日本、あれやこれや その58
平成21年2月
2月 1日 | 日仏条約文から
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幕末、1868年に調印され日仏修好通商条約の原本がフランスに保存されている。 |
い筆跡だ」と感嘆する。 筆で書かれた墨の匂いが立ち上がりそうな文書だという。 教養豊かで、折り目正しい武士の気概や、他の署名した武士達の、並々ならぬ決意が読み取れるという。 |
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2月 2日 | フランス記者の日本レポート |
その条約調印のフランス側代表に同行したイリュストラシオン紙の記者のレポートである。 |
条約締結前年もフランス艦隊司令官が長崎を訪問した時も記者の記録がある。 「一目で日本人が他の東洋人より優れていることが分かる」と。 |
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2月 3日 | 日本の司令官のこと |
その記者のレポートは更に続く、 |
「日本側の最高指揮官、精悍で表情豊かな容貌とともに、鋭い視線に知的ひらめきがある。気高く、ゆったりした物腰の美男子」と絶賛もしている。 |
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2月 4日 | ナポレオン三世へ謁見の武士たち |
文久2年、1862年、パリーを最初に訪問したのは徳川幕府の遣欧使節団、正は竹内下野守、副使・松平石見守、目付は京極能登守、総勢20人。彼等は「傲然として大小を横たえ」て闊歩した。一行は、大臣訪問に出かけ、またナポレオン三世に謁見すべく、パリ中の好奇心強い者は悉く一行の姿を見た。 |
馬車の武士の服装は、江戸幕府の正式礼装である。正使は、狩衣に烏帽子をいただき、腰には鞘巻の太刀を佩く。随行員の長は、布衣に烏帽子、腰を馬の鞍の上に据え、他は熨斗目上下姿であった。 |
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2月 5日 | フランス・ロニー青年の見た日本文化 |
福沢諭吉は、幕臣という高等官のシンボルである黒漆定紋入り裏金の陣笠をかぶり、白緒であごを締め上げていた。それに白い鼻緒の草履を履き、絹の紋服に羽織袴、我こそは日本の武士なり、という姿でパリーを歩き廻った。 |
フランス人青年・ロニーは 「全く未知の文明が既成の文明に挑戦したという感じ」を受け、それだけで、「日本文明の歴史の方がフランス文明よりも古い」と洞察し日本学を志し訪日を決意したのである。 |
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2月 6日 | ロニーの悲しみ |
彼ら使節団はナポレオン三世臨御の練兵教練に立ち会う。皇帝の傍に馬を立てていた副使・河田相模守の姿は、「甲冑陣羽織、兜を猪首にかけた戦国武将そのまま」であった。威風堂々というべき日本文化を示すものであった。 |
後年、将軍名代の徳川昭武がパリー万国博で訪仏の時、 ロニーはホテルを訪ね「なぜ日本は西洋に屈したのか」と洋服姿の元武士の姿に落胆」し悲しげな顔をした。 |
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2月 7日 | 日本文明 |
日本は昭和20年敗戦しドン底から立ち上がった。そして昭和60年代には、世界の第二の経済大国となった。国民は物質的にはとても豊かになった。戦争した相手は、米国、英国、中国、オランダそしてフランスである。米国は戦後最低の経済状況に転落した。 |
現在は平成21年、敗戦後65年目である。オランダはインドネシアを失い早くから一小国、英国はポンドという基軸通貨を失い米ドルとなった。中国は、ここ数年こそ飛躍したが、戦後60年近く貧しいままであった。日本はImFに1000億ドルを拠出するまでに至った。戦争に負けたが実質的には勝利した。 |
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2月 8日 | 北京の高校生の来日 |
最近、北京の進学校として有名な第四高校の生徒400人が来日し修学旅行した。日本にきて、日本人のきめ細かいサービスやら、日本人の民度の高さに圧倒されてその引率先生のホームページに中国人の資質落差の酷さを嘆いたという。 |
実は、これは2000年前からの話なので、あの魏志倭人伝にさえ、当時の中国人が日本人の道義的資質に感心した記録がある。中世期のザビエルも、幕末の外国人も、みな日本人のレベルの高さに感動して認めている。知らないのは国史を教えない左翼・日教組なのである。 |
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2月 9日 | 日本国の不思議 |
文化庁長官をした三浦主門氏が言う。日本は世界史に遅れて登場したが、その必要性が19世紀に入るまで存在しなかったからだと。日本人は僅かに中国大陸の存在を意識する程度で、「日本的なもの」を育て、「日本の本質」を徐々に形成してきたのである。 |
然し、日本も必要とあれば、日本人は常に「その存在」を主張し、外界と見事に対応してきた。それを可能にしたのが「日本文化」であり、その中心となるのが「神道」で、前宗教的な姿を秘めながらも世界宗教に柔軟に対応しつつ、現代なお日本の民族性の中心となっている。 |
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2月10日 | 文明のルーツ |
「なぜ日本が平和で、安全で、清潔」なのであろうか。凡ての文化遺産というものは、その「風土」と人間との交渉の産物である。 |
「文化」は英語でカルチャー、カルティベート、即ち耕作することを語源としている。人間が大地に力を投じて耕し、勝ち取ったものが「真の文化」である。 |
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2月11日 | 日本文化論あれこれ |
戦後の日本では、多くの「日本文化論」が出された。ベネディクトの「菊と刀」、中根千枝の「タテ社会の人間関係」、土居健郎「甘えの構造」。 |
ベンダサンの「日本人とユダヤ人」、李御寧は「縮み志向の日本人」などなどである。ユニークな視点で過去の常識を超え意表を衝く日本文化論であり、日本文化の本質を見事に分析している。 |
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2月12日 | 水と安全 |
日本人は「水と安全」はタダだと思っているというベンダサンの指摘は、ユダヤ人の住むあの乾極のパレスチナの風土の民族性と、湿極に日本の島国的風土との比較から容易に納得できる。 |
国際化の拡大と技術の大発達により、この日本の地政学的環境が破壊されつつあるのに、依然として日本人の意識が過去のままだという不幸が存在し日本は危険領域に入っている。 |
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2月13日 | 文化の母 |
日本のタテ社会が家族制度を生み育ててきた。集団性社会の甘えの構造も、また日本文化の「恥の構造」も、多神教である日本の「神ながらの道」も、凡てこの風土から必然的に由来したものである。 |
風土とは「文化の母」なのである。独特、特殊の風土を持つ日本だからこそ、風土に立脚した文化論が大切であり世界に説明しなくてはなるまい。 |
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2月14日 | 日本の知恵 |
長い民族の歴史を経て、日本の大地に根ざし成育を遂げた日本の文化であり、決して一朝一夕に生れたものではない。それなりの必然性があって生れたものであることを忘れまい。 |
殆どが凡て、「経験的、合理性」の上に成立したものだ。 「存在しているもの」、「歴史に耐えてきたもの」は充分の科学的合理性を備えている。迷信だ、タブーだと言われるものもその発生の風土的必然性が解明できるのである。その謎が解けた時、「日本人の知恵の聡明さ」に今更ながら驚くことが多いのである。 |
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2月15日 | 農耕・牧畜文化 |
太古から日本は農業を生産の中心としてきた民族である。現代は、世界最高の農産物から、最先端の技術・物作り大国となり世界に冠たる存在である。 |
農耕文化の国・日本は、北ヨーロッパから生れた欧米の狩猟牧畜文化と区別する。農耕と牧畜、民族を取り巻く風土の環境により規定される。 |
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2月16日 | 風土の差 |
北欧は、農業に最も必要な太陽の恩恵が少なく、土地は氷河の作用により岩石が剥き出しており土壌が薄い。従って氷河の残した沼沢地が多く農業に不向きである。 |
そのような風土で生きるための生活の糧は、狩猟や牧畜に依存するしかない。日常生活の凡てを動物に頼る肉食民族と、日本人のように総てを植物に頼る草食民族とでは、生活様式、宗教、思想、文化に決定的相違が出るのは当然である。 |
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2月17日 | 食文化の相違 |
欧米人は、肉を主食とするため、当然、動物を殺して毎日、血を見て暮らし平然としている。狩猟では、動物をワナやオトリを仕掛けて騙してと捕らえる。その残虐性や謀略性は自然に涵養されている。 |
日本人が羊や牛のように草食だから、おとなしいのであるが、欧米等の肉食人種は、虎や狼のように闘争的になるのはこの為である。風土のなせる所産である。 |
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2月18日 | 着るものの相違 |
欧米人と日本人の相違は、洋服と着物であろう。欧米人は羊の毛をむしり取ったり、動物の毛皮を剥がしてまとう。また革の化けたもの、即ち靴を履く。帽子も毛皮から作る。 |
日本人は、木綿や絹を着物にしたり、藁や蓑を編んで着ている。日本人は草鞋や下駄など植物性のものである。日本人の帽子は麦藁帽子のような植物性である。 |
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2月19日 | 日本人と欧米人の文化比較 |
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2月20日 | 奴隷制度 |
白人の動物的発想は、労働は牛馬にまかせ、異民族を戦利品として強制連行して牛馬の労働を強いる奴隷制度を生み出した。 |
日本では、いかなる人間をも、牛馬のような人家畜の奴隷にする習慣も持たず、奴隷という言葉も無かった。 |
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2月21日 | 自然に対する考えた方の比較 |
これは日本人と欧米人と相反している。彼等は過酷な自然環境に囲まれているので、自然とは対立するもの、征服しなくてはならぬ対象として見る。 |
日本人は自然を生きる恵みを与えてくれるものとして感謝し尊敬し、調和して暮らしてきた。 |
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2月22日 | 日本だけなかった |
近代文明国の中で、奴隷制度を全然知らないのは日本だけであろう。古代に奴婢という最下位の階級、賎民はあったが、下働きの召使ではあっても、どこまでも人間であった。 |
牛馬と同じ家畜とみなしてむごく扱うことはなかった。これは人類史上、大いに誇ってよいものであろう。 |
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2月23日 | 宗教の相違 |
白人は、排他的で、独裁的な征服欲的思想を持つキリスト教やイスラム教のような「一神教」になる。西洋では自然に対して高い姿勢、傲慢な態度で立ち向かう。 |
日本は、自然に逆らわず、自然の中に神を見て畏敬し、自然と一体になろうとする寛容な思想の神ながらの道、多神教の神道になる。 |
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2月24日 | 庭園の相違 |
石を見ればすぐ彫刻したり、規格統一して並べたりして人間の偉大さを誇る。 水は引力に逆らって噴水を上げる。人工的な直線や円を描いて幾何学的な庭園を造る。不自然であり自然の生きた心がないから、風情とか幽邃・幽玄さを感じられない。西洋は「自然に逆らう文化」。 |
日本では自然に対して、低い姿勢、謙虚な態度で受け入れる。 日本では、石を河原から拾ってきたままの姿で庭に置き、重く安定した石庭を楽しむ。 日本庭園は、水は上から下へと泉水や滝を作り自然のあるがままである。 日本は「自然に従う文化」。 |
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2月25日 | 壊れない文化・消える文化 |
西洋は「石の文化」と言われる、硬くて美しい大理石、石灰岩をふんだんに産出するからだ。フランスだけで150種の大理石が出るという。莫大な石の芸術として博物館や街の広場で出来上がったのだ。 |
日本建築は、土台が土や泥である。岩石が得にくく植物は富む日本、だが地震と台風、高温多湿だから、その対策として、木と泥を材料として低い家屋となった。風土対策の民族の知恵なのである。 |
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2月26日 | 石の文化の有様 |
石の巨大な造営物で埋まった西洋の街、木の脆さ、みすぼらしさに比較して、重厚、豪華、重量感で圧倒される。石が本来持つ、永久不変性、規格性、非融通性に他ならない。石の芸術は一度つくつたら兵火に耐え何百年後の子孫に受け継がれる。 |
古代の石畳が中世、近世を経て現代人の生活の中に生きつづけている。これは驚きであり不便でもある。石の家は、やわらかさ、暖かさがなく非生物としての冷たさ、牢獄のような暗さがある。石の永遠性は非情さはあっても、命有るものだけのもつ、風情とか情緒は全く感じられない。 |
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2月27日 | 消える文化 |
西洋はこのような、壊れぬ文化と言える。日本のは、木とか泥とか植物を中心としたものだから、何れは消えてゆくものである。西洋はストックはあるが、日本にはフローしかない。 |
消える文化は、その様式、伝統を伝えなくてはならぬので、心や精神はいつも緊張しなくてはならない。伊勢神宮が20年ごとに式年遷宮で甦るということは、「心が千年も前の神ながらのまま伝わっている」ことになるのである。ここに素晴らしさがあるのだ。 |
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2月28日 | 物質文明 |
西洋を物質文明の国というのは、豊かに物質があるというのではなく、環境条件が乏しいから意識的に補うため物質文明を作り上げたのである。 |
つまり自然の乏しいことの裏返しが物質文明の原動力となったのだ。 反対に日本は、自然が豊かすぎたからこそ、精神文明へと特化したのである。 |