず。()如何なる事情に迫るも帝室にして時の政府と()()(とも)にするが如きは、我輩の断じて取らざる所なり。

2月24日

如何(いかん)となれば、帝室は政治塵外(じんがい)に独立して無偏(むへん)無党(むとう)、円満無量の人望を収むべきなればなり。・・封建の遺民は次第に死し去り、第二世第三世に生れ来る者は文明流の男子にして、漸く人情に(ひややか)にして漸く法理に熱し、一令(いちれい)下る毎に其文字を読み其字義を論じ、其発令の(もと)を帝室に溯り(さかのぼ)喋々(ちょうちょう)するが如きあらば、之を如何(いかが)()きや。恐多くも尊厳神聖を俗了(ぞくりょう)するものにして、其禍の及ぶ所実に測る(べか)らず。此時に当り経世(けいせい)士人(しじん)(にわか)狼狽(ろうばい)し、尊王の精神家が切歯扼腕(せっしやくわん)するも、事既に(おそ)しの(たん)はなかる()きや。

2月25日

我輩の深く恐るる所なり。()れば、人は一代の人に非ず、誰れか死後を思はざる者あらんや。(いやしく)も後世子孫を思ふて我日本社会の安寧を祈る者は、帝室の尊厳神聖を我国の至宝として之に触るることなく、身の欲を忘れ心の機を静にし、今の社会の時相(じそう)を視察して将来の世運を(ぼく)し、今日に全く無害なるも百年の後に不安なりと(おもい)()たることあらば、決して之を等閑(なおざり)に附す(べか)らず。(てい)(げん)或は過慮(かりょ)なりとて世の笑を取ることもあらんなれど、(もと)より憚るに足りず。是非の定論は(けだ)(がい)(かん)の後に知る可し。

2月26日

今日われわれは、福沢の予見がいかに正しかったかを痛いように知っている。天皇の「戦争責任」論の如きは、言うまでもなく皇室を「人民怨嗟の府」と化し去るための内外の策謀の所産であった。

2月27日

然し大行天皇は超然としてそれによく堪えられ、崩御のそのときにいたるまで、皇室の「尊厳神聖」を身を挺して守り抜かれた。そして、そのことにはたと気がついたとき、多くの国民は、天皇と自分とが「(ひややか)」な法理を超えた「人情」によって確と結ばれつづけていたことに気付き、そのことに深く感謝したのであった。

2月28日

まことらも「人は一代の人に非ず、誰れか死後を思はざる者あらんや」である。
願わくは「平成」の時空間(じくうかん)が「昭和」の時空間と同じように悠久の古代に通じ、そのなかで死者と生者が相違うことのできるような時空間でありつづけることを。そして「後世子孫」のためにも、皇室の「尊厳神聖」が「我国の至宝として之に触るることなく」、とこしえに伝えられんことを。           完