徳永圀典の「日本歴史」その24

平成20年2月

 1日 日米関係の変化 日露戦争の時、ロシアが満州を占領するのを恐れたアメリカは日本に好意的であった。処が、日本が南満州に進出すると、アメリカは日本の強大化を意識し始めた。

また、19世紀後半より太平洋に進出を始めていたアメリカにとり、強力な海軍を備える日本はその前に立ちはだかる目障りな存在になってきたのである。 

 2日 アメリカの人種差別 アメリカ国内では、中国移民やアメリカ先住民への人種差別が続いていたが、日露戦争終結の翌年、アメリカ・カリフォルニア州で、日本人移民の子供を公 立学校から締め出すという法律が制定された。
勤勉で優秀な日本人移民への反発や嫌悪が大きくなってきたのである。
 3日

オレンジ計画

このような中、1907年、アメリカは、将来、日本と戦争になった場合の作戦計画、所謂オレンジ計画を立てた。 また日本も同年に策定した帝国国防方針の中で、アメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ防衛計画を立てるなど、アメリカと日本間に緊張関係が高まっていた。 
 4日 アメリカの人種差別 第一次大戦後のバリー講和会議で国際連盟開設が提案された、この会議で日本が唯一提案したのが「人種差別撤廃法案」であった。この日本案は、日本人自らが重視し世界の有色人種からも注目を浴びたものであった。 投票の結果、賛成多数であったが、議長国アメリカの代表ウイルソンが、「重要案件は全会一致を要する」として不採用を宣言したのである。これは多くの日本人の反発をかった。この後も、アメリカでは日本人移民排斥の動きが続き日本人はアメリカに人種差別を受け続けた。
 5日 白船事件 19083月、16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が目的地のサンフランシスコ寄港を経て突如、世界一周を口実にして太平洋を西へ向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しか無い。パリの新聞は日米戦争は必至と書きたて日本の外債は暴落した。欧米は今も昔も変わらない。日本政府は慌てた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明白であった。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と区別し「白船来航」と呼ばれた。 日本政府は、国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌を掲載、「WELCOME」と書いた英文の社告を載せた。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振り万歳を連呼しアメリカ海軍将校達は歓迎パーティぜめにあった。彼らを乗せた列車が着くと1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。日本人は心底アメリカを恐れていた事を物語る。
 6日 ワシントン会議 1921年には、海軍軍縮問題を討論するワシントン会議が開かれ、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、そしてアメリカの9ヶ国が集まった。 米英日の三ヶ国の主力艦の保有率が、5・5・3と決定した。また中国の領土保全、門戸開放が九ヶ国条約として成文化された。チンタオの中国返還も決まり同時に20年続いた日英同盟が廃棄された、これは日本の曲がり角であった。
 7日 日本の未来へ暗い影 主力艦の相互削減は、アメリカやイギリスのように広大な支配地域を持たない日本にとり、寧ろ有利であったとも言える。 然し、当時の日本人には屈辱的であり更にその上、日本もイギリスも望まない日英同盟の廃棄はアメリカの強い意思によるもので、日本の未来に暗い影を投げかけたと言える。
 8日 二つの政治観念 ヨーロッパから発達した二つの政治観念が1920年―1930年代に世界に広まり、夫々革命運動を生み出し、政治体制を作り上げて20世紀の歴史を動かす二大要因となった。 一つは共産主義であり、一つはファシズム、ドイツではナチズムと言い国家社会主義のことである。
 9日 共産主義 共産主義はマルクスの思想から始まり、ロシア革命を起した。これは、世界に豊かな階級と、貧しい階級との対立から発生する矛盾を解決する為に、生産手段を自ら持たない貧しい労働者階級が団結して権力を握り、経済を計画的に運営することを目的としたものである。その為に私有財産を否定し一党独裁の道を選んだ。
レーニンの死後ソ連ではスターリンの指導のもと1928年から
5か年計画が実行され重工業の建設や農業の集団化が進められた。けれどもこの国は、唯一の独裁者が党を足場にして権力を握る独裁国家でもあった。スターリンは秘密警察よ強制収用所を用いて人々を大量に処刑した。ソ連は無階級社会を作るという理想から出発したのだが、現実には過酷な強制労働と膨大な数の犠牲者を続出した。敗戦後の日本兵の抑留と強制労働により多数の死者を出したことを日本人は忘れてはならない。 
10日 ファシズム もう一つの政治観念は、ドイツやイタリヤを中心としフランスやスペインにも波及したファシズムである。ドイツでは、これをナチズム、国家社会主義という別の言葉で呼ぶ。第一次世界大戦後、ドイツは巨額の賠償金を背負わされ激しいインフレに襲われ国民の不安が高まった。 この頃、ヒトラーがナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて登場し、民族の栄光の回復をスローガンに掲げると、人々は次第に彼に魅惑された。ナチス党は、世界恐慌による国内の混乱に乗じて、国会に230議席を占める第一党に躍り出た。1933年、ヒトラーは政権を把握し独裁体制を作りあげた。 
11日 大量虐殺 ナチスにとり一番大切なのは人種であった。ゲルマン民族の純潔を守るという理念の為には手段を選ばなかった。共産主義が世界に拡散することを恐れる感情が強かった。 ヒトラーの独裁国家はスターリンと同様で秘密警察や強制収用所を用いて大量の殺戮を行った。ナチス党はソ連共産党と同様に国家を意のままに左右する強大な権力機構であった。
12日

世界恐慌

第一次大戦後、世界一の経済大国となったアメリカで、192910月、株価大暴落があり恐慌が発生した。アメリカは自国産業保護のため外国から輸入される商品に極端に高い関税をかけた。

為に一年半の間に貿易は半減し、世界恐慌へと発展した。日本の商品輸出も当然締め出された。当時のアメリカは自国の政策が世界経済を左右するという自覚に欠けていた。 

13日

昭和恐慌

これによりアメリカへの輸出に頼る日本経済は大きな打撃を受け、大量の失業者が街に溢れた。農村でもアメリカ向け生糸の輸出額が激減し、その上1931 年、昭和6年には東北地方に凶作が襲った。
そのため、昼食の弁当を持参できない欠食児童が出たり、親の借金の身代わりに幼い娘を都会の働きに出す事態が起きた。
14日 満州 こうした大不況に対して政府は十分な対応をしなかった。その為、国民の政党政治ら対する信頼が揺らぎ始めた。

その一方、経済的困難の打開の為に注目を浴びてきたのが、中国東北部に位置する満州であった。 

15日 清朝滅亡後の中国と排日運動

清朝滅亡後の中国では、各地に私兵を抱える軍閥が群雄割拠していた。中国国民党の指導者・蒋介石は北京を抑えて新政府を樹立し、その勢力は満州にも及んだ。
中国の国内統一が進行する中、不平等条約により中国に権益を

持つ外国勢力を排撃する動きが高まった。中国ナショナリズムの表れであったが、暴力により革命を実現したソ連共産主義の影響もあったので過激な性格を帯びていた。勢力を拡大してくる日本に対しても商品ボイコットし日本人を襲撃する排日運動が活発化した。
16日 協調外交の挫折

大正末から昭和の初めにかけて、議会で多数を占めた政党による政党内閣政治が定着していた。当時二期にわたり外相を務めた幣原喜重郎は英米と協力してワシントン体制を守り中国のナショナリズムにも同情を持って

対応する強調外交を推進した。南京で1927年に起こった外国人襲撃事件でも、日本は中国に対して最も寛大な態度を取った。国内では幣原を軟弱外交として批判する声が強くなった。
17日 中国の革命外交 中国政府は、日本を含めた各国との不平等条約の無効を一方的に通告できるとする方針を掲げ、これを革命外交と称した。日本は九か国条約の保証人の立場にあったアメリカに、 国民党政権は不当だと訴えたが、アメリカ政府はこれに対して十分に応えなかった。為に日本の軍部は、国際協調の精神で中国に対処するのは難しいと考える人が出てきた。同感である。
18日 軍部への期待高まる 1930年、ロンドンで補助艦の制限を議題とする海軍軍縮会議が開催された。(ロンドン軍縮会議)。日本の海軍は英米10に対して7の補助艦比率を強く望んだ。

一部軍人や、それに同調した野党政治家は比率が要求を下回った為、明治憲法に定められた天皇の統帥権を犯したとして政府を激しく攻撃した。
(統帥権干犯問題)
 

19日

政党政治への不満

軍人が政治に介入することは明治憲法に違反し、軍人勅諭でも戒められていた。然し経済不況による社会不安を背景に、中国に於ける排日運動と満州権益への脅威に対処出来ない政党政 治対する強い不満がおきた。
政府とは別に、軍の中に独自の政策を論じ実行しようとする考え方を持った中堅将校グループが形成された。
 
20日 政党政治への不満 軍人が政治に介入することは明治憲法に違反し軍人勅諭でも戒められていた。然し、経済不況による社会不安を背景に、中国に於ける排日運動と満州権益への脅威に対処出来ない政党政 治対する強い不満がおきた。
政府とは別に、軍の中に独自の政策を論じ実行しようとする考え方を持った中堅将校グループが形成された。
21日 南京の外国人襲撃事件 蒋介石による国内統一戦の途上 19273月、南京を占領した国民党軍の兵士が、英国・米国・日本などの各国の領事館とキリスト教会を襲撃し居留民に暴行・略奪を働き死者を出した。

英米両国は武力で反撃したが、日本は幣原外相の方針で英国の出兵要請を拒否し、固く無抵抗を守った。領事館に派遣された荒木亀雄陸軍大尉は命令を守って無抵抗を貫いたが釈放されてから軍人としての名誉が損なわれたとして割腹自殺を図った。これを南京事件という。 

22日 日本の運命を変えた満州事変 日露戦争の勝利により日本は満州南部の関東州を租借し、ロシアから南満州鉄道(満鉄)の営業権譲渡を受けた。

昭和初期の満州には,既に20万人以上の日本人が住んでいた。その保護と関東州、満鉄警備のために一万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。 

23日 関東軍 関東軍が満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州支配を強化しようとすると、中国人による排日運動も激化した。

列車妨害なども頻発した。日本にとり北のソ連の脅威もある、南からは国民党軍も及んできた。こうした最中、石原莞爾ら関東軍の一部将校は全満州を軍事占領して問題解決する計画を練り始めた。 

24日 仕組まれた柳条湖事件

昭和6年、1931918日、午後1020分頃、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国の仕業だとして直ちに満鉄沿線

都市を占領した。
然し、実際は関東軍自ら爆破したものであった。(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。
25日 満州事変 満州事変は日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍が起した事件である。政府と軍部中央は「不拡大方針」を取ったが関東軍はこれを無視し戦線を拡大し全満州を占領してしまった。

国家の秩序を破壊する関東軍の行動であり私は残念且つ遺憾に思う。日本の運命を決めたからである。処が政党政治への不信を強め政府の軟弱な外交方針に不満をつのらせていた国民の中から関東軍の行動を熱烈に支持する者が現われ陸軍には220万円の支援金が寄せられた。 

26日 満州国建国と犬養暗殺 昭和7年、1932年、関東軍は満州国建国を宣言し、後に清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を満州国皇帝の地位につけた。 満州国の承認に消極的であった政友会総裁の犬養毅首相は1932年、海軍将校の一団により暗殺された。五・一五事件である。
27日 世界の眼 犬養首相暗殺により五年間続いた政党内閣時代は終わりを告げた。その後は世論の支持のもと、軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった。 アメリカ初め各国は満州事変を起した日本を非難した。国際連盟は満州にイギリスのリットンを団長とする調査団を派遣した。
28日 国際連盟を脱退 リットン調査団の報告書は、満州に於ける不法行為により日本の安全が脅かされていたことは認めて満州に於ける日本の権益は承認した。 一方で、満州事変における日本軍の行動を自衛行為と認めず日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。日本政府はこれを拒否し満州国を承認し昭和8年、1933年、国際連盟を脱退した。
29日 関東軍の逸脱 満州事変は、日本・中国間の対立を深めた。その後停戦協定が締結され両国関係はやや改善された。満州国は5族協和、王道楽土建設をスローガンに、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げた。

中国人の満州への著しい人口流入もあったが、実際には満州国の実権は関東軍が握っており抗日運動も起こっていた。